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このたび『知の欺瞞─ポストモダン思想における科学の濫用』という書をざっと読みました。
そしてわたくしが哲学カテで始めて回答(noname#76229)を寄せた「哲学と言葉」という過去の質問を思い出しました。

その回答では少し他人と異なった見解、つまり哲学カテにてあえて「数学・科学」の合理性を示そうと『黄金比はすべてを美しくするか?』という書物を引用させていただきました。
これは古代のパルテノン神殿やオウムガイの殻やひまわりの種の配列、はたまた音楽、文学作品に至るまで、ともすると「絶対視」されかねない「黄金比という伝説」がどこまで妥当であるか、を宇宙物理学者である著者が検証していくものです。
黄金比を必要以上に賛美せず、懐疑的な眼差しで丹念に考察していく著者の真摯な態度に大変好感が持てました。

ですが『知の欺瞞』は先の書物以上に高価であるのにはたして購入した価値があったのか?と思うほど、どこか不毛なニュアンスを感じてならないのです。
確かにソーカルの言い分も愚鈍なわたくしなりに理解できたのですが、単なる「メタファー」「アナロジー」としてポストモダンな思想家たちが用いていることに対し「知の欺瞞」というほどのひどく酷いものだったのかな、と思うのです。

まあ、ナンセンス極まりなく思わず笑みがこぼれるようなテクストであっても、読み手側がその裁量でそれなりに哲学思想の「ゆとり」と捉えたり、クエスチョンマークをつければよいのではないでしょうか。
それをわざわざパロディー論文の作成・掲載をするなどという行為は、いかにもアメリカの「おとり捜査」の「わな」を想起させて(厳密にはおよそ異なるものですが)、せっかくのおもしろい問題提起(警告の意図)が逆に「えげつない悪趣味」のようにすら感じてしまうのです。

つまりポストモダンの思想家たちは、自身にも定かではない或いは表現し尽くせない何か思いや未知の可能性を秘めて、自然科学の用語を「濫用」しているのだろうなあ、とナンセンスな箇所を軽く受け流せば済む話ではないでしょうか。
はたして巷で言われる「混乱」に陥れる類のものだったのでしょうか。

むしろ「人文科学と社会科学の多くの研究者が感謝の手紙をソーカルに寄せ、彼らの分野の大きな部分を支配しているポストモダン的な潮流や相対主義的な傾向は受け入れられないと書いてきた。中には、心動かされる手紙もあった。ある学生は、彼の学資が王様の着物に費やされていたと感じると言ってよこした。その王様は、例の寓話にあるように、裸だったのだ。同僚も自分もパロディーに興奮したが、そのことは秘密にしてほしいと言ってきた人もいる。(p3)」と大騒ぎする人々に大変興味がいきました。
彼らはポストモダンを生業としているためそれほど大騒ぎしたということなのでしょうか。

みなさまは、はたして哲学思想において比喩としての用途に「自然科学の用語」を用いることはソーカルの説く「知の欺瞞」「自然科学の猿真似はやめよう。(p249)」とまで言い切れるとお考えでしょうか。

なおわたくし個人的には今現在も未来も科学の発展に大いに期待しており、哲学思想や芸術というファクターを加味して三つ巴でバランスをとっていけばよいと考えておりまして、今の時代を一概に科学偏重主義だと非難するスタンスではありません。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (22件中11~20件)

追加です.



>こちらに関しましてはわたくしの過去の回答に目を通していただければ殆どが実体験に基づく主観的で偏見に満ちた内容かをご理解いただけるはずです

とのことでしたから,昨夜随分と時間をかけて見ましたが,
やはり同じです.
雑誌含め書籍を読めば言える程度のことしか書かれていませんね.
もし,これを経験からと言われるならば,見えてない方だとしか言いようがない.
論理の裏側,言葉の裏側に潜む影を見ることが哲学には重要です.
どこぞのファッション雑誌のコピーのようなことしか言えないのは,それが経験からではないからか,その程度の経験則しか得られなかったということでしょう.
光にばかり目を取られていては,メクラになってしまいますよ.
ソーカルがポストモダンという新光にメクラになったようにね.
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>肝心の『知の欺瞞』に対する考察ないし根拠が全くみられず、むしろわたくし個人に対する関心をお持ちのように察せられました。



わたくしさん個人に対する関心をお持ち
とは何たる自意識過剰.
それで,考察ないし根拠が全く見られないと言われるのは,また何ゆえですか?

どうも私の意図した指摘が全く理解できておられないようですね.
『数多ある玉石混交のあらゆるものに,あなたは玉を見つけることが出来ない,それだけの話です.』
この一文をわたくしさんはどのように解釈なさったのでしょうか?

>たしかにソーカルはパロディー論文を作成公表しましたが、わたくしは彼の主張を至極自明のことと考えておりますし、ましてやtomenteurs様のように「自意識過剰ぶり」であるとは毛頭考えてはおりません。

額面通り にしか解釈できないとなると,哲学はどこまで行ってもわたくしさんには無縁かもしれませんね.
深遠なる世界とは言葉の表には決して見えないものですよ.
何が自明で,何がナンセンスなのでしょうね?


>仮に他人に傾聴したならば、必ずしかるべき書籍ないし文献にて裏をとり、かつ、どこか自分流に肉付けした上で自ら主張しております。

書籍ないし文献にて裏をとることはご立派ですが,そこに拘泥し過ぎて見えていないものが数多なのではないですか?
ナンセンスの意味と書籍や文献に示される事,両者をわたくしさんはわかっているのかな?

ポストモダンを自意識過剰過ぎたソーカルと,わたくしさんのポリシーのない哲学,この接点から私には面白いものが見えるのですがね.
ま,じっくりロムさせてもらいますよ.
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再び#7です。

「平等」に搦めた、落語の三題噺、じゃなかった、そこの五題噺に関する私の独断と偏見を披露させて頂きます。

神の下での平等:
この言葉は、平等という概念が如何に論理的に根拠薄弱なものであるかを象徴的に表してる。そもそも、この概念を正当化するのに何故、得体の知れない神なる概念を導入しなくてはならないのか。

天皇:
日本人はユダヤ・キリスト教の影響を受けずに、そしてまた、神の存在に言及することなく、平等という概念を彼等と同じレベルで認識することが出来た。そのために、天皇を別格におき、「天皇の下の平等」という概念を見つけ出して来た。実は、奈良時代から江戸時代にかけての長い間、一般民衆に取っては、天皇とお公家さんはどうやら一緒くたにされていたようです。片田舎にお公家さんがたまたま訪れて、ある民家の湯にでも浸かろうものなら、村中の人達がその湯をもらいに来たそうです。それを飲むと万病が直ると信じていたからだそうです。そんなことは、どんな偉い将軍様やお侍様が来ても起こらなかったそうです。ですから、将軍様と言えども、天皇の下では一介の私人であることが、国民全てに認識されていたようです。

封建制度:
これは支配形態として、中央集権制度とは相容れない制度です。もし、その国に圧倒的な権力者が存在する場合、それに対抗する勢力は全て抹殺され、一国にたった一人の王や皇帝が出現し、その国王の任命した官僚が国民を支配する。だから、土地も国民も、直接その国王に属しているのが中央集権制度です。天皇家が国を統一して、その当時の超文明国の中国から、その制度を教わって、約5百年程の実験を日本でも行いました。結局その制度は日本には馴染まないことが分かるようになって、源頼朝が外国から教わるではなく、独自に見つけ出して来た制度が、幕府制度と呼ばれる封建制度です。この制度は、その国に圧倒的な権力者がおらず、各地方の豪族達がドングリの背比べのような状態の時にのみ存在可能な制度です。その場合、各豪族の合意の下にその豪族集団で一番力の強い者を王の王(日本では将軍と言う)として認め、その権威を、政治権力がないが象徴的な存在としての権威、例えば日本では天皇、西欧では法王等からお預かりするという形で、政治の安定を図るを制度が封建制度です。事実、徳川家と言えども高々八百万石と言われており、全ての外様大名が束になったら、徳川家も敵いませんでした。このような制度では、少なくとも各豪族には土地の所有を認められている制度です。この2千年ほどの歴史で、封建制度を安定期に明確に採用していたのは、西欧と日本だけであり、他の国々では圧倒的に中央集権制度だったそうです。封建制度では、各豪族に土地と言う私有権が認められていたので、資本主義社会での本質的な概念である私有財産性が高度に発展します。聞くとことによると、人類の歴史で私有財産性を憲法に最初に成文化したのは、日本の鎌倉時代の貞永式目だそうで、そこではそれを「本領安堵」という言葉で表現してあります。西欧がこの概念の重要性に気が付き、それを憲法の中に成文化するのは貞永式目より数百年後のことです。中央集権制度ではなく、封建制度を採用していた、日本と西欧と言う、この例外の二つの地域だけが、近代産業革命をスムーズにやってのけたのには深い意味がありそうですね。しかし、話が長くなるので、そのことは論じないことにします。

