チョコミントアイス

 こんにちは。

 西郷隆盛の「征韓論と呼ばれているものは、その内容として、本当は遣韓論だったのか?」ということで友人と揉めています。
 私は南洲さんの人柄に親しみを持っており、「遣韓論」を支持しているのですが、友人にすると、「侍で当時権力を握っていた薩長閥にある西郷が融和策を採るはずがない。大久保と反駁したのはその他に理由があって、ふたりとも本当は後のいわゆる江華島条約のような形で朝鮮と国交を確立したかったはずだ。でも表面上、大久保とは対立しなければならないからキレイゴトとも取れる案を立言した」と言うわけです。また、岩倉具視も深く関わっており、その関係とも複雑に絡み合っている。とのことです。

 実際、この「征韓論・遣韓論」は結局どちらの認識が正しいのでしょう。トリヴィアリステックなことでも結構ですので、よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

西郷と大久保の関係だけで、明治政府の動きを解釈しようとする態度は、正しくないのでは?


西郷政権は、近代化の種をまくのが第一の目的でした。そのために、近代化を邪魔するかもしれぬ連中(岩倉など)を欧米へ追っ払ったわけで。派閥の論理で動いていたなら、あれほど佐賀の人たちが目立ちは、しなかったでしょう。薩長の権力よりも、日本の近代化が最優先。
それなのに、勝手に戦争を始めるなど、もってのほかです。長期間、外国へ軍隊を送るお金が、どこにあるんですか。政治家としての西郷は現実主義者なので、征韓論に賛成しなかったのは当然だと思います。
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相手から見た場合、どちらも50歩100歩でしょう。


直接軍事的に来るか、一度外交的圧力をかけてから来るかの違いでしかないでしょうから。
しょせん「征韓か遣韓か」は、言葉遊びでしかありません。
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 征韓・遣韓・訪朝の虚実 ~ Diary 20070109 ~
 
 山拓が、北朝鮮に4泊5日の長逗留に「単独行動で」出かけるという。
 首相も官房長官は「知らない、望ましくない」とうそぶく。
 マスコミも「そんなはずはない。ふしぎだ」と首をかしげてみせた。
 
 かつて“征韓論”をとなえた西郷隆盛も、単身のりこむと云った。
 いろいろ難癖をつけ、云うことを聞かなければ「腹を切る」という。
 そこで、遺骸を引きとるため、弔い合戦をぶっぱじめるという構想だ。
 
 さすがに、まわりの者が呆れて止めたが、西郷の真意はつぎのとおり。
 維新によって士族は失業した。とくに半農半兵の薩摩藩が困窮した。
 兵士の失業を解決するのは、開戦しかないので、あとで理由をつける。
 
<PRE>
 西郷 隆盛 元陸軍元帥 18280123 鹿児島  18770924 51 /切腹/文政10.1207
 松本 清張    作家 19091221 福岡 東京 19920804 82 /~《日本の黒い霧》
 山崎 拓  衆議院議員 19361211 福岡          /自民党元副総裁
</PRE>
 
── 西郷先生は固より一死を覚悟した。而して若し此事に死せば、自
ら最善の死所を得たものと確信した。故に先生は寧ろ死せんが為めに、
奮うて此任に当らんことを申し出でた。乃ち先生の志亦悲壮と云はねば
ならぬ。── 徳富 蘇峰《大久保甲東先生》P16
 
── 西郷は板垣退助への手紙で云っている。(略)韓国政府のことだ
から全権大使を「暴殺」(斬殺)するであろうから、それを理由に政府
は出兵すればよい、その全権大使にはぜひ自分がなって赴きたい。
 
── 西郷は倒幕までは素晴しかったが、建設された組織の運用には弱
かった。かれは破壊には強かったが、建設された組織の運用には弱かっ
た。それもひっきょうは西郷が近代化についてゆけなかったからである。
── 松本 清張《史観宰相論 198012-19850825 文春文庫》P15-19
 
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西郷隆盛について語るには、西郷隆盛についてある程度理解していないと、質問者の方の友人のような答えが返ってきます。


もっとも、世に出回っている歴史書のかなりの割合が、そのような記述であることも一因なのですが。


>侍で当時権力を握っていた薩長閥にある西郷が融和策を採るはずがない。

ここの見解がまずおかしいですね。明らかにこれは自分の考えであって、西郷だったらこうしただろうという観点が抜けています。
西郷は幕末から明治にかけて多くの戦争に関わりますが、彼自身は交渉で戦争を回避できる可能性があれば、極力交渉で決するように進めています。
例えば第一次長州征伐もそうですし、また戊辰戦争の江戸城開城もそうです。


>大久保と反駁したのはその他に理由があって

当時の西郷には、大久保と対立する理由は何もありません。
征韓論論争では、大久保の方が征韓論反対派に担ぎ出されたのが実情です。


>でも表面上、大久保とは対立しなければならないからキレイゴトとも取れる案を立言した

西郷の歩みをきちんと調べれば、西郷がこの手のキレイゴトという案を数多く実行してきたことがわかります。
寺田屋騒動の時には、藩の待機命令を無視して、西郷自ら京都の過激派の元に単身で乗り込み、相手を説得します。

江戸城開城の際、わずかな供回りだけで江戸に赴いて勝海舟との会談にのぞみ、これを成功させたことは有名な話です。

こういう西郷の行動をかんがみると、西郷は本気でソウルに軍隊なしに乗り込み、朝鮮国の王と差しで会談する腹ではなかったかということは容易に想像できます。

しかし、こういう西郷のいさぎよい行動を、すべての人間が理解できるとは限りません。
人は大なり小なり、自分の器で他人を量る生き物ですから、こういう捨て身の精神で生きた西郷の精神を理解できないのも、ある意味仕方がないでしょう。

友人には「自分の小さな見識で物事を見るな。西郷隆盛についてきちんと学び、その西郷の立場に立って物事を考えてみろ」と主張すべきでしょう。
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