『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

このたび『知の欺瞞─ポストモダン思想における科学の濫用』という書をざっと読みました。
そしてわたくしが哲学カテで始めて回答(noname#76229)を寄せた「哲学と言葉」という過去の質問を思い出しました。

その回答では少し他人と異なった見解、つまり哲学カテにてあえて「数学・科学」の合理性を示そうと『黄金比はすべてを美しくするか?』という書物を引用させていただきました。
これは古代のパルテノン神殿やオウムガイの殻やひまわりの種の配列、はたまた音楽、文学作品に至るまで、ともすると「絶対視」されかねない「黄金比という伝説」がどこまで妥当であるか、を宇宙物理学者である著者が検証していくものです。
黄金比を必要以上に賛美せず、懐疑的な眼差しで丹念に考察していく著者の真摯な態度に大変好感が持てました。

ですが『知の欺瞞』は先の書物以上に高価であるのにはたして購入した価値があったのか?と思うほど、どこか不毛なニュアンスを感じてならないのです。
確かにソーカルの言い分も愚鈍なわたくしなりに理解できたのですが、単なる「メタファー」「アナロジー」としてポストモダンな思想家たちが用いていることに対し「知の欺瞞」というほどのひどく酷いものだったのかな、と思うのです。

まあ、ナンセンス極まりなく思わず笑みがこぼれるようなテクストであっても、読み手側がその裁量でそれなりに哲学思想の「ゆとり」と捉えたり、クエスチョンマークをつければよいのではないでしょうか。
それをわざわざパロディー論文の作成・掲載をするなどという行為は、いかにもアメリカの「おとり捜査」の「わな」を想起させて(厳密にはおよそ異なるものですが)、せっかくのおもしろい問題提起(警告の意図)が逆に「えげつない悪趣味」のようにすら感じてしまうのです。

つまりポストモダンの思想家たちは、自身にも定かではない或いは表現し尽くせない何か思いや未知の可能性を秘めて、自然科学の用語を「濫用」しているのだろうなあ、とナンセンスな箇所を軽く受け流せば済む話ではないでしょうか。
はたして巷で言われる「混乱」に陥れる類のものだったのでしょうか。

むしろ「人文科学と社会科学の多くの研究者が感謝の手紙をソーカルに寄せ、彼らの分野の大きな部分を支配しているポストモダン的な潮流や相対主義的な傾向は受け入れられないと書いてきた。中には、心動かされる手紙もあった。ある学生は、彼の学資が王様の着物に費やされていたと感じると言ってよこした。その王様は、例の寓話にあるように、裸だったのだ。同僚も自分もパロディーに興奮したが、そのことは秘密にしてほしいと言ってきた人もいる。(p3)」と大騒ぎする人々に大変興味がいきました。
彼らはポストモダンを生業としているためそれほど大騒ぎしたということなのでしょうか。

みなさまは、はたして哲学思想において比喩としての用途に「自然科学の用語」を用いることはソーカルの説く「知の欺瞞」「自然科学の猿真似はやめよう。(p249)」とまで言い切れるとお考えでしょうか。

なおわたくし個人的には今現在も未来も科学の発展に大いに期待しており、哲学思想や芸術というファクターを加味して三つ巴でバランスをとっていけばよいと考えておりまして、今の時代を一概に科学偏重主義だと非難するスタンスではありません。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

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A 回答 (22件中1~10件)

#5です。



>ちなみに、ソーカルらの主張はあたりまえすぎることとド素人なりに弁えておりますが、彼らの起こした事件の背景として、アメリカ社会の孕む行き過ぎた合理主義精神を見出すことは可能でしょうか。

以下に説明するように、この問題は、アメリカ社会とは関係ないように思えます。

始めから言葉の遊びの積りで、「新幹線は感心せん」だの、「校長が木に登った」だの、「牛の目をしたヘーレー」だのと、表向きには一見繋がらない言葉を意外な形で羅列して、全く新しい世界を創出して見せるのは、立派な芸術だと思います。しかし、それはあくまで、言葉のお遊びとしての芸術、我々の生き様を豊かにしてくれるという意味での芸術として評価すべきです。

前にも触れましたが、学問は政治とは違う。私が学問をして得て来た信念は、「判っていることは、判っていると言い、判らないことは、判らないと言う。そしてその状態を他人にも自分にも誤解無く判るように表現するのが、学問をやる者の倫理である」と言うことです。そのことを表すキーワードとして、私は表現の「透明性」という言葉を見つけて来ました。透明性は厳密性と両立しないことも時々は在りますが、そんな時でも、出来る限り透明性を失わせないように表現する努力が、学者としての義務であると思っております。多分、ソーカルも真剣に学問の世界に生きて来て、私と同じような倫理観を持つに至ったのではないでしょうか。彼が、その倫理違反に腹を立てたのが、ソーカル事件の経緯だと思います。私だって、もしポストモダンの論文を読む機会があったら、ソーカルのような行動は起こさなくとも、酒の席で友人達に「これが芸術作品だと言うならまだしも、学問だと言うなら、学問の倫理違反だ。何が恐ろしいと言って、心ある一般の人々が、こんな物が学問だと思うようになったら、真面目に行きている我々まで誤解されてしまい、場合によっては、我々まで、変人扱い、社会の除け者扱いされかねない」とクダを巻いていたかもしれません。幸いにも寡聞にして、ポストモダンの論文を一つも読んだことがなく、ソーカルがこの問題を表面に出してくれなかったら、私はこのような「学者もどき」の存在を知らなかったのです。私から見ると、ソーカルに批判された連中は、学問と芸術の区別を深刻に考えたことが無かったか、あるいは、考えたことがあったにしてもその区別を人類学者の言う「厚みのある記述(thick description)」(注)で把握することができなかった人達のように思いました。

(注)日本の人類学者はこの専門用語を「厚い記述」と訳しておりますが、何ともへたな不透明な訳です。これではその反対語は「薄い記述」になってしまい、何のことやらまるでイメージが湧いてこない。もちろん「厚みのある記述」の反対語は「薄っぺらな記述」あるいは「表面的な記述」であるとこのがほとんど自明です。もっと意訳して「深い記述」あるいは「深みのある記述」としたいところですが、thickという言葉を使ったこの言葉の創始者を評価する意味で、私は日本の人類学者が何と言おうと「厚みのある記述」という言葉を使うことにしています。

誤解の無いように断っておきますが、自然科学の中で最も単純な現象を対象にしている物理学でさえ、その対象は途轍もなく複雑です。ですから物理学者は自分でも何を言っているのか判らずに話をしているのです。物理学者はこの宇宙を理解するためのキーワードを何とか探し出そうと日々、石に齧り付き、血の涙を流しながら努力をしているのです。ですから、物理学では、定義を探そうとしているのであって、その定義を理解してから物を言い出す数学者とは全然異なった文化に属している連中なのです。ましてや、哲学など、物理学が対象とするものと比べて、桁違いに複雑で、かつ多義的な物事を対象とする学問では、厳密な表現は始めから不可能でるか、あるいは厳密に表現した結果、本質を切り落とされてしまったりするので、その意味することが曖昧になってしまうのは必然だと思います。しかし、だからこそ、そのような複雑なものを、厳密さを犠牲にしてでも透明に表現することが要求されるのだと思っております。

余談になりますが、アメリカには「平等」という言葉は在っても、その実態は存在していないようです。アメリカではメディアで「自由」という言葉を聞かない日は在りませんが、平等という言葉は1ヶ月に1度聞けたら良いくらいです。そのかわり、フェアという言葉は頻繁に聞かれます。しかし、これもくせ者で、アメリカ人は自分たちの社会が余りにフェアでないので、この言葉をしきりに繰り返して、不満を述べているのです。私は日本を出てウン十年になりますので、現在の日本ではどうなってしまったか判りませんが、私がいた頃は、日本の教育界でやたらに「個性」という言葉使っていました。実態を知らない外国人がこれを聞いたら、そのころの日本は個性が一杯の国なのかと誤解してしまったかもしれません。昔、鎌倉幕府が繰り返し徳政令を出し、お金を使うことをやたらに制限した法律を出したのは、皆がお金を使わなかったからではなく、皆がお金を使いすぎたからです。また、昔の朝鮮国が頻りにお金を使うように法律を出したのは、皆がお金を使わなかったからです。同じ様にアメリカ人がやたらにフェアと言うのは、アメリカがフェアでないからなのです。アメリカ人は常に「フェアでなくては行けない」と言いながら、他方では何かと言うと、得した人間が損をした人間に向かって「人生はフェアではないよ」と言って説得しようとします。我々はつい表層の現象だけを見て分かったつもりになってしまいます。それだから、分かり安い論理は危険だと私の前の回答で言ったのです。

脱線ついでに、ここで質問者さんに問題を提出させて頂きます。私は外国人に日本を理解するためのキーワードの一つは「平等」であると言っております。千年もの長い歴史で、日本人は世界に類を見ない平等意識を育んで来ました。日本の歴史や社会や日本人の振る舞いを振り返って、何故そのようなことが言えるのか、考えてみて下さい。これを理解する、幾つかのキーワードは、「神の下の平等」、「天皇」、「中央集権制度に対する意味での封建制度」、「大政奉還」、「頼まれたんならしかたがない」です。この問題を考えると、日本人の抱いているアメリカについての誤解や、自分たち日本人自身についての誤解が見えて来ると思っております。