大政奉還:
上でも述べましたように、将軍と言えども天皇の下では一介の私人ですから、皆の同意が得られなければ、その権力を天皇にお返ししなければならないという徹底した平等意識がなければ、このような形式で権力の委譲が行われなかったはずです。

頼まれたんならしかたがない:
日本人を命令では動かすことはできない。戦前の日本の軍隊では、兵隊を上手に動かすには、命令しては駄目だったそうです。士官学校出たての新米将校は、古参兵に命令を出しますが、その場では最敬礼して言うことを聞くようなそぶりを見せますが、裏では「へ、命令だとよ。天皇陛下だって俺のことを命令することなんか出来ねえよ」との心理が在り、命令を適当にサボったそうです。ところが、兵隊の皆から尊敬されている経験のある将校は、「ねえ君、私のために死んでくれないか」とお願いすると、その古参兵は「こんな取るに足りない私に、この将校は目をかけてくれた」と感激して、火の中でも水の中でも飛び込んで行ったそうです。命令ではなく、指導者の人格に基づいて兵隊を導いて行くことを「統率する」というのだと言うことを、私は以前大使館付きの自衛官だという方から、聞いたことがあります。このように、日本人には平等意識が骨の髄までしみ込んでおり、少なくとも明治以降では、全ての日本人は、天皇や公家を除いて、身分は人格に付随するものではなく、社会をスムーズに流れるようにするための機能として存在しているものであると考えていたようです。この点が欧米人とは違っており、命令社会である欧米では、日本とは違って、地位の低い者を人格の欠けた者と同一視する傾向に在ります。明治以前でも、身分に関しては国民の大半に不満があったようで、明治政府の四民平等は、身分が無くなるのではなく、全員がお侍さんになることだと思った者が大変多かったと聞いております。こんな発想は、「俺もあいつと同じ人間ではないか。何であいついだけが」と言う対抗意識を燃やした平等意識の面白い現れだと思います。戦前の陸軍の関東軍での「下克上」で、上級将校が中流将校をコントロールできなくなって、戦線をどんどん広げて行ってしまった現象など、命令社会では考えられないような現象です。皮肉にも、この陸軍の失敗なども、日本が如何に平等国家であったかの証左の一つになりそうです。

>「皆の言っていることの反対が常に正しい」の「皆」とは、いったい何を指すものでしょうか。

論理の分かり易い、所謂常識的な意見のことを象徴的に「皆」という言葉で表現しました。私は物事を一皮も二皮も剥いてその裏を抉り出し、「我何をか知る」を座右の銘としたモンテーニュに多大な影響を受けておりますので、自分の学問をしていても、皆と反対な物の見方を自分でも納得する形で見つけ出した時には、いつでも歓喜しております。私の書いて来た論文は、ある意味でそんなことの発見の報告ばかりです。

この回答への補足

お礼の続きを記させていただきます。

>日本と西欧と言う、この例外の二つの地域だけが、近代産業革命をスムーズにやってのけたのには深い意味がありそうですね。

はい、是非とも御説をお聞かせいただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。
日本古来の「進取の気性」「勤勉な国民性」「成熟した江戸文化」、「隣国の惨状」などを列挙し得ますでしょうか。

>大政奉還:
>将軍と言えども天皇の下では一介の私人ですから、皆の同意が得られなければ、その権力を天皇にお返ししなければならないという徹底した平等意識がなければ、このような形式で権力の委譲が行われなかったはずです。

古今東西において、日本以外に「天皇制と幕府制の両立」といった類の政治形態がいったい存在したのでしょうか。
当時訪れた外国人の眼にはとても奇異でユニークに映ったことでしょう。

>頼まれたんならしかたがない:
>日本人には平等意識が骨の髄までしみ込んでおり、少なくとも明治以降では、全ての日本人は、天皇や公家を除いて、身分は人格に付随するものではなく、社会をスムーズに流れるようにするための機能として存在しているものであると考えていたようです。この点が欧米人とは違っており、命令社会である欧米では、日本とは違って、地位の低い者を人格の欠けた者と同一視する傾向に在ります。

はい、ヨーロッパは古いクラスが残っていますから、階層間の移動も容易ではありません。
「主人と執事」のニュアンスが海外勤務時のメイドさんに対する接し方にも感じられると思います。
日本ではおよそあり得ない「毅然とした主人としての態度」が示されなければ逆に大変なことになる恐れもあったりもしますから。
また、陸軍の失敗要因が「平等」によるものとは想像すらつきませんでした。

>私は物事を一皮も二皮も剥いてその裏を抉り出し、「我何をか知る」を座右の銘としたモンテーニュに多大な影響を受けておりますので、自分の学問をしていても、皆と反対な物の見方を自分でも納得する形で見つけ出した時には、いつでも歓喜しております。私の書いて来た論文は、ある意味でそんなことの発見の報告ばかりです。

chototu様からも「考える楽しみ」「発見のよろこび」をご教授くださりまして、感謝の気持でいっぱいです。
いつもありがとうございます。

補足日時:2009/06/26 14:09
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この回答へのお礼

chototu様、このたびも大変明快にご教授くださりまして、本当にありがとうございます!
大変含蓄深いお考えを拝察するに、ここに至るまでにかの地でいかに自問自答なさってこられたのだろうか、との思いを馳せずにはいられません。

自国の歴史や文化を外国人にとりあえず説明する事と、相応にしっかりと理解し納得してもらう事。 
厳然とした差があります。
また、自分にとっての最善を得られたとしても、相手の根ざした文化いかんによっては、話す内容の適宜な選択を求められることもあるでしょう。
そのような状況下では、やはりchototu様のおっしゃる「平等」という概念は、かなり普遍的で有用であると思いました。

>神の下での平等:
>この言葉は、平等という概念が如何に論理的に根拠薄弱なものであるかを象徴的に表してる。そもそも、この概念を正当化するのに何故、得体の知れない神なる概念を導入しなくてはならないのか。

「(超人的ななにものか=)神vs人間」という対比が万人にとって「平等」であると説きやすかったのかもしれません。

>天皇:
>日本人はユダヤ・キリスト教の影響を受けずに、そしてまた、神の存在に言及することなく、平等という概念を彼等と同じレベルで認識することが出来た。そのために、天皇を別格におき、「天皇の下の平等」という概念を見つけ出して来た。

日本人は本当にユニークな歴史や制度を保持していますね。
神話につらなる先祖を持つという「万世一系」の天皇制。
それを転覆する大事件がそうそう勃発しなかった事は大いに驚嘆に値します。
そして隣国である中国のように易姓革命が日本にはそぐわなかった、その決定的な理由は何だったのでしょう。

>封建制度:
>源頼朝が外国から教わるではなく、独自に見つけ出して来た制度が、幕府制度と呼ばれる封建制度です。

この制度も貞永式目の歴史的意義同様、とても画期的な制度だったのですね。
ちなみに日本語として「同じ言葉(封建制度)」でありながら、日本と西洋、それぞれの「封建制度」を表わす、そのメリットとしては何か考えられますでしょうか。
そして英語表記も同じなのでしょうか。

お礼日時:2009/06/26 14:08

参考事例についての追伸まで



☆ それとも哲学思想においてこのような「無駄で不毛な遊び」は何ものも産み出さない愚の骨頂なのでしょうか。

参考事例見させていただきましたが割りと面白い表現ですね。ソーカルの主張するような「無駄で不毛な遊び」でもないようにおもいますね。物理数学的な比喩・暗喩もあってもおかしくはないですね。ただ、かなり広範囲の知識が無いと単なる戯言のように見えてしまいますね。心で考えたことを表現するということが如何に多様であるかということだけでしょう。百花繚乱ですね。
例えばの話ですが、言語が数式だけの宇宙人がいて、その宇宙人と地球人が会話をしなければならない事態に陥ったとしましょう。その宇宙人に地球人は、例えば、仏教的な因果応報はどのように説明するのか。あるいはどのように諸行無常を説明するのか。について考えてみると参考事例は読み方が変わりますね。

