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▼水戸学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8% …

水戸学と言えば、天皇家を日本の君主とする思想です。
水戸家と言えば、徳川姓を名乗る御三家の一つであり、数ある大名家の
中でも名門中の名門です。
この水戸家発祥の思想である「水戸学」が尊皇攘夷思想に大きな影響を
与えて幕府を滅ぼす勢力の原動力となってしまったという事実は、
歴史の皮肉ではないでしょうか。

さて、質問です。
水戸において、このような学問が発達した経緯とは何でしょうか?

徳川家の先祖が新田義貞との関連があり、義貞が仕えた後醍醐天皇を
正当化しつつ、徳川の前の時代の足利を否定するという思惑があったとの
説明がなされる事がありますが、では、「なぜ紀伊や尾張じゃなく水戸
なのか?」という疑問に対しては説明不足な気がします。

「「水戸学」は、なぜ水戸で成立したのか?」の質問画像

A 回答 (4件)

水戸学とは簡単に言えば「尊王思想」であり、「将軍は朝廷に代わり政治を行っている代官に過ぎない、なのでもし将軍家が朝廷に弓を引く時は将軍家の命には従わない」と言う感じだったと思います。



水戸が尊王に染まったのは2代藩主光圀からですが、光圀が尊王に染まった理由は敢えて省きます。

尾張、紀州ではなく水戸で何故そのような思想な根付いたかと言うことですが、将軍家の影響をあまり受けなかったと言う事が水戸学が発達した要因だと思います。

つまり、紀州家は徳川吉宗が将軍となって以来、紀州家と将軍家は親密な関係が続き、そのため当然ながら尊王思想は生まれる要因はありませんでした。

尾張家も藩祖義直は尊王思想を持っていたのですが、御三家筆頭と言う事で将軍家に一番近い家と言う事で尊王思想は影を潜め、その後、吉宗が将軍となって宗春の代に将軍家と関係が悪化したものの、義直の系統は宗睦で絶えてからは将軍・徳川家斉の系統が養子として入り、 こちらも紀州家同様に将軍家との関係が密となり、義直の尊王思想は尾張家のは残らなかったのではないかと思います。

水戸家は将軍家からの養子を受け入れていないので、将軍家との関係も他の二家に比べると疎遠で、そのため光圀の思想が強く残り結果として水戸学として残ったのではないかと考えます。
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>水戸において、このような学問が発達した経緯とは何でしょうか?



・御三家において別格扱いされ、水戸の権威付けのために朝廷権威を持ち上げる必要があったから
・水戸というよりも、『常陸』という単位で古代史において特異性のある地域であること(鹿島宮司家・多氏の伝承など)

 早い話が、水戸の立場は御三家でも特殊だったことから、幕府に依存しない政治哲学性を求めていたと考えられます。
 
参考文献URL紹介します。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831508 …
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御三家とは


江戸の将軍家、尾張家、紀伊家の三つだ。
という言い方もあったり、
駿河 尾張 紀伊の三大納言家を言うという言い方もあった。
水戸家が御三家として明確になったのは6代将軍のころから。つまり光圀存命の頃は明確に御三家ではなかった。
言い方を変えると、光圀のスタンスは「水戸だって、尾張・紀伊と並ぶんだ!」というがんばり。
そのがんばりエネルギーが歴史に走ったようです。
歴史は、言い方を変えると『今の自分の正当性』の証明の営為です。

逆に言えば、尾張や紀伊は頑張らなくてもよかったから、歴史研究する必要がなかったということになります。
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水戸藩の成り立ちを考えると判るような気もします。


『徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。』
『領国の石高は実収が25万石程度であったが、御三家の格式を気にして高直しをした結果、
公称は38万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。』
『御三家であっても水戸家からは将軍は出さない原則であった。』
『尾張家・紀州家から見ると、極官の官位が低い(他のニ家は大納言だが、水戸家は権中納言)』
『「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」といった家伝あった。』
『水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代藩主には漢風の諡号が贈られている。』
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開祖頼房が政治の中枢から外されて、儒教に傾倒した。
儒教を極めると徳川幕府の成り立ちがおかしく感じられる。
将軍補佐役とは名ばかりの官職で将軍家に対して恨みがあった。
などから、紀州、尾張家ではなく、水戸家にそういう思想が起こった
という理屈は一応は成り立つと思います。
(本来、徳川家にそういう思想が成り立つこと自体は奇異を感じますが)
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