私はもう若くはありませんが、私の拙い経験から、「皆の言っていることの反対が常に正しい」と言う教訓を学習しました。

この回答への補足

chototu様から頂戴した宿題につき、拙いながら自らの頭で考えた回答を述べさせていただきます。
お見苦しい点につきましては以前同様、忌憚なきご教授を賜りたいと切に願っております。

>私は外国人に日本を理解するためのキーワードの一つは「平等」であると言っております。
>千年もの長い歴史で、日本人は世界に類を見ない平等意識を育んで来ました。日本の歴史や社会や日本人の振る舞いを振り返って、何故そのようなことが言えるのか、考えてみて下さい。

ご提示いただいたキーワードを用いる前後両方の回答を述べさせていただくことをお許し下さい。

わたくしならば、外国人に対し日本を理解するためのワードを「和」「治安の良さ」「曖昧さ」「自然との調和、一体感」「縮み志向」などを挙げると思います。
ですがchototu様の「平等」も普段気付かないながらも今の日本にしみついた概念だと気づかされました。
また先の回答で「機会均等でないアメリカにおけるお金を前にした平等」につき申し上げましたが、実情はそうでもない、ということでしょうか。
ヨーロッパほどにアメリカにおいてはそこそこの装いとお金があればいわゆるブランド品の購入にさほど支障がないように経験上思ったので、そのように考えました。
フランスではお金だけでは時として購入させてもらえない「何か」が存在するように感じられます。

次にchototu様から頂戴したキーワードについて参考にさせていただきます。

・「神の下の平等」
仮にこの思想が取り入れられる国や社会であるならば、現実的にはむしろ逆、つまり何ら平等な世の中ではないことを物語っているのかもしれません。
これは日本古来の思想として存在し得たのでしょうか、でなければ、日本は相対的に平等を実現してきたと言えるのではないでしょうか。

・「天皇」
ああ、もしかすると天皇を「現人神」とみなしたゆえに、臣下以下は(華族制度があれど)平等であるとインプットした時代が明治以降にあったかもしれません。
江戸時代の「士農工商」は「平等な社会」と両立した身分制度だったのでしょうか。

・「中央集権制度に対する意味での封建制度」
「中心」と「周縁」という関係において、封建制度はいかなる意味を持つのでしょうか。
中央に君臨する将軍家を頂点として、周縁の各藩は各々思惑を孕めども一律に忠義を誓わざるを得なかったと思われます。

・「大政奉還」
争いによる無用な流血を避けるための尽力の賜物なのでしょう。
いわゆる「無血開城」だけでしたら他国の領地レベルでしたら例があるかもしれません。
そしてその後の「明治維新」も大変日本らしいワードのように思えるのですが、いかがでしょう。

・「頼まれたんならしかたがない」
諦観もしくは潔さに一定の価値を見出しているように思えます。
実は今年PTAの役を引き受けているのですが、まさにこれに他なりません。しぶしぶでしたが、今はそれなりに楽しんで活動しております。
ちなみにアメリカ人の友人曰く、学校にもよるのでしょうが、父兄のチャリティー活動の際は「率先して」活動するということでした。
「頼まれたならしかたがない」などという発想がアメリカに存在するのでしょうか。まったくわかりません。

さらに大陸と地続きで無い島国であった地理的要因、他国の侵略に蹂躙されなかった稀有な歴史と異民族の侵入が回避できたこと、さらに自然崇拝を基にした多神教的風土も「平等の具現化」に貢献してきたと考えられます。

ただし、昨今の経済不況にあっては、社会における勝ち負けないし不平等な格差といった暗い影が日本を覆い始めている気も致します。
それにより親の子にかける期待度がますます募り、幼児教育やお受験に拍車がかかっているのも事実です。

最後に「皆の言っていることの反対が常に正しい」の「皆」とは、いったい何を指すものでしょうか。
世論であればマスコミの思惑がらみの介入の余地も想定しうると思われます。

補足日時:2009/06/25 00:21
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この回答へのお礼

chototu様、重ねてのご回答ならびに宿題につき心より感謝申し上げます。

>以下に説明するように、この問題は、アメリカ社会とは関係ないように思えます。

このように明言していただけますと迷いなく受け入れることが出来そうです。 本当にありがとうございます。

>学問は政治とは違う。私が学問をして得て来た信念は、「判っていることは、判っていると言い、判らないことは、判らないと言う。そしてその状態を他人にも自分にも誤解無く判るように表現するのが、学問をやる者の倫理である」

はい、これはソーカルの主張同様に至極自明な事ながら、「言うは易し」のお言葉と拝察致しております。

>ソーカルに批判された連中は、学問と芸術の区別を深刻に考えたことが無かったか、考えたことがあったにしても「厚みのある記述(thick description)」で把握することができなかった人達

なるほど、そうですね。
学問と芸術、または研究対象の分野の区別と侵犯について後手に回ったということでしょうか。
それとも自らも理解し得ないナンセンスなテクストを他者の教養の懐の深さに一任したのでしょうか。

彼等はchototu様のおっしゃるところの「本来求められるであろう学問をやる者の倫理」を弁えていなかったのかもしれません。
フランス思想界の内情を存じませんから何とも想像つきかねるのですが、フランス社会がごく一部のエリート集団を頂点としたヒエラルキーで構成されているように、学術機関も象牙の塔と化していたということなのでしょうか。

>もっと意訳して「深い記述」あるいは「深みのある記述」としたいところですが、thickという言葉を使ったこの言葉の創始者を評価する意味で

ということは、chototu様はある言語から別の言語へ翻訳する際には、やはり何らかの「変質」が生じていたしかたない、ゆえに意訳以上に正確性を優先なさるというスタンスなのでしょうか。
わたくしはかねてより西洋哲学を織りなす哲学用語のみならず一般の言葉に至るまで、かなり粗雑に扱われて無神経に日本国内で使用されているケースがあるように思うのです。
どのみち、その言葉が国内においてあらたな意味合いを持つ役割を果たしていくのかもしれませんが。

今回いただいた宿題は補足に記させていただきます。
よろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/06/24 22:29

 しげしげと質問一覧を見ていたら、マシュマロさんの質問を見つけました。

へっへっへ。で、僕も回答を寄せようと思いました。でも、早合点してはだめですよ。

 実は、いじめに来ました。

 ところで不思議に思うのですが、どうしてソーカルやブリクモンなんて人間のクズだって、はっきり言わないのですか? 胸がすっとしますよ。「えげつない悪趣味」なんて、まどろっこしいこと言ってないで、低能な文化圏でしか仕事できない無能な学者だから、あんなつまらん本を書いたのだ――そう、言っちゃったらどうでしょうか。

 まさか、ソーカルやブリクモンの肩を持とうというのですか?

この回答への補足

お帰りなさい! お身体の具合は大丈夫ですか。
チビのこと、お気にかけてくださって本当にありがとうございます。
わたくしも締め切られても「リカちゃん」のことゆるゆると考えておりますからね。
またトンチンカンな発想が浮かんだらどこかに書かせて下さい。

>へっへっへ。

ん? キャラ変わりました?
さては「俗な人間」路線を継続中とか(笑)

補足日時:2009/06/30 08:41
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この回答へのお礼

ri_rong様、このたびはご回答をありがとうございます。

>まさか、ソーカルやブリクモンの肩を持とうというのですか?

いえいえ、わたくしは両者の傍観者的立場です。
当初からソーカルたちの主張は至極当然だと思っておりましたし、それは今も変わりはありません。

ただね、フランスのポストモダン思想家たちが何故あのような記載をこぞって行ったのか、そして何故そのままうやむやにしているのか不思議だったのです。
幾らなんでも、フランスが超個人主義の国だからって、何を書いても許されるというというようなナンセンスで陳腐な理由ではないでしょうに、と考えたのです。
ri_rong様の「バシュラール」は凄く参考になりました。
のちほど自分なりにふれてみるつもりです。

いつまでもここに拘ってばかりいるのもちょっとね。
ポストモダンの清濁併せ持つ性質が垣間見れましたし、やはりこの質問をして様々な面で得るところが本当に大きかったです。
これも皆様方のおかげです。
どうもありがとうございました!!!

お礼日時:2009/06/30 08:34

こんにちわ。



>「確かにソーカルの言い分も愚鈍なわたくしなりに理解できたのですが、単なる「メタファー」「アナロジー」としてポストモダンな思想家たちが用いていることに対し「知の欺瞞」というほどのひどく酷いものだったのかな、と思うのです」

『知の欺瞞』のラカンの章で、ラカンは、トポロジーの対象が神経症の構造と関係がある事は、「アナロジーでは無い」とはっきり言ってます。
しかし、何故トポロジーと神経症が関係あるかは一切説明しません。


あなたがポストモダンを信じたいのはわかりますが、アマゾンのレビューでもそうですが、どうして貴方方のような人々は自分の都合の悪い文章は覚えていないのでしょうか?