『鏡像状態に引き続く統語論的操作において、主体=患者は彼の単一性をすでに保障されている。意味生成(シニフィアンス)における「点∞」への彼の逃走は止められている。』

● 割と面白い表現ですね。「鏡像効果と操作があるので、意味生成は発散はしないよ!」といいたいのでしょう。因果応報でしょうかね。

『通常の空間R3上のある集合C0・・変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づく・・』

● これも割りと面白い表現ですね。何事も諸行無常ですかね。

どのように表現しようがその中に含まれる一片の真理があると信じ、読み解きたいと考えるならば見えてくるものも変わってくると言う事でしょうか。
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この回答へのお礼

mmky様、何度もご回答をくださりまして、本当にうれしいです。
ありがとうございます。
このたびのご回答、凄く驚きました!
で、そのあと何だか楽しくなってまいりました♪

>割りと面白い表現ですね。ソーカルの主張するような「無駄で不毛な遊び」でもないようにおもいますね。物理数学的な比喩・暗喩もあってもおかしくはないですね。ただ、かなり広範囲の知識が無いと単なる戯言のように見えてしまいますね。心で考えたことを表現するということが如何に多様であるかということだけでしょう。百花繚乱ですね。

「割と面白い表現である」とはなんと!!
クリステヴァのあのテクストから「因果応報」や「諸行無常」を見出すとは…。
何てユニークな読み解きなのだろうと、もうもう、わたくしは憧憬のまなざしでmmky様を見つめております。
そしてここでもやはり「一片の真理」がかかわってくるのですね。
書き手のスタンスではなく読み手のスタンスでしょうか。
mmky様の生き様にも通ずる、「百花繚乱」を愛でる心のゆとりを感じずにはいられません。
「ありきたりでつまらないとおり一辺倒な哲学論」ではないからこそ、ストレートにわたくしの内に響いてくるのだと思います。

そしてこのように考えますと、『知の欺瞞』の書籍にあらたな楽しみを見出せるのですね。
もちろんmmky様のような広範かつ豊富で深遠な知識教養が最低限必要なのでしょう。
ですが今すぐでなくとも、10年スパンで(その頃は50歳ちょい)ゆるゆると一つでも二つでも自分なりの何かを発見出来たら最高!かもしれません。
このデフレ時代、3200円の価値もそう考えたら十分元がとれそう、そんな根拠不明の明るい予感がしてくるから不思議です。

そして背伸びをせずに身の丈にあった「考える楽しみ」を味わっていけたらいいなあ、そんな風に考えられるようになってまいりました。
今後ともご指導賜りたく、よろしくお願い申し上げます!

お礼日時:2009/06/26 10:34

#7です。



私は長年大学院生を指導して来ましたが、学生の中にはこちらの言うことに共鳴できる方と、中々共鳴できない方がおります。私の師との共鳴、私の同僚との共鳴、私の弟子との共鳴、それぞれを通じて、私はソクラテスの産婆説に心から同意を得るに至りました。前もってその人の中にそのことに関する認識の胚芽を持っていない限り、どんなに重要なことを相手に伝えても、相手には分かってもらえない。ところが、自らの思索によって、無から有を創り出し、すでにその胚芽を持っている方には、こちらで詳しい論理を展開しなくても、キーワードを打つけただけで、相手は一気にことの本質を理解してくれるという経験を何度もして来ました。ですから、学生には、たとえその学生の主張が私や他の方の主張の鸚鵡返しになっていようとも、それは最早、貴方の意見であり貴方の創造であると言い聞かせています。

孰れにしましても、自分に共鳴できる方に巡り会えることは大変に好運なことだと思います。まさに、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」の心境です。

さて、
>ということは、chototu様はある言語から別の言語へ翻訳する際には、やはり何らかの「変質」が生じていたしかたない、ゆえに意訳以上に正確性を優先なさるというスタンスなのでしょうか。

に関して、意見を述べさせて頂きます。私は、どんなに客観的に見え、その人が属している文化には一切独立に認識できるように見えることでも、実は自分が使っている母国語に影響されずに認識できることはないと思うようになりました。例えば、物理学には「自然の法則」というのがあります。そして、物理学は、物質の世界を客観的に記述する学問であり、その認識に付いて、各々の主観や、あるいはその方の埋め込まれている文化にはよらない学問であると、多くの人は考えているようです。ところが、「自然の法則」に対応する英語は「Laws of Nature」です。この英語の表現をそのまま英語で理解してしまうと、日本人に取っては「自然は不自然である」という、とんでもない主張がこの言葉の中に含まれていることに気付き、戸惑いとともに、何が何だか分からないことになってしまいます。事実、Law school という言葉があるように、「Law」とは「法律」のことです。日本人に取って完全に意味の違った「法律」と「法則」に同じ符号の「Law」という言葉を当てていることからも分かるように、欧米人は、日本人の見る自然とは全然違った自然を見ていることがこの言葉の中に明確に現れているわけです。

日本人に取って「法律」とは、ある権威が「ああせい、こうせい」と言う規則を作って、皆に従わせるものです。ところが、「自然」とは自然体という言葉があるように、はじめはマニュアルなどを見て規則を覚え、それに従って形を作っていても、その後の繰り返しの訓練で、その形が自ら然りと収まるところに収まって来た状態であり、その状態では最早規則を忘れても良い。我々日本人に取っては、規則に従っているようでは自然ではないのです。ですから、江戸末期の日本人が「Laws of Nature」に対応するオランダ語を蘭学で教わった時には、自然は不自然であるとでも言うのかと、度肝を抜かれたと思います。その証拠に、彼等は「Law」という言葉をわざわざ意訳して「法則」という言葉を見つけて来たからです。私の知るところでも、この言葉は江戸時代の儒学者貝原益軒の『和俗童子訓』のなかで「文章の法則」という形で使われており、これを「のり」と読ませていました。「Laws of Nature」の「Laws」を法則と訳したのは大変に巧い訳だと思いました。実際、文章の規則など法律で決める物ではなく、皆が使いこなして行くうちに自然と収まるように収まって出来てくる規則なのですから。中国人の友人に聞いてみたら、彼等も法律と訳すことは出来ず、彼等は物理に関しては「定律」と訳しているそうです。

このように、我々を取り巻いている外の世界も我々の内の世界も、それをその人が埋め込まれた文化や母国語の構造から逃れて認識できる物は存在していないようです。別な言い方をすると、その国で育たない限り、外国人が提示した概念を、その方と同じに認識することは出来ないようです。ですから、その概念が世界の見方について本質を突いている場合、その外国語を一旦自分の母国語に翻訳し、その言葉の中に自分の文化を投影して、その外国人が発見した概念に新しい意味付けをし、その概念に厚みや奥行きを付与することは、大変重要な学問的寄与だと思います。その結果、我々の思索の世界が増々多様になって行くからです。

また、日本語には、音と訓、さらに漢字仮名まじり文など、表音文字一辺倒の国の連中にはない、高度な言語の構造が存在しています。アルファベットは訓読みしか在りませんので、言わば一次元の世界に住んでいるような物です。それに対して、日本語には言語空間の中に、音という他の次元ある。更に漢字仮名まじりによる表現法は、また別の新しい次元をその空間の中に付け加えております。我々日本人は、西洋人にはない多次元空間の中で思索をすることが出来るのです。次元が増えるごとに思索の自由度が増えて行きます。したがって、どんな学問の成果でも、それを原語やカタカナで表現するのではなく、漢字に翻訳し、その音と訓の組み合わせによって思考空間の自由度を増やして行くと、元の外国語では見えなかった世界が出現する可能性が大変に高くなります。上で触れた「法則」と「法律」はその好例です。これは全ての学問で言えることですので、もちろん哲学にも当てはまります。

明治以降の先人達が、専門用語を必ず漢字に翻訳して来たことを見ると、先人達が、ここで私が述べたことを十分承知していた証拠だと思います。ところが、最近私が憂えているのは、学者達がその漢字への翻訳作業の手抜きを仕出し、カタカナ語をやたらに使い出したことです。そのことで、日本の学問が単なる外国文化の紹介になってしまい、日本でのオリジナルな学問の発展を何れだけ妨げているか、想像も付かないくらいです。

