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学校で小論文とか書いてたら、体言止めはダメと言われます。

これってみなさんとこでも一緒ですか?

もしそうなら、そもそもなぜ体言止めはいけないんですか?

A 回答 (5件)

小論文(とか、と書いてありますが、ここでは「小論文」について書きます)は、ものを論ずる文章です。

ですから、「である」「だ」以外は書かないものなのです。論ずるわけですから「思う」もだめです。体言止め、というのは、一文として論をなしていないわけですから、まったくだめということになります。

習慣とか文化には関係ありません。もともと論文というのはそういうものなのですから、それがどうしても嫌であるなら、落ちる覚悟で書き続けるか、妥協するかどちらかしか道はありません。

(ちなみにこの文章も「小論文の文体」について論じたので、体言止めや「思う」は避けてあります)
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 私は、杓子定規に「小論文では、体言止めはダメ!」とは考えませんが、避けるのが賢明だと思います。

また、もし指導する立場に立つならば、「ああ、体言止めですか、気にせずにどんどん用いて表現効果を高めましょう」とは決して言いません。

 先の回答者の方も触れていらっしゃっいますが、文学作品なら、体言止めも、余韻余情を込めて読者の情感に訴えるのに効果があります。
 しかし、「小」が付くとはいえ、「論文」です。主張したいことが明確に伝わるように書くべきです。

 たとえば、
  「春は、あけぼの。」(『枕草子』)
 随筆ならこれでいいでしょう。しかし、
 「景気対策は、定額給付金。」
で始まる小論文を好感を持って読み始める小論文採点者はあまりいないでしょう。
 字数を費やすことにはなりますが、
 「私は、景気対策には定額給付金の支給が最善の方法だと考えます。」
というような形で始めれば、採点者も(内容の是非はともかく)「ふむふむ、それで?」とスムーズに読み始めてくれるに違いありません。

 もちろん体言止めを用いながら、論旨の明瞭さをそこなわない書き方も可能でしょう。けれども、それはいわば名人芸とか職人芸のたぐいであって、高校の(ですよね?)小論文の指導で、生徒に勧められることではありません。
 たぶんあなたの学校の先生もそういう考えで指導していらっしゃるのだと思います。
 
 プロ野球のソフトバンクの王貞治元監督は、現役時代「一本足打法」でホームランを量産し、偉大な記録を樹立しました。(最近の例をあげるなら野茂投手の「トルネード投法」でしょうか。)
 野球の指導者が選手にその「一本足打法」での打撃を勧めることはないと思います。バランスを崩してうまく打てないのが目に見えています。平凡でもセオリーにかなったフォームを勧めるはずです。

 あなたに体言止めを効果的に使いこなすだけの力量がおありになるのならば、(多用はおやめになった方がよいと思いますが、)ここぞというところでお使いになるのはいいと思います。もしそうでないならば、「生兵法(なまびょうほう)は大怪我(おおけが)の基(もと) 」です。


 それから、

> 文化は時代と共に変化します。言葉も時代と共に変化します。体言止めを使う使わないだって、好き勝手やってなにがだめなんでしょうか。

についてですが、確かに言葉は変化します。しかし「論文に、あいまいな表現は不適切である。」という原則は、変化するのでしょうか。

 たとえば、紀貫之の「古今和歌集仮名序」」は「歌論」と言ってもよいと思いますが、今読み返してみると、「その六種の一つにはそへ歌。……二つにはかぞへ歌。」と歌の種類を列挙している部分以外に、体言で終わっている部分はありません。(句点でなく、読点にしてもいい箇所だと思います。)(※2)
 
 ご質問の

> 学校で小論文とか書いてたら、体言止めはダメと言われます。

の部分で「小論文『とか』」とお書きになっていますが、小論文以外でも体言止めはダメと言われるのでしょうか。「小論文『を』」ではないのでしょうか。他の文章でも同じことを言われますか。短歌や俳句を作ってこいという宿題に、「ただし体言止めはダメ」という条件が付きますか。そうではないでしょう。