>「哲学思想や芸術というファクターを加味して三つ巴でバランスをとっていけばよい」はその通りだと思います。
でも、カルトはいらないと思います。
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この回答へのお礼

nitoro2様、はじめまして。
そしてご回答をありがとうございます。

>『知の欺瞞』のラカンの章で、ラカンは、トポロジーの対象が神経症の構造と関係がある事は、「アナロジーでは無い」とはっきり言ってます。
>しかし、何故トポロジーと神経症が関係あるかは一切説明しません。

はい、こちらの文はwikiから引用下さったのでしょうか。
本書ではその箇所の続きに「さらに、それは単なるメタファーではないかとはっきり聞かれると、そうではないと答えているのだ。(28頁)」と記されております。
何だかラカンの態度は釈然としませんね。
何か意図するところがあったのでしょうか。


>あなたがポストモダンを信じたいのはわかりますが、

わたくしはフーコなどといったポストモダンを「信じる=信仰する」というスタンスではないのです。
「≪道具≫として利用する」といった方が適切です。

例えば『ゴダール マネ フーコー─思考と感性とをめぐる断片的な考察』(蓮實重彦 著 NTT出版)のような「芸術論的切り口」で読むというのはどうでしょうか。
思うにいわゆるポストモダンというのは、旧来の思想哲学のように何かのイデオロギーや社会システムを伝達する性質のものではないのです。
そしてそうですね、芸術文化あたりと結びつけるとするならば、今までに見えてこなかったものが見えてきてなかなか面白いと思われるのです。
わたくしはその程度のもの、類いのもの、と捉えております。
もちろんnitoro2様のように「カルト」とみなすのもご自由ですし、それをわたくしは尊重致します。

お礼日時:2009/06/30 08:08

 質問者さん こんにちは。

No.16です。
 mashumaro2 さんと呼んでいたときとは違って これで恩讐もきれいにふっきれて 互いにただの質疑応答者として表現していけますね。
 ご返答をいただいた限りでは わたしの考えと違っていますので あらためて投稿いたします。
 以前には見られなかった焦点の――議論や論旨のすり替えとは言いません 焦点の――ずらしが見え始めましたというのは 以前の交通関係を引きずっている発言になってしまうおそれがありましょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    >《メタファーとしてでしかない》と分かっているなら 事実問題
   として表現した箇所は 撤回しておくべきです。

 ・・・、「透明性」「正確性」に細心の注意を配ってしかるべき・・・ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ずらしではなく 意図せぬズレだと思いますが わたしの回答の焦点は 《文章責任》の問題にあります。一般に《自己表現についての――その自由と同時なる――答責性》のことです。次のご応答に見てとれます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >行き届きませんでしたとあやまるべきだと考えます。

 フランスのポスト・モダン思想家たちは実際に「あやまった」のでしょうか。逆に強気に反論してくる様子なら容易に想像できてしまうのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 答責性を指摘することに賛成か反対かを述べて次の議論に移るという一つの焦点をぼかしておられるように思いました。
 方向を同じくするかたちで 《賛成》の意を表明しておられるように見えるところですが――こんな些細なことを問題にするという見解に批判を与えたいゆえ いま述べるのですが―― 反対を明らかにしないことをも含めて 投稿者の見解に触りたくないという意図が見えるところです。
 触ってくれという訴えではなくて この不審な行動をいちどは指摘し明らかにしておかねばならないというわたしの対応です。わたし自身の自己表現の広い意味での答責性の問題です。言いかえると このように指摘しておくならば 《あの時は 賛成も反対も明言してはいませんでしたよ》という後になっての発言を無効にしうるというものです。いわば表現活動における自己防衛になるでしょう。文体とはそういうものだと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 今ではフーコを含めてポストモダンについての負の部分に関心が移ってきているのです。
 (β) もちろんbragelonne様が「そんなもの害あって一利なし」のスタンスは承知の上です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (α)は このご質問とは趣旨がちがうとわたしは考えますので 発言を控えます。
 (β)は わたしの立ち場としまして まづ(1) ポストモダンについてよくわきまえていません。(2) 個々の思想家について捉える必要がある。(3) 中には そのようなスタンスで臨む場合がある。(4) たとえば 《フーコの人間は 〈権力人 homo potens 〉であって これは哲学にとってまた社会科学として何の意味もない》と考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >かような《自然》の振る舞いに――たとえ他の人からおしえられた
   場合にしても―― けっきょくその内容について《へそが曲がったか
   どうか》を判断する基準が含まれている。と分かる。のではないでしょうか?
    >《スサノヲ自然(それは 動態)》の内に 《アマテラス規範
   (それは コギト)》が みづからの能力として含まれているのでは
   ないでしょうか?

 (γ) このご主張なのですが、わたくしたちは学者の方々の足もとに及ばないまでも、「透明性」「正確性」に努めるべきである、という意味でしょうか。
 (δ) アマテラス、スサノヲという言葉を用いていらっしゃるところから、自らの自由意思にもとづく積極的に取り組むべき倫理感の意味をもこめていらっしゃるように拝察致しました。
 やはり哲学と倫理はきってもきれないものなのですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (γ)について そしてもし《哲学》と《倫理》とが別のいとなみだとすれば(δ)について 焦点のずらしを感じるのですが(ただの主観です) ここで言おうとしていることは 次の二点です。
 (5) 文字どおり《自然》と《規範》にかかわる問題です。
 (5a) 自然――《生まれる・成る》が基本だと捉えます――は 動態であり 仮りに文化という或る種の秩序に比べるならば 無秩序ないし反秩序であると見なされがちであるけれど じつは その自然という動態じたいの内に 秩序ないし秩序の要素が宿り動いている。
 (5b) 身体に感性の能力がもとづくのはもちろんのこと 精神の作用も身体と同じ基盤である。
 (5c) 秩序に反するものを 狭義のスサノヲ自然と呼ぶ。
 (5d ) しかもそのスサノヲ自然に 秩序の要素(人間にとっては 経験合理性にもとづく思考)としてのアマテラス規範(文化・法則・法律)が宿る。(そもそも歴史上に もっぱらの公民としてのアマテラス人なるものはいなかった。すべて スサノヲ市民が成ったのだから)。
 (5e) ゆえに アマテラス理性を宿した広義のスサノヲ自然を想定しうる。(その上で 狭義・広義は取り払ってよい)。
 
 (6) (γ)の★ 《「透明性」「正確性」に努めるべきである、という意味でしょうか》の問題です。
 (6a) このようにNo.16の時点で 《「透明性」「正確性」》を並列するご見解に変わったのであれば それはそれとして受け取ります。どうなんでしょう?
 (6b) それはそれとして わたしは 《精確》と《明晰》との一体性を述べました。
 (6c) 次のように軽くかわされています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >明晰でないものは 哲学ではありませんが 精確を期すことが 明
  晰であることだと考えます。( La clarte orne les pensees. )
   >精緻・緻密さを断念するときには そのようにことわればよいわけ
  です。二者択一ではないでしょう。

 わかりました。最大限に努力してみることに致します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ (6c)を受け継いで申します。
 今回このように わたしは自分の投稿内容に関して 《精確》を期しなおしましたが ふつうには特に質問者として回答を受ける立ち場のばあいには 必ずしもこの《精確》を期すことをつらぬくわけではありません。しかも それを断念するというふうに明示してことわっていません。
 これについて一言申し述べておくのですが 要するに 精確でなく曖昧である場合 条件がゆるせば(つまり特に大きな不都合が生じるおそれがなければ) 相手の有利になるように解釈して済ませるというものです。
 裏返すならば ここでは 精確を期すことが明晰を保証するという考えを採る必要から再度の投稿に及んだものです。

 ★ キリスト教にも「百花繚乱」のような概念があるのでしょうか。
 ☆ クリスチアニスムでは 結果にではなく原点ないし出発点について触れるところがあると思います。
 ○ 真理はきみたちを自由にする。
 ☆ むろん真理とは――神のことですが―― 無根拠のなぞを言います。
 ○ 神のもとの平等
 ☆ とは 《まったくわけの分からない謎》のもとに スサノヲ市民らがそれぞれ自由に自己表現をすすめていく社会生活を言います。スサノヲらは みづからの内にアマテラス公民の能力と知恵を見出し開発し発揮していくことでしょう。《神》の何たるかが分からない人(もしくは アマテラス理性能力によって分かると主張する人)には 分からないことでしょう。
 信長スサノヲもアマアガリしてしまうと もはやアマテラシテ(象徴)の前に――義満がそうであったのと同じように最後には――すくんでしまいました。うんぬん。

 * 余計:(あ) 英語使用者にとって たとえば book という文字は ちょうどその形――頭と尻とが上に突き出て横に寝た長方形――として・それゆえあたかも(あたかもです)象形文字のごとく見えるように習慣づけられるという話を聞いたことがあります。
 (い) そして beech という語と あたかも形を同じくして 変形をこうむっている部分をも持つ。あとづけとしては 語源を同じくするのだなぁと腑に落ちるという寸法だそうです。
 (う) ですから book-ing, book-ed, un-book, book-ish 等々という場合でも それぞれが個々に文字であるごとく作用しているという見方も提出されます。
 (え) このような見方は 根っからのデタラメ人間であるスサノヲであるからこそ出来ることでしょうね。また その音標文字の側に罪はないでしょう。
 うんぬん。
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この回答へのお礼

bragelonne様、このたびはご回答誠にありがとうございます。

>質問者さん こんにちは。No.16です。
>mashumaro2 さんと呼んでいたときとは違って これで恩讐もきれいにふっきれて 互いにただの質疑応答者として表現していけますね。

