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長州藩は正義派と俗論党という2つの勢力が二大政党のようにあり、八・一八政変までは正義派、つまり攘夷派が優勢だったというところまではわかりました。

ところが、八・一八政変の起きる前に長州の尊王攘夷の若手エースの吉田松陰が安政の大獄で殺されてしまいます。
長州藩はなぜ彼をかばわなかったのでしょう。
長州も松陰を投獄していましたが、その理由は武士らしくないからと聞きます。その理由からでしょうか。


また、松陰の評判がここまでよいのはなぜでしょう。
彼の攘夷論は普通の攘夷論と違うと聞きましたが、どう違うのでしょう。

A 回答 (4件)

#3の補足です。

「吉田松陰 投獄 藩主」を入れると、「生い立ち」を含めて種々ヒットします。
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二回目の投獄は、老中を襲撃する計画で、これは単独暴発的で無計画なものである。

藩内の支援者も無かった。しかも、井伊大老に知られては、長州藩も庇い切れないのでは。弟子の高杉などは、該計画を制止したと言われる。その経緯は下記の年表を参照のこと。

参考URL:http://www.urban.ne.jp/home/hashi129/rekishi/syo …
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この回答へのお礼

サイトが見れません。。。。
老中を襲撃!いったいなにを考えていたのでしょう。
ある意味、日本60~70年代左翼運動を思い浮かべます。。。。
(思想だけが先走り無計画という意味で)

お礼日時:2003/02/24 01:35

藩がかばいきれなかったのではないでしょうか。



吉田松陰は、安政の大獄のあおりで江戸に送られて、牢死します。
あの時は、幕府と大老井伊直弼の権力が絶大であり、長州藩だけ
ではとても対抗できませんでした。

さらに長州藩は、薩摩藩や佐賀藩のように二重鎖国制度を
とっておらず、幕府の密偵の目を誤魔化すことが困難であった
ということもあるでしょう。

これに対して薩摩の西郷隆盛も、安政の大獄のおりに幕府
から引き渡し要求がくるのですが、薩摩藩は二重鎖国制度
をとっていたため、西郷を死んだことにして島流しにする
ことで西郷の命を助けることができました。
|薩摩藩に幕府の密偵がなかなか忍び込めないことは、
|行ったっきり帰ってこない薩摩飛脚という言葉に
|あらわれています

なお長州藩が吉田松陰を牢屋に投獄した時ですが、あれは
確かペリーが来たときに鎖国の禁をやぶって密航しようと
したのが暴露したためかと思われます。
幕府に対する体裁もあるため、禁令をやぶった吉田松陰を
投獄せざるを得なかったと解釈しています。
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この回答へのお礼

なるほど。密航しようとしたり、何をするかわからない。しかも、snowbeesさん紹介のサイト参考にすると、正義派にとっては攘夷というテーマでは同じでも、松陰はあくまで藩主に忠誠ということで、合議派の藩重臣としては松陰はうざったい存在だったのかもしれませんね。
その辺はどうなんでしょう。

藩には嫌われてたんでしょうか、そんなことはないんでしょうか。

お礼日時:2003/02/24 02:13

1)下記ウエブによれば、幕末において、全国に有名な思想家は、梁川聖顔であって、地方のみの吉田松陰ではないと。

松蔭は、後継者が出世したので、有名になったと。
2)松蔭の思想については、下記ウエブで、「藩主中心」であって、「勤皇」とは違うと。

http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/thesis_01. …

参考URL:http://www.nri.co.jp/mailnews/s_column/column18. …
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この回答へのお礼

なるほど!松陰を有名にしたのは後世だったわけですね。
梁川聖巌ですか、知りませんでした。

お礼日時:2003/02/24 02:05

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