以上のことから、漢字を使った翻訳による「変質」は避けられないどころか、新しい世界を構築し、我々の世界観を多様で豊かにするという意味で歓迎するべきだと思います。

>意訳以上に正確性を優先なさる

に関しては、私は正確さよりも透明さにこだわりますので、あまり大差がないなら、それを見出した方に敬意を払った表現に軍配を上げます。私にも野心が在りますから、もし私が言い出しっぺだったにもかかわらず、大した違いもないのに私の言葉であったことの痕跡が残らないような改良をされたら、私は腹が立ちます。

日本語による表現が、音と訓の存在によって世界的に見て抜きん出て透明な表現になっていることについてのコメントを、

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5062568.html

の#1、2、3で紹介してありますので、そちらも参考して下さったら幸いです。

この回答への補足

このたびのchototu様のご回答を拝見して、更に長年にわたる霧が晴れつつあるような感覚に浸っております。
それは以下の2点です。

>我々を取り巻いている外の世界も我々の内の世界も、それをその人が埋め込まれた文化や母国語の構造から逃れて認識できる物は存在していないようです。

はい、この点につきわたくしも同様に思うところがありました。
いかに海外に滞在して海外文化のある分野に特化して造詣が深くても、母国の文化や母国語の影響を知らぬ間に受けてしまっているのだろう、と。
そして最近では、哲学思想系の書にふれるにつけ、やや厭世的な感覚に囚われておりました。
所詮はオリジナルの意図するところと乖離が生じているであろう、であるならば、わたくしは今何を考えているのだろう、と。

ですがchototu様の
>漢字を使った翻訳による「変質」は避けられないどころか、新しい世界を構築し、我々の世界観を多様で豊かにするという意味で歓迎するべき

というくだりを拝見して、何だか嬉しくなりました。
「漢字」の内包する可能性は未知数なのですね。
確かに熟語一つとってしても、音読み、訓読みに加えて、重箱読み(音x訓)、湯桶読み(訓x音)がありますし。
またそれだけに、「カタカナ語をやたらに使い出したことです。そのことで、日本の学問が単なる外国文化の紹介になってしまい」と憂いていらっしゃるのでしょう。
例えば…「ユビキタス」など、元来は数学用語なのでしょうか。
理解せぬまま何となく新聞を通じて目にする機会があるのです。

そしてもう1点がchototu様のおっしゃるところの「透明性」です。
わたくしは今もって「正確性」と「透明性」の区別が曖昧でして、どちらかというと前者の囚われが大きいために、chototu様のこれまでのご回答で見過ごしてきた部分があるようです。

>「自然の法則」に対応する英語は「Laws of Nature」です。
>この英語の表現をそのまま英語で理解してしまうと、日本人に取っては「自然は不自然である」
>彼等は「Law」という言葉をわざわざ意訳して「法則」という言葉を見つけて来たからです。

このケースの場合、「正確性」<「透明性」と言えるのでしょうか。
この点につきまして確認をさせていただきたく存じます。
また、主観で恐縮ですが、ヨーロッパのみなす自然観の例えとしてシンメトリな庭園美などを想起致します。
つまり「自然を人の手でコントロールする、しばる」というニュアンスが「Laws of Nature」に込められているのではないでしょうか。
そして日本の枯山水庭園は、実際に手を加えているにもかかわらず、その世界観はおよそヨーロッパのそれとは、およそ異なるものかと思われます。

>私は正確さよりも透明さにこだわりますので、あまり大差がないなら、それを見出した方に敬意を払った表現に軍配を上げます。
>私にも野心が在りますから、もし私が言い出しっぺだったにもかかわらず、大した違いもないのに私の言葉であったことの痕跡が残らないような改良をされたら、私は腹が立ちます。

こちらのくだりを拝見して、あらためて生徒と学者との厳然たる「差」を思い知らされた気分でおります。
そして出来得るかぎりこの「透明性」というものを自身に叩き込みたいと思いました。
ご紹介いただいたコメントはこのあとじっくり拝見させていただきます。

貴重な対話を通じて「目からウロコ」が本当に多くてうれしい悲鳴をあげております。 ありがとうございます。

補足日時:2009/06/26 00:06
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この回答へのお礼

chototu様、遥か海の彼方から多岐にわたりご教授くださりまして、本当にありがとうございます。

>自分に共鳴できる方に巡り会えることは大変に好運なことだと思います。まさに、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」の心境です。

稚拙な表現で恐縮ですが、真に得難いご経験をなさったのだろうと拝察致しております。
わたくしは…大学在学時もロクに学ばず、何ら学問的素養を身につけてきませんでした。
とても懇意にして下さった教授が何名かいらしたのですが、逆に教授から貴重な某作家のサイン入り書籍をちゃっかり頂くなど、恩を仇で返すような身も蓋もない生徒でした。
chototu様のおっしゃる「共鳴」の有難味を汲まずに卒業したせいか、生来の知性の低さによるところでしょうか、今もって何という体たらくでしょう。

ですがこちらの哲学カテを通じ深い見識ある方々からご教授いただけることに対し、大いに驚愕するとともにあらためて感謝の気持ちと嬉しさでいっぱいなのです。
特にchototu様からはこのたびの質問の主題のみならず、長年の海外生活を通じて会得なさった「人生哲学」までもご教授いただいているように思われます。 
そして大変光栄に思います。

「師遠方より来る、亦楽しからずや」の心境にほかなりません。
面識のないお方にこのように厚かましきこと、なにとぞご容赦下さいませ。

お礼日時:2009/06/25 22:59

はじめまして.


普段は見てるだけなのですがね.
ソーカル以上のナンセンスと自意識過剰ぶりを見た気がしましたよ.

>ナンセンスや虚飾は糾弾に値しますが

ナンセンスで虚飾に満ちたご自分の存在を糾弾してはどうですか?
他人の意見を自分のことのように話すのは,ナンセンスではないのでしょうか?

>まあ、ナンセンス極まりなく思わず笑みがこぼれるようなテクストであっても、読み手側がその裁量でそれなりに哲学思想の「ゆとり」と捉えたり、クエスチョンマークをつければよいのではないでしょうか。

ならば,あなたもこの件に関して,ゆとりを持ってここに示される必要もないのでは?
いいですか,読み手側に委ねることを主張するならば,
「わたくし」と書く必要はどこにもありませんね.
私と書いても,読み手側でわたくしと読んでくれますからね.
さて,あなたが「わたくし」と書くその理由はどこから来ているのでしょうか?

>その回答では少し他人と異なった見解、つまり哲学カテにてあえて「数学・科学」の合理性を示そうと『黄金比はすべてを美しくするか?』という書物を引用させていただきました

他人と異なった見解というのは,どの辺りをさして言われてるのでしょうか?
どこかで聞いたような低レベルな見解しか述べられない方とお見受けしましたが.


>『知の欺瞞』は先の書物以上に高価であるのにはたして購入した価値があったのか?

あなたがその価格以上の価値を見つけられなかっただけでしょう.
数多ある玉石混交のあらゆるものに,あなたは玉を見つけることが出来ない,それだけの話です.
要するに,読み手側であるあなたに,それだけの受け皿(価値)しかないということです.

もう答えはでているではないですか.
知の欺瞞,これあなたそのものですね.
全て答えはご自分で書いておられますよ.

この回答への補足

愚鈍な読解力で恐縮ですが、このたびのtomenteur様のご回答は肝心の『知の欺瞞』に対する考察ないし根拠が全くみられず、むしろわたくし個人に対する関心をお持ちのように察せられました。
このような無学並びに不遜な者に対し、わざわざ新規にIDを取得なさって下さったご厚意と熱意に心より敬意を申し上げます。
ありがとうございます。

ですが、少々誤解が生じているようですので、こちらの質問を立てるに至った経緯を申し上げたいと思います。

>ナンセンスで虚飾に満ちたご自分の存在を糾弾してはどうですか?
>他人の意見を自分のことのように話すのは,ナンセンスではないのでしょうか?