これは「互いにただの質疑応答者として表現していけ。」とおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。
くだんの質問にてarayata様から幾度となく指摘を受けたことによる≪誤解≫はあれど、わたくしからbragelonne様に対し「讐」などといった気持ちは「ただの一度も」ありません。
ですが、このたびこのように「質問者さん」「互いにただの質疑応答者」と表現なさっていらっしゃるのは、ひとえに私に対する何らかの「讐」を抱いたままだった、ということなのでしょうか。

ちょっと、ショックで哀しいです。

bragelonne様の詩の感性はとても素敵でしたし、日本人ならではのユニークな視点によるアマテラス理論も大変楽しみにしておりましたのに。

わたくしの方としましては、「ぶっきらぼう」の質問にて虚心坦懐に心情を吐露したつもりで誤解を晴らしたつもりでおりました。
でもずっとご不快でいらしたのですね。
それにもかかわらず幾度も回答をしてしまいました。

お詫びをしても許されないことかと存じますが、決して「気障わり」の意味で申し上げたつもりはない、それだけです。
本当に申し訳ありませんでした!

お礼日時:2009/06/29 18:01

#11です。



>>日本と西欧と言う、この例外の二つの地域だけが、近代産業革命をスムーズにやってのけた

キーワードは「不安定性」だと考えています。中央集権制度では、圧倒的な権力者によって支配されているから、比較的安定している。ところが、封建制度はドングリの背比べの状態でのみ存在可能な政治形態ですから、常に一触即発の「不安定性」を孕み、この制度を長期に渡って保持するのは余程の偶然が重ならなくてはならず、直ぐにでも中央集権制度へ移行しかねない制度です。そのことが、何故この制度が人類の歴史では珍しい制度であり、私の知る限り人類史の中で、百花繚乱の思想華やかなりし2千5百年程前の中国の戦国時代と、西欧の中世と、日本の中世から近世にかけてだけに現れた制度であったことの説明になっていると思います。

以下に紹介することは我々の世界を理解する上で、重要な側面を抉り出していると思えますので、その説明が少々長くなる事をお許し下さい。

何故、不安定性が重要か。ここにもまた、常識の裏を掻くような事実が含まれているのです。近代の物理学の際立った進歩の一つに、「散逸構造」の概念の発見が在ります。これは非平衡非線形の熱力学と呼ばれる分野で得られた成果で、この宇宙に数限りなく存在する複雑な構造が、物理学の法則に従っているだけで何故自発的に存在できるようになって来たかを明らかにした理論です。現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。

一寸考えると複雑な構造は安定したところに現れて来そうですが、実はその反対が正しいことを明らかにしたのです。そう言う意味で、常識の反対が正しかったというわけです。散逸構造が自発的に現れるには、3つの条件が揃っていなくてはなりません。1)その系が外界とエネルギーや物質や情報のやり取りを頻繁にできるように、外に開かれていなくてはならない。2)その系は平衡状態という安定状態から、十分離れていなくてはならない。3)系の内部に常に情報や記憶の喪失あるいは散逸の機能が備わっていなくてはならない(これは専門用語では、「エントロピー増大の法則」あるいは「熱力学第2法則」が成り立っていなくてはならない、とも表現されます)。

この3番目の条件は、不安定性を定量的に表した条件です。今までの物理学の常識では、エンロピー増大の法則とは、「物理系に特別の操作を施さない限り、その系の無秩序さは時間とともに増大する」と言うことを表していると考えられていました。もちろんそれは正しい主張なのですが、そのためには系は孤立していなくてはならないという条件付きだったのです。上のように1)の場合には、今までの常識とは正反対にこの法則が秩序を作り出す役割を演じていることが発見されたのです。この3)の意外性が本質的な契機となって存在できる構造であることを強調するために、「散逸構造」と呼ばれているのです。また、2)の条件は、新たな構造の出現は、必然的に非線形効果の結果であると言うことを表しています。前にも述べましたが、今まで非線形数学はほとんど何も判らない状態にありましたので、逆にこの散逸構造の発見は、非線形数学を発展させるための強い動機付けとなっており、散逸効果の分析から、我々は非線形効果とは何かが漸く分かるようになりはじめたというのが、現在の数学と物理学の状況です。

熱力学第2法則の主張は、この世の中は本質的に確率論的、即ち、非決定論的に出来ており、ニュートン方程式や量子力学のシュレーディンガー方程式やアインシュタインの一般相対性理論と呼ばれる物理学の基本法則が主張する決定論的な宇宙とは相容れない主張なのです。そこで物理学では、熱力学第2法則を他の法則と無矛盾に両立させるにはどうしたら良いのかが、大問題になっております。そしてこの熱力学第2法則は、この宇宙には過去、現在、未来という一方方向に時間が流れて行くことを主張しておりますので、時間と空間を4次元空間の静的幾何学を表す単なるパラメーターであるとするアインシュタインの時空の幾何学とは相容れない、動的な時間の存在を主張しています。ですから、物理学者に取っては上の3つの条件のうちで、3番目の条件が、「時間の向きの対称性の破れ」という大問題に直接絡んでいるという意味で、最も重要です。しかし生物学者や人文科学者に取っては、構造は非決定論的確率論的に出来上がって来るのであり、前持って決定論的なシナリオや計画書が必要なくても構造が自発的に出来上がって来ると言う発見が、最も重要な要点になると思います。そして、そのための条件が、安定性ではなくて不安定性であると言うことが重要なのです。そして、その構造は、周りの状況やその系の構成員の間の相互作用によって、すったもんだしながら確率論的な成り行きに従って収まるところに収まって来るという形で出来上がって来ますから、本質的に非決定論的であり、神様でもどんな構造が出来上がって来るか前もって分からないというのが重要な点です。

ここにも「皆の言うことの反対が常に正しい」という経験則の例が如実に出ています。今までエントロピー増大の法則により、世界は自発的に崩壊に向かうと考えられて来ました。ところが、この法則があるお陰で、より複雑な構造が自発的に出てくると言い出したのです。それどころか、情報や記憶が散逸することがなければ、複雑な構造は存在し得ないと言い出したのです。何故そんな一見逆説的なことが本質なのか、説明してみましょう。例えばもし貴方の肩に誰かがぶつかったとします。その時の衝撃で、肩の細胞は運動エネルギーをもらいます。貴方の脳味噌はいざ知らず、もしその肩の細胞がその運動エネルギーを保持し続けて、肩がその記憶を持ち続けていたら、他の機会にも次々とやってくる衝突の衝撃の繰り返しの結果、貴方の肩の細胞は遂には粉々に飛び散ってしまいます。貴方が今持っている構造を保持でき、貴方が貴方でいられるのは、その衝撃の記憶を力学的に忘れる機構、すなわち専門用語で言う散逸の機構が備わっているからです。

このような不安定性を契機とした新たな構造の出現は、この自然界には数限りなく存在し、その典型の一つが、生物の存在や我々の脳味噌の存在であろうという意見が、科学の間では受け入れられつつ在ります。それ以外にも、思春期の不安定期が大人という、それ以前になかった新たな安定構造を生み出す上で決定的だったり、革命の不安定期が新たな社会構造の到来を持ち来らしたりと、不安定性の役割を数え上げ出したら、幾らでもあります。

その視点から封建制度を眺めてみると、ドングリの背比べ状態は非常に不安定な状態ですから、各地方を封じている各豪族には、いつでも抹殺される緊張感が存在する。その不安定性は系の内部にダイナミックな変化を次々ともたらして、新しく、かつ、より複雑な構造を自発的に次々と創り出して行く。封建制度下では、隣接国や藩と、あるいは王の王や将軍家との間の外交や交易による経済活動の熟達度の進化や、あるいは生き残りのための軍事や技術の進化を促します。そのような形で出来上がって来た構造は、外部からの揺動に大変な抵抗力があり、そのダイナミズムを経験いていない中央集権制度下の安定な構造に遭遇すると、その安定な構造を一打ちでぶちのめす力も持つに至る。封建制度と言う例外中の例外に属する経験をした西欧と日本だけが、近代化に何故スムーズに移行できたかは、このように「不安定性」をキーワドに理解できると考えています。

