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誰が思い浮かびますか?
私は
結城秀康→関が原前の所領は下総結城10万石、関が原では北方の上杉を牽制した以外たいした戦功も無かったが、戦後一躍越前北ノ庄67万石の太守に。
しかし、当方の前田家への備えや家康の次男そして彼の優れた器量を以ってすれば妥当かも。

池田輝政→関が原前の所領三河吉田15万石、戦後一躍播磨姫路52万石の太守に。ここまでは良しとしても、その後備前,淡路を加増されて、92万石。家康の婿である事が幸いしての事ながら、関が原以降の戦跡,器量等を考えたら、あまりにももらいすぎ。結城秀康同様、大坂の豊臣家への抑えの意味合いも有ったのでしょうが・・・

A 回答 (6件)

前田利家



おやじ様裏切ったこと以外たいした功績なし
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
加賀出身者にとっては耳の痛い限りで・・・・・・
賎ヶ岳以前は能登一国から秀吉に取り入ってから一躍加賀半国,能登,越中の太守に。

お礼日時:2009/04/24 20:01

山内一豊ではないでしょうか。


関が原の戦いでは、戦っていないし、
所有していた掛川城を家康に明け渡したぐらいですから。
しかも、城を明け渡すと考えたのは他の人だし・・・
他人の考えを聞いて、自分が最初に実行しただけですからねぇ。

で、土佐一国をもらってる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
山内一豊・掛川6万石→土佐24万石
その城明け渡しの提案者
堀尾忠氏・親父殿の隠居料府中6万石と遠江浜松12万石を併せて18万石→出雲・隠岐24万石

確かに。

お礼日時:2009/04/25 12:11

ご質問と同趣旨のブログ記事がありましたよ。


http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/cat_5 …

「宇都宮を守っていた」蒲生秀行の宇都宮12万石→会津60万石はすごい加増ですよね。

池田輝政と同様、「家康の『実の娘』の婿」という理由もあっての厚遇でしょうか。
「家康の養女の婿」は大勢いますが、「家康の実の娘の婿」は、
奥平信昌
池田輝政
蒲生秀行
この3名のみと思いますので。希少価値がありますよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
家康11男5女、5女のうち2人は早世していますね。
蒲生秀行の48万石加増も破格ですが、後には跡継ぎ無く取り潰され、三女は広島の浅野長晟と再婚したのでしたか?

お礼日時:2009/04/25 12:17

むかつきますよ!


留守番してて4万石から25万石ですよ ーー;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0% …

こいつ何もしてませんよ! ーー;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E% …

こいつなんか、戦わずに講和結ぼうとしてますよ!
ぐーぜん!ぐーぜんこうなっただけ! ーー;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A% …

ぎゃーぎゃーぎゃー!! ーー;
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武功が全くといっていいほどないという点において、本多正信だと思います。

家康の家臣ですが、一応大名でもあります(譜代大名てやつですね)。ただし、石高だとせいぜい2万石くらい。「なんだ、たいしたことないじゃん」と思いますが、手にした権力がハンパありません。最終的に天下を取った家康の側近中の側近、しかも謀略担当で、合戦で首を取らなくても、謀略でぶっ潰した武将数知れず(石田三成も広い意味で入れてもいいかもしれません)です。
福島家や蒲生家などは、一時的に貰ってもその後家康の謀略というか、取り潰されたりしていますからなんというか、「持ち上げておいて、落とす」という一番キッツイ扱いですよね。

「これといった武功も謀略もなく、幕末まで家名を保った」という点においてはやっぱり山内一豊じゃないですか。出世も、何かでかいことやってドカーン(例・加藤清正)というものでなく、コツコツしたもので実にサラリーマン的です。それが土佐という超僻地(今でも最も貧乏な県のひとつ)とはいえそれなりに大きな大名となったんですからね。出てくる話といえば奥さんまわりの話か、土佐行って住民が反発したから弾圧したとかそんなもんばかりです(関ヶ原前夜のあの発言がある程度かしら)。
「コツコツ真面目に働いてきて、グループ企業の地方の子会社の社長にまで登りつめた」という点においてサラリーマンの星かもしれませんわね。
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武田信吉:家康の子供ですので「藩屏」としての高禄ということで妥当でしょう。

なお、信吉は若くして死んでしまいましたので人物像を知る資料が残っていないはずです。

浅野幸長:豊臣恩顧の将でありながら率先して家康に味方したという点でそれだけで功績大です。関ヶ原の合戦前夜、西軍の勢いを大きく殺いだ岐阜城攻めでは勇戦しています。

関ヶ原の合戦では、岐阜城攻めの布陣がそのまま野戦に移行した形で陣立てが行われたようです。
岐阜城攻めの大手口を攻めた武将:福島正則など→東軍の先鋒。西軍主力に当たる
岐阜城攻めの搦め手口を攻めた武将:池田輝政など→東軍の後衛。南宮山の毛利軍他に当たる
となっていたようです。
浅野幸長は岐阜城攻め搦め手組→関ヶ原の後衛に回ったと記憶します。小早川の寝返りで西軍が壊滅して合戦が終わったため、東軍後衛は結果としては関ヶ原では全く戦っていませんが、あくまでも「結果論」です。

最上義光:上杉景勝が宇都宮の結城秀康を主将とする東軍に攻めかからず、米沢方面から出羽に侵攻したのを激しく迎撃しています。
上杉軍の主将は直江兼継でしたので、現在放映中の大河ドラマ「天地人」でいずれ詳細に描写されるでしょう。
上杉家は関ヶ原の合戦当時は、現在の福島県の大部分と宮城県の南部(白石より南)と山形県の米沢盆地を領していましたが、さらに飛び地として山形県の庄内地方を領していました。
出羽への侵攻は「最上家を潰して現在の山形県全域を領地化し、庄内の飛び地を解消する」のが目的だったようです。天下分け目の戦いに際してずいぶんセコい考え方ですが…
この辺の上杉家の行動はどう見ても「格好悪い」ので、大河ドラマでどう糊塗するのか楽しみです。(笑)

直江兼続より劣る20万石程度の身代で、上杉軍に対して圧倒的に劣勢な最上義光が奮戦して上杉軍を防いでいる間に、関ヶ原の合戦での東軍圧勝の報が届き、上杉軍が米沢に撤兵したわけですが、最上の戦いぶりは見事であったと評価できるでしょう。
「最上義光が何もしていない」というのは、義光に対してあまりに失礼だと思いますが?

最上の3倍の兵力を持ちながら、伊達政宗は上杉領に攻め入って宇都宮への圧力を軽減するわけでもなく、白石城を奪取したのみで「何もしない」状態でした。そのため伊達は「百万石のお墨付き」を取り消されて「白石城周辺の領有を認める」だけの僅かな加増に留まりました。家康はちゃんと見ていたようです。
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