半分当たり、半分ハズレです。
つまりわたくしの考えは大いにナンセンスですが虚を飾る理由も意図も毛頭持ち合わせておりません。
高1より渡仏を余儀なくされ学んだこと、それは「自らの信条に照らし合わせ、自らの考えを間違い覚悟の上で臆せずに伝える」です。
フランスで相応の期間を過ごすにあたり、他人に追随もしくは賛同ばかりではそのうち相手にされなくなります。
ですから「他人の意見を自分のことのように話す」というのは嫌悪の対象ですし、仮に他人に傾聴したならば、必ずしかるべき書籍ないし文献にて裏をとり、かつ、どこか自分流に肉付けした上で自ら主張しております。
ゆえにわたくしの考えは素人考えのナンセンスや矛盾に満ち、かつ正確性、完璧性におよそかけ離れた部分があるのです。
こちらに関しましてはわたくしの過去の回答に目を通していただければ殆どが実体験に基づく主観的で偏見に満ちた内容かをご理解いただけるはずです。

若かりし頃身についたクセは容易に消せず、今なお思慮浅く思いつきだけで述べておりますので、陳腐な内容は自他共に認めるところで今後の課題でもあります。
加えて学生時代より語学や正確さを期すことに苦手意識を抱いてきましたので、哲学思想に耽ることによりゆるゆると克服していけたら良いなあ、と考えておりました。
そして当質問を立てたことにより自らの思索に欠けていたこと、すなわち「哲学の真理とは」をありがたくもご教授頂くことが出来た次第なのです。

自らの学問的素養の欠如を痛感しておりますし、不器用ですから、いちいち書籍を購入して時に線引きしながら読破しないと全く理解すら出来ないほどの低レベルな者です。
ですから虚飾どころの器量など当然持ち合わせておりません。
そして一番嘆かわしいことは、自らの実体験に基づく経験からしかアイデアを生み出せないという「壁」です。
この「壁」を何としても打ち破りたいのです!


>ソーカル以上のナンセンスと自意識過剰ぶりを見た気がしましたよ.

たしかにソーカルはパロディー論文を作成公表しましたが、わたくしは彼の主張を至極自明のことと考えておりますし、ましてやtomenteurs様のように「自意識過剰ぶり」であるとは毛頭考えてはおりません。
「知の欺瞞」をあえてわざわざ指摘して騒動を起こすに至った理由を知りたかったのですが、「芸術と学問とは違う」という真摯な学者としての倫理感、使命感のようなものから発起に至ったことをご教授頂けました。

ですから今現在では「フランスのポストモダンの思想家たち」があれだけナンセンスなテクストにもかかわらず、何故事件が起きるまで「見過ごされてきたのか」と「ポストモダンに内在し得る真理」について興味の対象が移ってきているのです。
普段見守っていて下さるtomenteur様にも、是非ともこれにつきましてご回答賜りますよう重ねてお願い申し上げます。

補足日時:2009/06/24 21:37
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この回答へのお礼

tomenteur様、ご回答ありがとうございます。

はい、わたくしは「知の欺瞞」の「知」や「真理」の何たるかも弁えぬ無学な者でして、加えて歳相応に本来は求められるであろう学問的素養も教養も何も持ち合わせておりません。
ですからこちらの哲学カテにて多くを学ばせていただいております。

tomenteur様にも、今後とも忌憚のないご助言ならびにご教授を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2009/06/24 20:33

追伸01:


☆「真理」とはいったい何なのでしょうか?
一片の真理とは何ぞやといわずして論じてもといわれましたか。
それはそうですね。それは言っておかないとだめかな。

● 一片の真理とは簡単にして深遠なるもののことです。
良い例ではないかもしれませんが私の回答の捕捉として一片の真理の考え方を参考までに述べておきます。

自然科学者であれば、例えば、簡単に
「重力という見えない力に世界は支配されている。」アイザック・ニュートン。
[一片の真理]→眼には見えないが世界を宇宙を支配するものが存在する。
「光の速度はどのような系によらず一定である。」アインシュタイン。
[一片の真理]→絶対的なるものを信じない限り相対なるものは存在しない。
「素粒子の世界は非対称である。」
[一片の真理]→どのような極小の世界にも何らかの意思(作用)が働いている。
数学であれば、例えば
「数学の無矛盾性の証明はできない。」ゲーデル
[一片の真理]→神の存在を肯定して世界を語ることができたとしても、神の存在を証明することはできない。つまり、信じるしかないものが存在する。
芸術であれば、例えば、
「私の絵は3次元を超えた。」パブロ・ピカソ
[一片の真理]→四次元という世界が感覚には存在する。ではその世界を音楽で表現できるか? 音楽は私には到底理解できないですからこの花は見ようがないですね。残念。
禅の悟り:例えば、
「諸悪莫作、衆善奉行」鳥か道林禅師
[一片の真理]→悪いことはしないように。つとめて善いことをしなさい。道徳のようですが禅の悟りの一つなんですね。
俳句:例えば、
「荒波や佐渡によこたふ天の川」芭蕉
[一片の真理]→仏教の教え「二河白道」の美しい暗喩。一本の白き道が天の川ですね。

このように玉石混交の中にも割りとたくさんの玉があるものですね。大小を問わず玉は一片の真理ですね。別の暗喩では、「夏草が茂る大地にたくさんの色とりどりの花が見えてくるでしょう。」生きている限り多くの色とりどりの花(一片の真理)を見たいものですね。そのうち大輪の花にめぐり合うかも知れません、心を開けばありとあらゆる分野に一輪の花を見出すことができます。草の茂る中に百花繚乱ですね。草だって小さな花を咲かせますしね。生きるということは楽しいことですね。

この回答への補足

先のご回答で「一片の真理があれば」とのご意見を頂戴致しましたので、こちらに「最も酷い」と思われるテクストを『知の欺瞞』より以下に引用させていただきます(ジュリア・クリステヴァ)。
たしかにソーカルが主張するのももっともな話ではあるのです。

愚鈍なわたくしでさえナンセンスかつ理解不能な内容ですが、彼女が故意に虚飾をまとったとして、それを非難することに異論がないにせよ、彼女の行ったことと日常茶飯事に「知ったかぶりをして対話をしている部分」とでは、≪根本において≫さほど大差がないようにも思われるのです。
そして自然科学の用語はまだしも、外来語の厳密かつ正確なニュアンスを掴むことに対し、一体どこまで精査がはかられるというのでしょう。
ナンセンスや虚飾は糾弾に値しますが、さりとてあまりストイックすぎるのもゆとりがないように感じられるのです。
それとも哲学思想においてこのような「無駄で不毛な遊び」は何ものも産み出さない愚の骨頂なのでしょうか。
また、ポスト・モダンは何故一様にこのような言葉を取り入れることにより「科学的な体裁」を保とうとしたのでしょう。

「鏡像状態に引き続く統語論的操作において、主体=患者は彼の単一性をすでに保障されている。意味生成(シニフィアンス)における「点∞」への彼の逃走は止められている。たとえば、通常の空間R3上のある集合C0─そこではR3上のあらゆる連続関数Fとあらゆる整数n>0に対してF(X)がnをこえる点Xの集合が有界なのだが─のことが考えられる。変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づくのであるから。この圏(トポス)において、C0におかれた主体=患者はラカンが言及し、彼が主体として自身を喪失する「言語の他なる中心」に到達しない。すなわち、トポロジーが環として指示する関係の群を表現する状況である。(p65-66)」

また傍らのロラン・バルトのクリステヴァ評も、参考までに以下に記しておきます。
率直にいって、このテクストもわたくしには「?」でした。

「ジュリア・クリステヴァは物象が占めている場所を変える。彼女は常に、人がこれで安心していられる、これで威張っていられると思うその理由になる願いの、最も強い偏見を破壊する。 彼女が定位置から動かしてしまうのは、既─言(すでに言われたこと)、すなわち、記号内容の執拗な反復、すなわち、愚かさである。
彼女が転覆するのは、独白的な科学の件に、系統の件にである。彼女の仕事は全面的に斬新で、的確だ。…─p53)」

補足日時:2009/06/23 20:26
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この回答へのお礼

mmky様、再度のご回答をありがとうございます。
毎回ご教授下さる内容、とりわけこのたびの数多くの例示は大変参考になりました。
御厚意に心より感謝申し上げます。

>一片の真理とは簡単にして深遠なるもののことです。

はい、mmky様のお陰で自身におよそ欠けているものにあらためて気づかされました。
もちろん「一片の真理とは?」と希求する真摯な態度です。
そしてそれは「自身にとって深遠なるもの」なのですね。

ふと思ったのですが、茶道、剣道などの日本古来の「~道」の探究も、一片の真理の求道に他ならないということでしょうか。
そして「~道」として究め尽くされた「かたち」は、真理を究めた末の「一片の美」とも言えるのでしょうか。

>玉石混交の中にも割りとたくさんの玉があるものですね。大小を問わず玉は一片の真理ですね。
>「夏草が茂る大地にたくさんの色とりどりの花が見えてくるでしょう。」
>草だって小さな花を咲かせますしね。生きるということは楽しいことですね。

はい、本当に。
生きるということ、そして考えをめぐらすことは楽しいことだと思います。
そして物質的でなく、より一層精神的に豊かになれたら最高ですよね。
「夏草が~」の暗喩はいったいどちらの思想に基づくものなのでしょう。
もしかして…mmky様のオリジナルなのですか!