信長が18才で家督を相続してから桶狭間の戦いでデビューするまでに10年掛かっています。彼はその間何をしていたと思いますか。その間、彼は身内で血を血で洗う生き残りのための戦いを続けていたのです。尾張と言うあの小さな地方の中で起こったその不安定性は、彼に戦いにおけるあらゆる技巧を教えました。そこで手に入れた戦いの形に対する構造は、他の安定地帯で習得した戦いの構造よりも桁違いに複雑な構造を手に入れることが出来たのです。ダーウインも、『種の起原』の中で、イギリスと言う小さな島の中での雑草の生存競争が余りに激烈だったために、その雑草の種がオーストラリアにもたらされたら、それまで生温い生存競争で生き残って来た広大なオーストラリアの雑草をたちどころに駆逐してしまったと述べています。上では戦いに対する技巧としての構造に触れましたが、社会に内在した不安定性は戦いや経済ばかりでなく、芸術や学問や思想などあらゆる分野で、次々と新しい形態を現出する契機になっているわけです。今までの人類の発明の最も重要なものが、ほとんど全て都市と言う、農村と比べて遥かに人間関係の不安定なところから出現して来たなども、散逸構造論の好例になっています。

また、このように自然界に自発的に構造が現れるためには、上で述べた非決定論的確率論的な不安定性が本質的な役割を担っているために、他にももう一つ、我々の常識とは反対な結論を導き出すことが出来ます。それは、どんなものでも、発達を促進させるためには、系のサンプルを大きく仕過ぎては駄目だという、驚きの結論です。確率論を勉強するとすぐに教わることですが、サンプルの大きさが小さいほど、その平均値からのズレの相対的揺らぎの大きさが大きくなります。ですから、系を適度に孤立させておくと、揺らぎがどんどん大きくなって、遂に全く新しい安定構造に移行する確率が高くなります。その反対に、インターネットなどで情報のやり取りが世界中の何処にいても瞬時可能になってしまう所謂グローバリゼイションは、地球全体をつなげて巨大な1つのサンプルにしてしまうために、今は未熟だが将来は大発展するかも知れない新しいアイデアの揺らぎを押さえ込んでしまい、互いにアイデアの潰し合いになってしまいます。揺らぎの増幅を押さえ、将来横綱になれるかも知れない赤ん坊の手を捻って、その子をただの人間に育ててしまう可能性が高くなってしまうわけです。

すでに存在している情報を効率良く使って、その情報に基づいて目の前の問題を短期的に次々と処理して、社会を出来るだけスムーズに流れるようにする事を至上命令とする官僚ではなくて、物事を無から創り出し、新しい世界を見てみたいという、官僚とは全然違った役割を担った人間には、次から次へと流れ込んで来る情報を一々理解し、今現に多くの人が興味を持っている問題や概念をこなして行こうとする態度が、どれだけ不毛で危険な態度であるか、お判りになるでしょう。物を創り上げるためには、知らない事を怖れるのではなく、その反対に外部の情報を適度に遮断して、流行を追うのではなく、自分や自分と息の合った仲間達の中でカビの如く萌え出して来たアイデアが潰されないで一人前に育って行くまで、仲間内で孤立させる必要があるのです。

どうですか、近代化と封建制度が少しは繋がっていそうな気になれましたか。また、「皆の言うことの反対が常に正しい」というほんの少しの例を述べましたが、私がそう言いたくなる気持ちが判って頂けましたか。

この回答への補足

ふと思ったことなのですが。

wikiを参照したところ、世界三大発明として活版印刷術、火薬、羅針盤が列挙されておりました。
わたくしなどは活版印刷術はグーテンベルクとつい想起してしまうのですが、それ以前に北宋時代に行われたと言い伝えがあるそうです。
つまり、これらは全て東洋で発明されました。

でも、近代科学はヨーロッパで花開きました。
その理由として、高度なアラビア文化の流入(錬金術など)の他にどのような因果関係があり得るのでしょう。
やはりキリスト教の影響も大きいように思われます。

そしてともすると、先にchototu様よりふれていただきました「ヨーロッパにおける自然観」ともつながっているのではないか、
つまり、東洋的思想における自然観として、ある意味ヨーロッパ以上に急進的に人工的に手を加えることはあれども。
その世界観として「自然を征服、制圧する」というより「共存、一体化をはかる」という概念が少なからず仇となったのではないかと素人ながら思うのです。
いかが思われますでしょうか。

本当にこのたびのご回答は大変エキサイティングでした。
ありがとうございました!

補足日時:2009/06/29 16:46
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この回答へのお礼

chototu様、このたびのご回答は本当に面白かったです、ありがとうございます!
物理学の「不安定性」が化学、生物のみならず、封建制と近代化といった人間社会にまで広範に考察できるお話は興味が尽きません。


わたくしも以前、素人目線で少し考えたことがあります。
穴だらけで笑ってしまいますが、どうか一笑に付してくださいますでしょうか?

氷など固体物質は粒子の成長が見込めるものである。
(強度などの変化は?一定ではない?)
そして粒子が小さい場合、互いの粒子同士の辺の境界の部分の面積が相対的に大きいから、様々な分子の通過性が高まる。
仮に正6角形で全て同一の大きさの粒子を平面上に並べた場合、3つの辺の境界が互いに等しいために、粒子の成長測に基づく成長が見込めない恐れがある。
でも結晶の粒子の形や大きさを不均衡のものにすれば、結晶表面の表面張力によって互いの境界の移動がスムーズに行われ、結果として粒子も結晶全体も大きく成長する。
つまり、ある程度粒子の不揃いな要素の存在があるからこそ、結果として粒子全体が大きく成長していくのと同じように、人間社会においてもある程度は不揃いな部分を内在して、時にその歪みは社会発展をもたらすものである。

ああでも、chototu様のおっしゃる「不安定性」と思春期や革命前後の「不安定時期」とはズレてしまったかもしれません。


>他にももう一つ、我々の常識とは反対な結論を導き出すことが出来ます。それは、どんなものでも、発達を促進させるためには、系のサンプルを大きく仕過ぎては駄目だという、驚きの結論です。

はい、これは封建制度に基づく地方の「小国」という大きさと相通ずるものですね。
「封建制度と言う例外中の例外に属する経験をした西欧と日本だけが、近代化に何故スムーズに移行できたか」「いわゆる常識の反対が常に正しい」ということが大変よく理解することができました。

また、お話を伺うにつれ、物理学者の方々に想いを馳せますと、いかにソーカル達の主張が至極当然だと前置きし、かつカウンターパート的スタンスを取らざるを得なかったにせよ、設問記載があまりに失礼に当たっていたのだと考えるに至りました。

真摯な物理学者の方々に対しまして、ここに深くお詫び申し上げます。

お礼日時:2009/06/29 16:09

先ほどの回答#17で、#9でのcyototuさんの言葉を拝借しており、私は無意識に感化されていたことに気づきました。

遅ればせながら気付きを頂きありがとうございます。

>「無から有を創り出し」
>「欧米人は、日本人の見る自然とは全然違った自然を見ていること」
の部分です。それ以外にも単細胞な私でも色んな影響を受けて言葉を使ってきているんだなぁ。本人が自覚しなくともあります。

 自分の発想だと思って表明しても、目に飛び込んだ言葉は思惟の候補として保存されていて熟読でなくてもサット目を通しただけのことでも漢字は見える意味として記憶に残りやすいせいだと思うからです。

学ぶことは真似ぶことでもあり、対話による学習効果は1人+1人が合体して2という性質を有する一人の人間を作るのではなく、一人の人間が二人以上の性質を共有することにもなりそうな。

生殖活動も1+1=3以上ですし、理論が必ずしも現実の正確な模写ではないことを当たり前にしていて、単純な命の美しさは枠に収められもしない。枠(意味)がないと存在を感じとれない。意味の前に存在してしまうのが現実であって、意味に拘ると価値を失う。そんな気がします。
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この回答へのお礼

miko-desi様、重ねてのご回答に対し、心より感謝申し上げます。

>「無から有を創り出し」
>「欧米人は、日本人の見る自然とは全然違った自然を見ていること」
の部分です。それ以外にも単細胞な私でも色んな影響を受けて言葉を使ってきているんだなぁ。本人が自覚しなくともあります。

はい、わたくしもそのように感じます。
「どんなに自分の発想だと思って表明しても」先達ないし誰かの発想からインスピレーションを少なからず得ているでしょうね。
自分の発想と他人の発想との「差異化」の決定的な判断基準はいったい何なのでしょう。

>生殖活動も1+1=3以上ですし、理論が必ずしも現実の正確な模写ではないことを当たり前にしていて、単純な命の美しさは枠に収められもしない。枠(意味)がないと存在を感じとれない。意味の前に存在してしまうのが現実であって、意味に拘ると価値を失う。そんな気がします。

なるほど~。
わたくしは、時と場合によって使い分けたら良いと思うのです>意味に拘ると価値を失う
もちろん命というものは存在するだけで何物にもまして美しく尊いものだと思いますが。

今さらトンチのようですが「1+1=1」を思いつきました。
「ねんど1個+ねんど1個=ねんど1個」です。
でも和の質量は2個分です。 ナンセンスですね?