 No.1の回答へのお礼で、

> え、禁止!?って感じですよ、こっちは。

とお書きになっていますが、このおっしゃりようは、ドレスコード(※1)があって、ネクタイ着用が求められている店で、「Tシャツは元は下着、ジーンズは元は作業着、しかし今は街着として十分に通用する。ネクタイなしで何が悪い。」とおっしゃっているのと同じような気がします。

 小論文には小論文なりの「ドレスコード」があるとお考えになった方がよいと思います。そして、大学にお進みになると、「小」の付かない「論文」には、たとえば参考文献の示し方等、もっと煩瑣なドレスコードがあります。

※1 ドレスコード
http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/w006 …
※2 これとは別に、結びの省略と思える表現が一箇所ありました。当然あいまいさを含む表現ですが、貫之自身の業績に言及した部分であり、「省略」で間違いないとすれば、書き手の心理の現れた興味深い部分だと言えます。年が明けたら図書館へでも行ってもう少し調べてみたいと思っています。)
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頭ごなしにダメといわれるのは誰でも嫌なものですね。



その気持ちはわからないでもありませんが、
学校で小論文を書くのは、書けるように練習するということですから、
「体言止めなしで書く練習」をして、その能力を身につければいいんです。

論文は和歌や俳諧ではありませんから、
体言止めで余情や余韻をもたせたりするのはふさわしくないということだと思います。
論文は論文のスタイルで書いた方が説得力も倍増するはずです。
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次の質問・回答も、このテーマと関連しますので、ご参照ください。



http://okwave.jp/qa4463582.html
研修の資料などでよくある文章の語尾


 平安時代の文は普通、用言(活用語)の終止形で終りますが、口語では次第に体言で終る文が増え、それにつれて用言で終る文も連体形準体法で終るようになります。ただ体言で終るといっても、大抵は文を和らげるために終助詞を添えます。鎌倉・室町期には
  これは花ぞ。 山の見ゆるぞ。
のようになります。連体形準体法が当たり前になると、連体形が新しい終止形になって、新しい形の、用言で終る文が成立します。
 江戸時代の後期になると江戸で新しく体言で終る文ができます。用言で終る文は形式名詞「の」を添えて体言化します。
  これは花さ。 山が見えるのさ。
そして東京になって1890年頃には若い男女は文末に「よ」「ね」「わ」を付けたり、「の」で終る場合には何も付けなかったりします。
  これは花よ。  山が見えるのよ。
  これは花ね。  山が見えるのね。
  これは花よね。 山が見えるのよね。
  これは花だわ。 山が見えるわね。→山がみえらーね。
  これは花なの。 山が見えるの。
しかし、なぜかこれらは「女・子供のいいぐさ」と見なされるようになります。このころ起った言文一致運動の結果、書き言葉が「文語」から「口語」に変わりますが、「体言で終る文」は書き言葉には取り入れられませんでした。
 最近は、女性は「女言葉」を性差別の象徴とみなして使わない人が増え、一方で男どもは「女言葉」を使うと男に馬鹿にされ、いじめられるので相変わらず使おうとしません。
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こんばんは。



論文の場合は、体言止めをせずに、「である」などをつけるのが習慣になっています。

「習慣」というところが味噌です。
手紙の書き方にマナーや決まりごとがあるように、論文にも同じようなことがあるわけです。
ですから、「なぜダメなんですか」と言ってもしょうがないことではあります。


追伸
「体言止め」の正しい意味は、こうです。

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C2%CE …

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E4%B …


以上、ご参考になりましたら。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そんな習慣いらなくないですか?

文化は時代と共に変化します。言葉も時代と共に変化します。体言止めを使う使わないだって、好き勝手やってなにがだめなんでしょうか。

「個人的に体言止めは好きじゃないな」と言われるのならまだしも「ダメ」ですからね。

え、禁止!?って感じですよ、こっちは。

お礼日時:2008/12/29 00:53

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