お礼日時:2009/06/23 19:54

#2です。



つい先日の金曜日の夜に、言語文化人類学を専門にしている日本人の方がこちら(米国)に住んでいる日本人向けに日本語で講演して下さった催しに参加して来ました。その方曰く、「議論や会話においては、発言者の文章の意味は聞き手が決める」のだそうです。その言によると、話の流れが質問者さんの意図したところからずれて行ってしまうのは、そちらの方が自然なのでしょう。その人類学者に免じて、遠慮なく脱線させて頂きます。

>それは草稿内容によるものでしょうか、それともencourage、何か人々を惹きつけ鼓舞する魅力が備わっているという印象でしょうか。

に関して、如何にクリントン元大統領が演説の魔術師であったかを語るエピソードを紹介しましょう。まだクリントンが大統領だった頃、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)で、クリントンのスピーチ・ライター長をやっていた方のインタビューを聞きました。彼がクリントンに演説の草稿を渡すと、夜中の2時でも電話をして来たそうです。そしてクリントン曰く「お前の演説は言葉ばかりではないか。演説は言葉ではない、シンボルである。もう一度書き直して来い」と言われたそうです。もちろんここで言う「言葉」とは「論理」のことです。また、草稿を準備する時には、与えられた講演時間の半分の長さにしておかないと、クリントが途中でどんどんアドリブを入れてしまうので、時間が足りなくなってしまうそうです。前から薄々気が付いていたのですが、この話を聞いた時に、やはりクリントは徒者ではないと思いました。

同じ言葉を使っても、政治家と学問をする人間とはその目的が違うので、自ずと言葉の使い方が変わってしまうのは止むおえないとも思います。しかし、クリントンやオバマは言葉(論理ではなくシンポル)を駆使して魅力的に話すことができるだけに、話の内容と現実が乖離してしまい、人々は言葉(シンボルばかりでなく論理も含めて)を信用しなくなってしまう。そう言う意味で言葉の陵辱をしていることになっている。演説の巧い政治家はその点で、言葉以外に思索の成果を報告できない学者にとって危険だと思っております。もちろん、政治の世界は力の世界、腹の探り合い、裏の掻き合いの世界ですから、一般国民が演説の言葉と現実の乖離を認識して置いてくれないと、もっと危険なのです。いずれにしても、政治家の巧い演説には現実と言葉の乖離が必然的に要求される点が、自己矛盾を孕み、学者としては困ったものだと不満を垂れているわけです。

>アメリカは多民族国家という性格上、住む地域にももちろんよりますが、「自他の背負っている文化的背景」の種類の多さを認識させられるのではないでしょうか。

理屈の上では多民族国家は多様であるはずだと考えたくなるのですが、現実はそのように動いていず、その反対にアメリカほど多様性を否定ている国はないというのが、私の印象です。私の経験では、判りやすい論理は常に危険です。むかし、ハリウッドは、一般の家庭がビデオの機械を買ってしまったら、映画を見に来る人の数が減ってしまうと大反対をして、政治家に多額のお金を寄付して政府に圧力をかけたのに、それが失敗してしまいました。ところがそのお陰で、古い映画をビデオにして大儲けが出来た例などが、一見判りやすい論理の危険さを示す好例です。

さて上にも述べましたように、アメリカほど多様性を否定し、極端に画一的な価値観に統一された文化は世界でも類を見ないと思います。その価値観とは、お金です。どの国民でもお金に興味のない人はあまりいないでしょうが、それにしてもアメリカ人は極端なのです。全ての価値が一先ずお金に換算されなければ、彼等にはその価値が理解できません。ですから、霞を食って生きているような人の価値は全然判ってもらえません。そのようになってしまった理由は、アメリカが新参者の寄り合いの多民族国家だということに原因があると思います。

歴史も浅く、共有できる文化がないアメリカでは、お互いにツーカーで通じ合える物がなく、その結果、2つの方向で妙に進化したのだと思います。その一つは、人を頼ることができない。全てがうまく行っている時のアメリカ人の隣人に対する親密さは、こちらがこそばゆく成ってしまうくらいなのですが、いざ事が起こり助けがいる時には、彼等は手の裏を返したように貴方の周りから弾き飛びます。もし貴方が成人た後で何か事が起こったら、兄弟どころか親も助けてくれない方が普通なくらいです。こんな世界で頼りになるのはお金だけなのです。アメリカでは、白人のホームレスは何処にでもいるのですが、最も貧しいはずのヒスパニック系のホームレスには滅多にお目にかかれません。現在メキシコから合法、不法どちらでも移って来ており、ヒスパニックの人口は爆発的に増えて来ております。最近とうとう黒人の人口を超えました。2050頃には白人の数も超えるそうです。ヒスパニックは新参者、彼等の文化をそのまま持って来てスペイン語しか話さず、互いに助け合ってしまうので貧しくてもホームレスに成らないのです。ヒスパニックは例外として、それまでのアメリカ人のような状況におかれたら、どの国の人でも、全ての価値はお金で測られるという1次元の世界に住むことになってしまうのは不思議ではないと思いました。

もう一つの進化は、

>で、お互いの意志の疎通をまず最優先するために、何よりも発言における根拠と明晰性と簡便性を最大限に重んじる土壌があるのかもしれません。

に関係があります。寄り合い国家であるために、共通の歴史に基づいて培われて来た思考法や世界観の共通項がないために、問題の解決に当たってそれまでの経緯の上に立った解決法が存在せず、問題ごとに毎回始めからやり直して解決しなくては成らない。そのような場合に頼りになる道具は、互いの共通した経験や世界観ではなく、言葉だけなのです。したがって、アメリカ人は遠い過去との関連や、遠い未来との関連で物を考える事が苦手で、目の前にある局所的な論理にばかりこだわる。その結果、その場での議論の勝ち負けの方が、大局的な流れより重要になっており、やたらに喋りまくり理屈をこね回す文化を作り上げて来たようです。日本車がアメリカの車を駆逐したのは、車の性能もさることながら、アメリカの自動車会社が目先の利益ばかりにこだわって、お客の立場に立って長期的な満足感を与える努力を怠ったことが原因だと思います。

上の2つの進化を結びつけると、アメリカの本質の一つの側面がよく見えて来ます。質問者さんは、アメリカは反教養文化の国であるということを聞いたことがあると思います。お金と教養は両立し難い物です。教養は霞のような物だからです。一方、お金を手に入れるためには優れたビジネスマンでなくては成りません。しかし、ビジネスは合理的でなくては成功しません。その結果、アメリカ人は言葉を駆使した合理性を極度に発達させて来ました。しかし、合理的である事と科学的である事は同じことでは在りません。彼等が科学に興味を持つのは、それによる知的恍惚を味わいたいからでなく、それを利用すればお金が入る確率が高くなるからなのです。その証拠に、アメリカでは科学や工学をやる人間は、圧倒的に外国からの立場の弱い新しい移民達です。社会の強者としての既得権を得て安定した古くからのアメリカ人の子息は、ほとんどの場合ビジネスの世界に行きます。

この回答への補足

お礼の続きです。

>アメリカ人は遠い過去との関連や、遠い未来との関連で物を考える事が苦手で、目の前にある局所的な論理にばかりこだわる。その結果、その場での議論の勝ち負けの方が、大局的な流れより重要になっており、やたらに喋りまくり理屈をこね回す文化を作り上げて来たようです。