>サット目を通しただけのことでも漢字は見える意味として記憶に残りやすい

はい、日本語における「漢字」の使用は素晴らしいと思います。
ちなみに昨年北京に行ったのですが、結構簡略化されておりました。
ご当地の新聞も漢字だらけで眩暈がしてきます。
日本には「かな文字」があったからこそ高い識字率を保てたのかもしれません。

お礼日時:2009/06/29 01:08

一部ウィキペディアから「ポストモダン」の引用、そして私見解説を付けました。



マルクス主義(例えば貨幣や金塊のように加工されていない物、器や装飾品として活用するものでなくても所有の価値があるとする主義)のような壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされた。この考え方に沿えば、"ポストモダン"とは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結と言える・・・。

おおよそ自然物を占有しただけで何が起こるか?何をなし得るか?
ついでに、自然が人間社会限定で貨幣の占有権も与えてはいないですね。
自然が育む生の営みの条件や大前提として最初から貨幣の流通などは存在ぜず、自然の目的でもないから。

>ポストモダン的な潮流や相対主義的な傾向は受け入れられないと書いてきた。

所有の目的は人間が人間相手に自慢することが出来るぐらいのもので、何の苦労もなく手に入れることが出来たら(所有を励みに生きてないで)所有物を相対的な対象とする人に知られることもなく一人で楽しめるか?人間関係を求めず励みや安らぎもあるというのでしょうか?

ポストモダンとは結果的に「有から無を作り出す」ことになって、知の欺瞞(覚悟を遅らせる、判断を誤らせるもの)となったのかもしれません。

反対にインフレ期は「無から有を作り出す」ものとして、これはビックバンのごとく神業となります。

この回答への補足

まったくの余談で恐縮なのですが。

>一部ウィキペディアから「ポストモダン」の引用、そして私見解説を付けました。

はい、たった今拝見してまいりました。
そして…実はですね、肝心の「ポストモダン」以上に、「ウィキペディアそのもの」や「その記事の信憑性」といった項目の方に、つい見入ってしまいました。
以下の数字が真実だったら、かなり膨大な影響力をもたらしていると思いませんか。

・閲覧経験は7割近く、オンライン百科事典ウィキペディア(Japan.internet.com 2006年12月19日 16:10)
・Wikipediaへの訪問者数、月間700万人を超える--ネットレイティングス調べ(CNET Japan 2006年3月29日 17:36 )

wikiのシステム─誰もが気軽に無料で検索できるというシステム─は現代のネット社会で利用者の想像以上に不可欠な存在のようです。
質疑における匿名性は「教えてgoo」と似たり寄ったり、といったところでしょうか。

例えばこちらのサイトにおける質疑の参考情報として、また普段の話のきっかけや参考程度に閲覧をするといった際には、wikiは大変便利で重宝すると思います。
でもやはり、わたくしは偏屈な古い人間なので、書籍のように著者の実名や出版社名が「見えた」ほうがより「信憑性」といった点で安心するのです。
著者名として実名を掲載するということは、それだけの責務を負っているように感じられるのですが…どうなのでしょうね。

それに、あまりに画一的な大辞典として統合されてしまうと、何やら恐ろしく≪つまらなく≫感じてしまう気も致します。
元々一つの純文学をじっくり読むより、様々なカラーの百科事典、科学事典を読み比べるほうが断然好きでしたから。
でもまあ、現実問題として、wiki以外にも有料事典ソフトなど幾らでもありますから、自助努力という意味で併用すれば気が済む話ですね。
 
ほとんど関係ない話でごめんなさい…。

補足日時:2009/06/29 00:18
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この回答へのお礼

miko-desi様、はじめまして。
このたびはご回答を本当にありがとうございます。

>「有から無を作り出す」ことになって、知の欺瞞(覚悟を遅らせる、判断を誤らせるもの)となったのかもしれません。

こちらにつきましては、漠然とニュアンスが掴めるのですが、あまり自信がありません。
ですので「有」「無」「覚悟を遅らせる」「判断を誤らせるもの」に対し、適切な言葉を代入していただけますでしょうか。

>反対にインフレ期は「無から有を作り出す」ものとして、これはビックバンのごとく神業となります。

「無から有を作り出す」ものがビッグバンのごとく神業、なのでしょうか。
神業というよりも、古来より培ってきた人智の極めて地味な積み重ねと人間の創造への執念のようなものだと思うのですが、いかがでしょう。
このように思うことはなにものかに対する「知の欺瞞」でしょうか。


ついでにポストモダンに関する拙い私見です。
「マルクス主義のような≪マクロなイデオロギー≫に相反するようにして、フーコやデリダなど≪現代社会にメスを入れるマイクロ・スコープをはじめとする様々な小道具≫が続々と生み出されていき、一時期はブームにもなった。
その後になって劣悪な性能が一部ないし過分に認められるとの理由でリコール対象となり、小道具に対する信憑性は薄いもの、もしくはその有用性を問われることとなった。
ともするとそのまま消え去る小道具もあるだろう。
でもだからといって、今現在もその有用性を認める、もしくは本来とは異なる別の用途への転用の可能性、有用性を確信するならば、あえて手放す必要もない。」

ちなみに主題の著書『「知」の欺瞞─ポストモダン思想における科学の濫用』のオリジナル名は『Fashionable Nonsense』と記されています。
タイトルを見比べると「乖離」を感じます。

>所有の目的は人間が人間相手に自慢することが出来るぐらいのもので、何の苦労もなく手に入れることが出来たら(所有を励みに生きてないで)所有物を相対的な対象とする人に知られることもなく一人で楽しめるか?人間関係を求めず励みや安らぎもあるというのでしょうか?

これは面白い問いですね。何か思うところはおありでしょうか。
名画などの芸術品が個人蔵扱いされているケースは多々ありますが、純粋に自分だけで秘密裏に愛でるというのは…
 …それって、盗品だったりして?!

お礼日時:2009/06/28 23:57

 こんにちは。


 質問者のご見解とは反対の見方で回答します。
 ヰキぺのソーカル事件( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC% … )による限りで 問題は ソーカルの論文を載せることになった評論誌の判断 そして ポストモダンの思想家たちの文章 これら二つにあると考えます。
 質問者も 《自明》のことだとおっしゃっていますが そのあと《でもしかし・・・》と議論を引きずっておられます。

 ▲ (ヰキぺ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者らによる査読によって出鱈目であることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 投稿者の意図がどうであれ 編集長は しかるべく判断すればよいと考えられます。それ以外に何も問題はないのではないでしょうか。

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ソーカル等の暴露に対し、「ポストモダンにおける科学用語の使用は単なる比喩である」という再反論もあるだろうが、 ポストモダニストの中には比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいた。
  ○  たとえばラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて『これはアナロジーではない』とはっきり発言しているし、
  ○  ラトゥールも経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて『隠喩的なものでなく、文字通り同じ』と隠喩でない旨を強調しているが、
 ソーカルとブリクモンはその著書『「知」の欺瞞』の中でこれらのフィクションにおける「科学」がいかにデタラメかを暴露している。
  ○ またクリステヴァは一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後のクリステワ゛の表現の仕方が いちばん悪質ではないでしょうか。《メタファーとしてでしかない》と分かっているなら 事実問題として表現した箇所は 撤回しておくべきです。そもそも表象しえないところの領域を扱っているのでしょうけれど それだけに正確さが求められると考えます。
 その後 反論が出ないのであれば これらポストモダンの思想家に非があると考えざるを得ません。

 だからその思想が 社会や人文に関する科学としてどうであるかは 別の問題だとは思われます。
 これだけのことなのではないでしょうか?
 ★ はたして巷で言われる「混乱」に陥れる類のものだったのでしょうか。
 ☆ それも別の話だと考えます。本人らが《混乱》している もしくはその混乱であることを知っていてそのままを平気で表現しているという話に尽きるのではないでしょうか? 行き届きませんでしたとあやまるべきだと考えます。

 余分でないことをねがいつつですが。
 かような《自然》の振る舞いに――たとえ他の人からおしえられた場合にしても―― けっきょくその内容について《へそが曲がったかどうか》を判断する基準が含まれている。と分かる。のではないでしょうか?
 《スサノヲ自然(それは 動態)》の内に 《アマテラス規範(それは コギト)》が みづからの能力として含まれているのではないでしょうか?
 その全体(スサノヲおよびアマテラス というよりは アマテラス能力を宿したスサノヲ市民)としての《ひと》という立ち場に立つのが 哲学だと考えます。
 それに プラスαとして 非思考(=信仰)をも含むさらに全体を基盤にするとよいと考えています。
 科学は まづ前提として 非思考の領域は棄てます。その上で むろん《ひと》の立ち場に立つのですが 《コギト》の世界を充実させようとすることに重点をおくでしょう。あるいは言いかえると コギトの世界から 《ひと およびそれを取り巻く全世界》を理解し尽くそうとします。行動は そのあとのことです。
 文学芸術は 一般に行動を問題にします。しかも 言葉による表現というかたちにおいてです。限定しています。
 一たん《ひと》の立ち場を取り払ったかのようにした《わたし》の立ち場から 思想も科学も何もかもを一たんとしてはどうでもよいとする待った無しの情況に身をおいて そのわたしの・その場におけるそのつど一回きりの生きるさまを描きます。情報伝達でなければ そうです。
 貪欲な哲学は これらすべてをその言語表現におさめようとするかも知れません。神出鬼没ですね。
 明晰でないものは 哲学ではありませんが 精確を期すことが 明晰であることだと考えます。( La clarte orne les pensees. )
 精緻・緻密さを断念するときには そのようにことわればよいわけです。二者択一ではないでしょう。

この回答への補足

bragelonne様、お久しぶりです。
ご回答をくださりまして本当にありがとうございます。

過去の2~3つの質問を除き、哲学カテで質疑応答に参加してから、3か月が経とうとしております。
bragelonne様は「恩人」のような方です。
だってarayata様の「ましゅまろが2つ」等の≪誤解≫を解いて下さり、かつ、対話におつきあいしていただきましたから。
それはそれはうれしかったです。

>《メタファーとしてでしかない》と分かっているなら 事実問題として表現した箇所は 撤回しておくべきです。そもそも表象しえないところの領域を扱っているのでしょうけれど それだけに正確さが求められる。

はい、職業として学問は遊びや文芸ではない以上、「透明性」「正確性」に細心の注意を配ってしかるべき、というchototu様のご主張と重なるものですね。

>行き届きませんでしたとあやまるべきだと考えます。

フランスのポスト・モダン思想家たちは実際に「あやまった」のでしょうか。
逆に強気に反論してくる様子なら容易に想像できてしまうのですが。

>だからその思想が 社会や人文に関する科学としてどうであるかは 別の問題だとは思われます。
>これだけのことなのではないでしょうか?

はい、「たったこれだけのこと」に拘っておりました。
何故ならポストモダンと括られるフーコの『監獄の誕生』を20年ぶりに手にしたことこそ「自らの哲学の取っ掛り」だったからです。
これ、欺瞞なのでしょうか。 昔へのノスタルジーも含まれていたりして。
80年代の大学でたまたま流行っていたのでしょうか。

「監獄の誕生と中世の修道院」という拙問内の「フーコが歴史を≪濫用≫しているといわれている」「カルスタは難しい」というご回答からも、ゆくゆくはフーコ等の負の部分を知りたい、認めたい、とも思っておりました。

pokoperopo様から『知の欺瞞』のご推薦を受け、購入後に読了したわたくしは、ソーカルらの正論が至極自明で小気味良かったはずなのに、「ハイ、次の本!」とはあっさりいきませんでした。
直接フーコが糾弾されているわけではないのですが、似たようなミスを犯してしまっているのだろう、はたしてポストモダンのうちの幾つが後世に残り得る思想なのだろうか、と思案し始めたのです。
「騙された!」と言うのではなく、心情的には縁のあったフランス側の「刑の軽減ないし情状酌量」をしたくなったといいましょうか。

今ではかなり理解が進んでおります。
mmky様の「一休法師よろしくゴミを集めて楽しんだに過ぎないという、何ら一片の真理も含まれていない」は「これだ!」と思いました。
また、kadowaki様の「ソーカルの揶揄するような外来語・訳語を駆使することに知的虚栄心を擽られる人たちを、日本では昔から文化人・知識人・学術経験者と呼び、その呼称に人々は揶揄、追従、迎合、嫉妬、羨望等の念を込めてきた。」は、フランスの学者たちにあり得そうなsnobbismに相通ずる気もしました。

ここまでのソーカル『知の欺瞞』の考察ポイントを以下にまとめさせていただきます。

・文芸と学問とは異なり、学者として「透明性」「正確性」に期すべきである(chototu様)
・読み手のスタンスとして一片の真理を見出そうという姿勢を貫くことにより、見える対象も異なってくる、まさに百花繚乱である。(mmky様)
・日本語は4種類の文字を同時に込めて表現し得る世界に冠たる書記(文字)言語であり、かつ、ソーカルの説く「知の欺瞞」が、ある意味で彼が見ていた西洋にもまして、より典型的な形で露呈していると言える。(kadowaki様)
・漢字を使った翻訳による「変質」は避けられないどころか、新しい世界を構築し、我々の世界観を多様で豊かにするという意味で歓迎するべきであり、むしろ昨今のカタカナ言葉の氾濫は憂うに値するものがある。(chototu様)
・音と訓があると言うことは、言語に関して日本人は欧米人の持っていないもう1次元余分な次元のある世界に住んでいると言うことであり、欧米人の言語分析では認識することが不可能な質感(クオリア)を日本人は感じ、それを認識できると言う素晴らしさを持っている。(chototu様)

そしてこのたびのbragelonne様のご回答、そのあとのmiko-desi様(ありがとうございます)に心より感謝申し上げます。
今ではフーコを含めてポストモダンについての負の部分に関心が移ってきているのです。
もちろんbragelonne様が「そんなもの害あって一利なし」のスタンスは承知の上です。

明日朝早いので今お礼をさしあげておりますが、かなり眠く…でもbragelonne様はせっかちなお方ですからね、youtubeでMichael Jacksonを大音量で聴きながら回答しております(笑)
ちょっとカッ飛んでるところがあったら、きっとそのせいです♪

補足日時:2009/06/28 00:59
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この回答へのお礼

補足欄の続きです(順序が逆になってすみません。)

>かような《自然》の振る舞いに――たとえ他の人からおしえられた場合にしても―― けっきょくその内容について《へそが曲がったかどうか》を判断する基準が含まれている。と分かる。のではないでしょうか?
>《スサノヲ自然(それは 動態)》の内に 《アマテラス規範(それは コギト)》が みづからの能力として含まれているのではないでしょうか?

このご主張なのですが、わたくしたちは学者の方々の足もとに及ばないまでも、「透明性」「正確性」に努めるべきである、という意味でしょうか。
アマテラス、スサノヲという言葉を用いていらっしゃるところから、自らの自由意思にもとづく積極的に取り組むべき倫理感の意味をもこめていらっしゃるように拝察致しました。
やはり哲学と倫理はきってもきれないものなのですね。

>貪欲な哲学は これらすべてをその言語表現におさめようとするかも知れません。神出鬼没ですね。

こちらに関しては、ある意味mmky様の「百花繚乱」のお考えにも相通ずるものがあるように感じられました。
わたくしはまだ「土おこし」の段階ですが、いつか虚心坦懐に諸々を愛でることができたらいいなあ、と思っております。
とても楽しいし面白いでしょうね。

キリスト教にも「百花繚乱」のような概念があるのでしょうか。

>明晰でないものは 哲学ではありませんが 精確を期すことが 明晰であることだと考えます。( La clarte orne les pensees. )
>精緻・緻密さを断念するときには そのようにことわればよいわけです。二者択一ではないでしょう。

わかりました。最大限に努力してみることに致します。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2009/06/28 02:07

#9です。



>わたくしは今もって「正確性」と「透明性」の区別が曖昧でして、どちらかというと前者の囚われが大きいために、chototu様のこれまでのご回答で見過ごしてきた部分があるようです。

正確な表現と透明な表現が極端に違ってしまう例を示すと、この違いが分かると思います。ここでは数学の例を出しますが、論理を展開する時には、数学ばかりでなくあらゆる学問でそのような例を探すことが出来ます。その例としてここでは、xを3に近づける極限を取った時にx^2 すなわちxの2乗が9に近づくことを、先ず「正確」に表現してみましょう。それは数学でε-δ 論法と呼ばれているもので、

任意の正の数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、 0 < |x - 3| < δ を満たす全ての実数 xに対し、 |x^2 - 9| < ε が成り立つ

です。何を言っているのか一寸分からない不透明な表現ですね。一方「透明」な表現は、

x^2のxに3を代入してみると、9になる。したがて、x^2は9に近づく

です。どちらが分かり易いか、一目瞭然でしょう。しかし、理屈を言い出すと、xがゼロから出発してだんだん大きくなり1に近づいていく場合には、そのxは3にもだんだんと近づいています。したがって、xが1の極限に近づいてしまうと、x^2は1になるのであって、9にはなりません。この混乱を避けるために、数学では上のように正確に表現する必要があるわけです。そして、関数が不連続だったり、何処かで無限大になってしまったりするような特異性を持っている場合には、上のように正確に論じずに、いきなり代入して計算してしまうと間違いが起こる可能性があるのです。しかし、ここがくせ者です。理屈の上では間違う可能性があるのですが、では現実にはどうか。私は複雑な数学を駆使して物理学の現象を散々論じて来ましたが、ウン十年の経験で、上のように正確に論じなくてはならなかったのは、たった一度だけでした。私は数限りなく多くの極限の計算をして来ましたが、その値を単なる代入で計算して間違った試しはその一度の例を除いて、在りませんでした。もちろん数学のある分野ではε-δ 論法を使わなければ日も明けないという研究分野もあることは承知しておりますが、そんな分野を研究している方達は数学の中でも例外に属します。したがって、たとえ正確な表現がある場合にでも、その表現がゴチャゴチャして不透明な場合には、それを一々正確に表現をして頭脳に負担をかけてしまうのは、馬鹿馬鹿しいばかりでなく、もっと恐ろしいことには、その負担による疲れから自分の主張の本質に辿り着けないことすらあります。その場合には、少々不正確でも、透明な表現を使っていきなり本質に辿り着く方が、創造的な営みにとっては遥かに効率が良いのです。そして、自分では仮令まだ正確な表現がはっきり理解していなかったとしても、自分の表現よりももっと正確な表現があることを知っていさえすれば良いのです。そして、透明なはずの自分の表現ではどうしても混乱するというような、一生の間に滅多にお目に掛かれない状況に遭遇できたら、貴方はその幸運に歓喜すべきです。その時になって、初めて正確な表現を体得すれば良い。そのようにして体得した正確な表現の理解の深さは、普段必要もないのにやたらに正確に表現している人よりも、遥かに深いのです。そんな体験をした後でなら、意気揚々と、皆に向かって、私ってこんな正確な表現の仕方も知っているのだよと、自慢すれば良いのです。