なるほど、いわゆる訴訟慣れしたアメリカ社会は、このあたりに端を発しているのでしょうか。
夫の仕事の話で恐縮ですが、ある日突然無理難題をふっかけて弁護士を通じて騒ぎを起こしてくるのは決まってアメリカの企業のようです。
イギリスの技術提携先に話しても大いに同情される一方、当のアメリカ人たちはそのさなかにもごくフツーに接してくるそうです。
この感覚、ちょっと「和を尊ぶ」日本人には受け入れがたいものがあります。

>お金と教養は両立し難い物です。教養は霞のような物だからです。一方、お金を手に入れるためには優れたビジネスマンでなくては成りません。しかし、ビジネスは合理的でなくては成功しません。その結果、アメリカ人は言葉を駆使した合理性を極度に発達させて来ました。

はい、「ビジネスに繋がるため言葉を駆使した合理性を極度に発達させてきた」というくだりは、多様なイデオロギーや芸術観念を呑み込んできた経緯にもかかわらず、何故それらが「経済発展を支えるマーケティングの一環」として変質してしまうかの理由付けに相当すると思います。
そしてそれは言葉のみならず、思想芸術の分野にまで及んでいるのではないでしょうか。
そうですね、例えば第二次大戦の戦火を逃れて渡米した社会主義的な意義を抱えたバウハウス思想が、かの地では「経済的な資源」とみなされ、後に新たなデザイン手法を次々と生み出す源として運用されていったように、です。

ちなみに、ソーカルらの主張はあたりまえすぎることとド素人なりに弁えておりますが、彼らの起こした事件の背景として、アメリカ社会の孕む行き過ぎた合理主義精神を見出すことは可能でしょうか。

補足日時:2009/06/23 17:04
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この回答へのお礼

chototu様、重ね重ね拙い質問にご回答を下さりまして、本当にありがとうございます。
このようにして、みなさまとの質疑応答の過程において得られることはとても多く、感謝の気持ちでいっぱいです。

>クリントンやオバマは言葉(論理ではなくシンポル)を駆使して魅力的に話すことができるだけに、話の内容と現実が乖離してしまい、人々は言葉(シンボルばかりでなく論理も含めて)を信用しなくなってしまう。そう言う意味で言葉の陵辱をしていることになっている。

演説の上手い大統領は自ずと言葉の凌辱をしている、ですか。
う~ん、そういうことだったのですね。
そしてchototu様がご懸念なさっている「一般国民が演説の言葉と現実の乖離を認識して置いてくれないと、もっと危険なのです。」は、おっしゃるところの「アメリカほど多様性を否定し、極端に画一的な価値観に統一された文化は世界でも類を見ない」からであろうと拝察致しました。

各々のルーツやノスタルジーといった類は多種多様でしょうが、かの地に居住しているかぎり、「お金という価値観」に囚われてしまうのはやむを得ないことなのかもしれません。

そして「全てがうまく行っている時のアメリカ人の隣人に対する親密さは、こちらがこそばゆく成ってしまうくらい」というのはわたくしも経験済みです(笑)。
ですが「いざ事が起こり助けがいる時には、彼等は手の裏を返したように貴方の周りから弾き飛びます。こんな世界で頼りになるのはお金だけなのです。」というくだりにはアメリカの意外な世知辛い実情を思い知らされました。
かの地で身を立てることは生き馬の目を抜くことと拝察致しておりますが、社会自体も相当にシビアなのですね。う~ん。

強いてこれらをフォローするならば、アメリカン・ドリーム、サクセス・ストーリーといった「平等性」を尊重している点でしょうか。
アメリカ人企業家たちの報酬額たるや凄い金額ですが、彼等エグゼクティヴたちは日本にいては想像もつかない勤勉ぶりとタフさを兼ね備えていることと思います。
それに「お金」は何にもまして最も明瞭な価値基準であり、尊い理念とは裏腹の世知辛い人種差別などをオブラートにくるむ「平等性」を実現するものなのでしょう。
アメリカ社会はその多様性ゆえに逆に平等性、画一性へ向かう負荷が常にかかってしまうため、これもいたしかたないことなのでは。

お礼日時:2009/06/23 16:59

mashumaro2さん、お久しぶりです。



生来頭の悪い私としては、科学、哲学、芸術のいずれにせよ、できれば、ギルド内でしか通用しない隠語、符牒等、あるいは虚飾に充ちた修辞や言い回し等に煩われることなく、現実世界の真相をあるがままに、しかもより直截的、具象的に叙述、描写してくれることを切望しています。

他方、日本語、特にその珍妙・奇怪なる点では世界に冠たる書記(文字)言語をさほど不思議も感じずに使いこなしている日本人の精神構造にも興味津々といったところです。
つまり、漢字・カタカナ・ひらがな・アルファベットといった4種類の文字を、その不思議さをさして自覚するわけでもなく、しかも巧妙にそれらを使い分けながら学術書や公式文書を綴っていることに対してです。

さらに、日本列島においては、古来、学術用語のみならず、政治・軍事・産業・芸術・文化等々の用語にしても、ほとんどすべてが外来語またはその訳語であったという歴史的事実の枠内においてしか、われわれの思考それ自体が成立してこなかったということに私は驚かざるをえないのです。
(わずかな例外として、宣長をはじめとする国学者が和文による優れた学術書を残しているにせよ。

その意味で、日本人の《知》の歴史では、古代の漢字伝来という大事件以来、ソーカルの説く「知の欺瞞」が、ある意味で彼が見ていた西洋にもまして、より典型的な形で露呈してきたと言えるのではないでしょうか。
そして、その根本原因というのが、実は、日本語においては、漢語伝来以来、現代に至るまで、すべての学術用語をはじめとする各業界用語を倭語ならぬ、外来語・訳語が席巻し、ヘゲモニーを握っている点にあるのではないかと思われてならないのです。

>みなさまは、はたして哲学思想において比喩としての用途に「自然科学の用語」を用いることはソーカルの説く「知の欺瞞」「自然科学の猿真似はやめよう。(p249)」とまで言い切れるとお考えでしょうか。

ソーカルの揶揄するような外来語・訳語を駆使することに知的虚栄心を擽られる人たちを、日本では昔から文化人・知識人・学術経験者と呼び、その呼称に人々は揶揄、追従、迎合、嫉妬、羨望等の念を込めてきたような気がします。
が、だからといって、こうした日本語の歴史を逆戻りさせることは不可能ですよね。
われわれとしては、今後もその光と影の中で、自分なりに最善を尽くしながら考えていくしかないのかなと思わざるをえません。

最後に、さる高名な文芸批評家が無名時代に懸賞論文に応募するために書いた評論の冒頭部分を紹介させていただきます。
ちなみに、自分が賞金をもらうものと確信していた自信家の彼は、友人たちに大盤振る舞いをした後で、友人に次点と告げられてガッカリしたということがあったようです。

「吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」(「様々なる意匠」)

ややご質問の趣旨に沿わない回答になってしまったこと、お詫びいたします。

この回答への補足

>日本人の《知》の歴史では、古代の漢字伝来という大事件以来、ソーカルの説く「知の欺瞞」が、ある意味で彼が見ていた西洋にもまして、より典型的な形で露呈してきたと言えるのではないでしょうか。

余談で恐縮ですが、この一文を拝読した際に、ある絵画が脳裏に浮かびました。
kadowaki様は美術、殊更シュルレアリスムに造詣が深くていらっしゃると拝察致しておりますので、少々おつきあいいただけますでしょうか。

『六枚の現実の鏡に束の間映った六枚の潜在的な角膜によって永遠化されたガラを背後から描くダリの背後像』(未完成)
http://www.jim3dlong.com/modern-39.html

フランスのポスト・モダン思想の席巻とナンセンスに対し、合理主義の精神で一刀両断するアメリカの物理学者による問題提起と、この事件を記した書を読み思索する日本人、という稚拙な比喩です。

さしずめガラが「知の欺瞞」を内在するポスト・モダン思想家、その後姿を見つめるダリがソーカルといったところでしょうか。
そして前方の鏡に映る≪第2のダリ≫は「パロディー論文作成に駆りたてられた理由、すなわち、フランスでは見逃され得るであろうナンセンスな箇所に目をつむるどころか、逆に声高に糾弾せざるをえない「ストイックなまでのアメリカの合理主義精神の現状」を鏡の向こうから見い出しているかのようです。

そして─わたくしたち日本人の視点はいったいどこにあるでしょう。

それは≪絵画上には存在しない視点≫であり『知の欺瞞』の著作上からも当然のことながら類推できません。
鑑賞者として多角的な視点からダリやガラを見るのと同様に、ソーカルの著作を通して事件を考えるしかありません。
つまり≪第3のダリの視点≫という絵画鑑賞者=事件の傍観者としてです。
そして、kadowaki様がおっしゃる「すべての学術用語をはじめとする各業界用語」のみならず、西洋思想に追随している部分は相当に大きいのかもしれません。

>「吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。…」

はい、大人買いしていますから(笑)、今夜にでもじっくり読みます。
凄い硬派なのにこれで次点とは何たるレベル。

あとがきに「新風に違いないが難解であった。」と次点理由が記してありました。
当時の「新風」が今なお魅力をたたえているのか、或いはその「難解さ」ゆえに人々を惹きつけるのか、それとも、彼を超える文芸批評家がいまだ輩出されないから彼が(内輪で?)もてはやされるのか、いったい真実はどこにあるのでしょう。

それとも、彼もまた批評の精神に一片の真理を見出したということなのでしょうか。

補足日時:2009/06/23 16:28
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この回答へのお礼

kadowaki様、お久しぶりです。
そしてご回答をありがとうございます。

>漢字・カタカナ・ひらがな・アルファベットといった4種類の文字を、その不思議さをさして自覚するわけでもなく、しかも巧妙にそれらを使い分けながら学術書や公式文書を綴っていることに対してです。

!! たしかに、これら4種類の文字をmelangeしてテクストに織り交ぜるなど、世界中のいかなる言語で他になしえましょう?

>日本語においては、漢語伝来以来、現代に至るまで、すべての学術用語をはじめとする各業界用語を倭語ならぬ、外来語・訳語が席巻し、ヘゲモニーを握っている点にあるのではないかと思われてならないのです。

はい、隣に強大な国家が常に存在し意識を強いられ続けた地理的要因、そして幕末の世界情勢や敗戦などが、日本に「受動的な進取の気性」を育ませてきたからでしょうか。

朝鮮歴代王朝が同じく地理的な問題から中華圏の文化に服従せざるを得なく、後に訓民正音の発明を統治者自ら求めるほどの小中華の徹底ぶりでしたし、また翻ってフランスにおいては、自らの培ってきた隣国とのせめぎ合いの歴史と幾多の政変によって「能動的な進取の気性」を生み出していった事例と好対照です。
かのデカルトは『方法序説』をあえてフランス語で記したのを思い起こします。

>こうした日本語の歴史を逆戻りさせることは不可能ですよね。
>われわれとしては、今後もその光と影の中で、自分なりに最善を尽くしながら考えていくしかないのかなと思わざるをえません。

おっしゃること、ごもっともですね。
いつもながらkadowaki様の日本語に対する造詣と思い入れや愛着の深さには感服致しております。
ソーカルの問題提起は日本語におきかえると妙に実感が湧いてきます。
知識人のみならず一般人までもが、新しい造語、殊に≪外来語の省略による隠語≫を用いることをためらいもせず、時に率先して流行語を用いるという「ユニークな精神(言語)構造」はどのように考察したらよろしいのでしょう。

ともすると、ソーカルたちの説く「知の欺瞞」に対し、どこか腑に落ちない違和感を感じていたのは、自ら日常に用いている「日本語の特殊性」のせいだったのかもしれません。
目からウロコです。

お礼日時:2009/06/23 14:57

参考程度に


哲学思想の例えば数式的表現が物理学、数学などの自然科学と呼ばれる学問じゃないですかね。
つまり全てが哲学思想の表現形式でしかないので何らかの考えを表現するに言葉であれ、数式であれ、「自然科学の用語」であれ使用することになんらの問題は無いと思います。
説明形式が簡単であれ複雑であれ比喩、暗喩であれ問題はその中に一片の真理ありやということだけでしょう。
一片の真理なきは単なるゴミでしかなく、ソーカルはゴミを作って周りを騙して楽しんだだけでしょう。日本にも一休禅師のようにゴミで人を惑わして楽しんだ御仁がいますからその程度なんでしょうね。
cyototuさんもご指摘されてますが、いかに簡単でも「YES,WE CAN」では何がなにやらですし、ソーカルの投稿文のように「自然科学の用語」を並べ立てても、「それでなんなの?」の一言で馬脚を現しますね。
つまり、
「なおわたくし個人的には今現在も未来も科学の発展に大いに期待しており、哲学思想や芸術というファクターを加味して三つ巴でバランスをとっていけばよいと考え・・」
の中での「バランスをとる。」という考えは一片の真理無くとも良いとも取れますので官僚的ゴミ回答のように感じますね。賢者は、一片の真理さえあればどのような表現形式であっても受け入れますから、「表現形式(言葉であれ、科学であれ芸術であれ)にはこだわらない。」でいいと思いますね。
また、表現形式は好みですから表現・思想の自由さえ担保しておけばおのずと大数の自浄作用(フィードバック作用)でどこかに落ち着きながら変転していくものでしょう。だから無理にバランスなどという考えは必要ないといいたいのですね。べつの言葉では百花繚乱ですね。百花繚乱を愛でるですね、それが哲学ですね。

この回答への補足

>「バランスをとる。」という考えは一片の真理無くとも良いとも取れますので官僚的ゴミ回答のように感じますね。賢者は、一片の真理さえあればどのような表現形式であっても受け入れますから、「表現形式(言葉であれ、科学であれ芸術であれ)にはこだわらない。」でいいと思いますね。

鋭いご指摘で大変恐れ入ります。
先にも申し上げた通り、わたくしはいまだ「真理の何たるか」がわからずにおりまして、「真理の希求願望」も至って希薄です。
だから自ずと官僚的ゴミ回答のように薄っぺらい無機質な回答になってしまうのです。

以前b様にも申し上げましたが、半年前まではわたくしは哲学思想に関し、殆ど関心も興味も抱いておらず、また日常において「思考する」ということすら皆無に等しいものがありました。
つまり上述の乱暴な言い回しとして「科学・芸術」しか眼中になく、「哲学思想」の持つ面白さやゆとり?に気づくどころか、その抽象性ゆえに毛嫌いしていた部分すらあります。

今現在は多少面白さ、思考する楽しみというものを感じ始めているものの、人生の折り返し地点にきて「ツケの大きさ」に驚愕するものの、思考・読解・記述における苦手意識や旧来の酷いクセも一緒に克服していけたらいいなあ、と秘かに願っているのです。
つい自らの稚拙さを対話の相手に甘えてしまい、逆に相手の力量に頼って類推してもらうなど最たるところです。
ですからmmky様の「官僚的ゴミ回答のように感じますね。」は真面目に嬉しかったのです。「真理」ですか。う~ん。

>だから無理にバランスなどという考えは必要ないといいたいのですね。べつの言葉では百花繚乱ですね。百花繚乱を愛でるですね、それが哲学ですね。

はい、百花繚乱ですか。いい言葉ですね。
ストレートに心に響きました。ありがとうございます。

補足日時:2009/06/22 17:18
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この回答へのお礼

mmky様、ご回答をありがとうございます。

>全てが哲学思想の表現形式でしかないので何らかの考えを表現するに言葉であれ、数式であれ、「自然科学の用語」であれ使用することになんらの問題は無いと思います。
>説明形式が簡単であれ複雑であれ比喩、暗喩であれ問題はその中に一片の真理ありやということだけでしょう。

mmky様は「一片の真理」があれば、杞憂するなとおっしゃって下さるのですね。
はい、わたくしにはいまだこの「真理」なるものに対し、あまり目が向かないのです。
「真理」とはいったい何なのでしょうか?

>一片の真理なきは単なるゴミでしかなく、ソーカルはゴミを作って周りを騙して楽しんだだけでしょう。日本にも一休禅師のようにゴミで人を惑わして楽しんだ御仁がいますからその程度なんでしょうね。

はい、わたくしもその「ゴミ」によって「それでなんなの?」と惑わされたうちの一人でした。
もちろん事件として関係者に与えた衝撃と問題提起はそれなりにあったとは思うのですが。
「一片の真理もない」ゆえに読了後に3,200円の価値がはたしてあったのだろうか、う~ん…と感じてしまったのかもしれません。
結構野次馬的に楽しめましたから読んで損は無かったのですが…。

お礼日時:2009/06/22 17:05

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