>>「自然の法則」に対応する英語は「Laws of Nature」です。
>>この英語の表現をそのまま英語で理解してしまうと、日本人に取っては「自然は不自然である」
>>彼等は「Law」という言葉をわざわざ意訳して「法則」という言葉を見つけて来たからです。

>このケースの場合、「正確性」<「透明性」と言えるのでしょうか。

この例は、正確性と透明性という視点で捉えるべきではなく、文化人類学者の言う「厚みのある記述」と「薄っぺらな記述」の側面で捉えるべきだと思います。「薄っぺらな記述」では、「自然が法律に従うはずがないではないか。だから、こんな馬鹿げた物理学を勉強する必要はない」です。一方「厚みのある記述」では、「我々からこの他文化の言葉遣いを見ると、どうもこの文化には、法律という言葉で我々が認識しているものとは違う意味を含ませているのではないか。そこで、この言葉の使い方を掘り下げて理解し、我々にも納得する言葉使いで表現したら何に対応するのか考えてみよう」となります。

>つまり「自然を人の手でコントロールする、しばる」というニュアンスが「Laws of Nature」に込められているのではないでしょうか。

そう言う見方も在りましょうが、日本人も西洋人とは違った方法で、西洋人よりも露骨に自然を自分の思い通りにしようとする側面もあるかもしれません。ある友人が、「盆栽とはこの宇宙を手のひらにのせてしまおうと言う欲望の表現である」と言っておりました。そう言えば、枯山水なども、自分の庭に深山をそのまま取り込んでしまおうと言う、自然の支配としては西洋人には思いも付かなかった極致に至ったと見ることも出来ますね。

私が好きなモンテーニュの一節に、「学問を通してものを理解するには、母熊が小熊を育てるようにしなくてはならない。母熊は小熊をただ普通に抱いて可愛がるばかりでなく、小熊の頭を上にしたり下にしたり、横にしたり縦にしたりしながら、体中の至る所を嘗め回して育て上げて行くのだ」との趣旨のことを述べておりました。

私が思索が好きなのは、この母熊のように対象をいじくりまわし、皮を一皮、二皮と剥いて行くと、どの民族のどの文化にも、あるいは哲学や物理学ばかりでなく、どんな分野の学問にも、何か底なしの淵が横たわっているらしいことが見えて来るからです。そのような人間の物の見方の複雑さが、この思索の世界を多様にし、尽きることのない面白さを保証してくれているようです。

蛇足ですが、日本の各地の伝説では、各地の山奥の谷川の底知れぬ淵が竜宮城につながっていると考えられていたそうです。そんなことを考えただけでも楽しいし、さらに、ではどうしてそんなことを考えるようになったかを分析することによって、その淵から日本人の世界観の一端を覗き込んでみたら、増々楽しいでしょうね。

この回答への補足

お礼の続きを記させていただきます。
恐縮ですが、日本語の訓読みに関する引用をさせていただきます。

「訓読というものが、漢字による国語表現の基礎となった、と宣長は言う。 わかり切った事と他人事のようには言うまい。 漢字漢文を、訓読によって受止めて、遂にこれを自国語のうちに消化して了うという、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に関して、日本人だけが働かしたものであった。
 例えば、上代朝鮮人も亦、自国の文字も知らずに、格段の文化を背景に持つ漢語を受取ったが、その自国語への適用は、遂に成功せず、棒読みに音読される漢語によって、教養の中心部は制圧されて了った。 諺文(おんもん、ハングルの旧称)の発明にしても、ずっと後のことであるし、日本の仮名のように、漢字から直接に生み出されたものではない。 和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。 これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。 漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。 この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。 これは非常に長い時間を要する仕事であった。 言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。 時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。 それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種の放れ業とでも言っていいものから始まっているからだ。」小林秀雄『本居宣長(p331-332)』

また、先程chototu様ご紹介のご回答も拝見してまいりました。
念のため、再度挙げておきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5062568.html

そして以下のコメントが一番心に残りました。
「音と訓があると言うことは、言語に関して日本人は欧米人の持っていないもう1次元余分な次元のある世界に住んでいると言うことです。したがって欧米人の言語分析では認識することが不可能な質感(クオリア)を日本人は感じ、それを認識できると言う素晴らしさを持っているのです。それ故、哲学における言語批判の在り方も、日本人のそれは西洋人のそれとは自ずと異なっているはずです。外国人の貧弱な言語構造に関する言語批判論の翻訳に汲々としているよりも、それを参考にしつつも、音と訓ばかりでなく,漢字仮名まじり文と言う多次元構造を持つ日本語の豊富な構造を駆使した言語批判を展開して、人類の持っている思考の多様性に貴重な一章を日本人が付け加えるのも一考かと存じます。」

>「盆栽とはこの宇宙を手のひらにのせてしまおうと言う欲望の表現である」
>枯山水なども、自分の庭に深山をそのまま取り込んでしまおうと言う、自然の支配としては西洋人には思いも付かなかった極致に至ったと見ることも出来ますね。

はい、おっしゃる通りでして、盆栽などに代表される「縮み志向といった日本人の感覚」は後のトランジスタの製品化センスにも相通ずるものだったのではないでしょうか。
また庭園に関しましては、「西洋人も思いつかなかった自然の支配」つまり「仏教的な宇宙観」を自ずと見ているのだと思います。
自然との調和、共存、一体感といった深遠さに他ならないと思います。

>何か底なしの淵が横たわっているらしいことが見えて来るからです。そのような人間の物の見方の複雑さが、この思索の世界を多様にし、尽きることのない面白さを保証してくれているようです。

はい、本当に興味も楽しさも尽きません。面白いです。
モンテーニュの母子熊の話は初耳でした。
「母と息子の熊」といえばギリシア神話と星座ですよね。
何故「母と息子」ばかりなのでしょう、また、日本の山岳信仰などにおいて同様の例は存在するのでしょうか。
そして自らが母親であるためか、最近哲学カテを拝見していても、何故か仏教関連の回答に母性のような受容性を見出し、相対的にキリスト教関連に対しては厳格な父性を感じてしまうのです。

補足日時:2009/06/27 19:14
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この回答へのお礼

chototu様、いつも得難いご教授に対し心より感謝申し上げます。

わたくしはこのたびの「透明性」と「正確性」に関するお話を、大変明快に理解することが出来ました。
物理学におけるそれらは、いかなる他の学問にもまして重要であり、よりストイックに求められることでしょう。
ど素人のわたくしでさえも想像に難くありません。
極めて適切なたとえ話に加えて、さりげなくわたくしを鼓舞なさってくださるのですね。
そのあたたかいお心遣いがまた嬉しいのです。


>文化人類学者の言う「厚みのある記述」と「薄っぺらな記述」の側面

はい、こちらにつきましてもはっきりと理解することができました。
言葉に深み、奥行を持たせて、多義性を兼ね備える「厚みのある記述」を心がけること、言葉の生みの親への敬意を払うこと、そして感謝の気持ち。
たったこれだけのことですが、言うは易しで、大変知的で生産性の高い行為ですね。
そしてそれ自体があらたな創造でもあり、また新たな別の創造へと繋がっていくのでしょう。
明治時代において数多くの外来語の訳語(漢熟語)を生み出した先達の膨大な努力とあたり前に享受できる恩恵に対し、わたくしたち日本人はいま一度顧みて感謝すべきなのでしょう。
そして堂々と誇りに思うべきだと思います。

このたびの『知の欺瞞』の真相の考察により、はからずも多くの日本語や日本文化の良さの再発見に繋がっていることに気付かされるとともに、あらたな驚きと喜びを感じております。
とてもエキサイティングで楽しいです!

お礼日時:2009/06/27 17:34

#11です。



その部分の最後に、大変重要なことを付け加えておきます。すでに亡くなってしまった、最も尊敬していた私の師の墓碑銘に、

   驚きは創造の源である

と書かれております。その方が生きておられた時には、このことに関して会話を交わしたことがなかったのですが、実はその墓碑銘を見る以前から、「驚きは私を歓喜させる」という言葉を自分の中に見出していましたので、その墓碑銘を見たときのに、「え、先生も同じことを考えていたのだ」と、私の師との一体感に無上の幸福を感じ経験があります。
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この回答へのお礼

chototu様、身に余るご教授ならびに御厚意に心より感謝申し上げます。

>驚きは創造の源である
>私の師との一体感に無上の幸福を感じ経験があります。

とても素敵なお話ですね。
何物かを発見する驚きは歓びと創造の源、なのですね。
物理学者でいらっしゃる御二人の生きる喜びと楽しみが、こちらにまで伝わってくるように思われます。

恩師でいらした御方との素的なエピソードをまた思い出されましたら、是非ともお聞かせ下さいませ。

お礼日時:2009/06/27 01:15

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