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このたび『知の欺瞞─ポストモダン思想における科学の濫用』という書をざっと読みました。
そしてわたくしが哲学カテで始めて回答(noname#76229)を寄せた「哲学と言葉」という過去の質問を思い出しました。

その回答では少し他人と異なった見解、つまり哲学カテにてあえて「数学・科学」の合理性を示そうと『黄金比はすべてを美しくするか?』という書物を引用させていただきました。
これは古代のパルテノン神殿やオウムガイの殻やひまわりの種の配列、はたまた音楽、文学作品に至るまで、ともすると「絶対視」されかねない「黄金比という伝説」がどこまで妥当であるか、を宇宙物理学者である著者が検証していくものです。
黄金比を必要以上に賛美せず、懐疑的な眼差しで丹念に考察していく著者の真摯な態度に大変好感が持てました。

ですが『知の欺瞞』は先の書物以上に高価であるのにはたして購入した価値があったのか?と思うほど、どこか不毛なニュアンスを感じてならないのです。
確かにソーカルの言い分も愚鈍なわたくしなりに理解できたのですが、単なる「メタファー」「アナロジー」としてポストモダンな思想家たちが用いていることに対し「知の欺瞞」というほどのひどく酷いものだったのかな、と思うのです。

まあ、ナンセンス極まりなく思わず笑みがこぼれるようなテクストであっても、読み手側がその裁量でそれなりに哲学思想の「ゆとり」と捉えたり、クエスチョンマークをつければよいのではないでしょうか。
それをわざわざパロディー論文の作成・掲載をするなどという行為は、いかにもアメリカの「おとり捜査」の「わな」を想起させて(厳密にはおよそ異なるものですが)、せっかくのおもしろい問題提起(警告の意図)が逆に「えげつない悪趣味」のようにすら感じてしまうのです。

つまりポストモダンの思想家たちは、自身にも定かではない或いは表現し尽くせない何か思いや未知の可能性を秘めて、自然科学の用語を「濫用」しているのだろうなあ、とナンセンスな箇所を軽く受け流せば済む話ではないでしょうか。
はたして巷で言われる「混乱」に陥れる類のものだったのでしょうか。

むしろ「人文科学と社会科学の多くの研究者が感謝の手紙をソーカルに寄せ、彼らの分野の大きな部分を支配しているポストモダン的な潮流や相対主義的な傾向は受け入れられないと書いてきた。中には、心動かされる手紙もあった。ある学生は、彼の学資が王様の着物に費やされていたと感じると言ってよこした。その王様は、例の寓話にあるように、裸だったのだ。同僚も自分もパロディーに興奮したが、そのことは秘密にしてほしいと言ってきた人もいる。(p3)」と大騒ぎする人々に大変興味がいきました。
彼らはポストモダンを生業としているためそれほど大騒ぎしたということなのでしょうか。

みなさまは、はたして哲学思想において比喩としての用途に「自然科学の用語」を用いることはソーカルの説く「知の欺瞞」「自然科学の猿真似はやめよう。(p249)」とまで言い切れるとお考えでしょうか。

なおわたくし個人的には今現在も未来も科学の発展に大いに期待しており、哲学思想や芸術というファクターを加味して三つ巴でバランスをとっていけばよいと考えておりまして、今の時代を一概に科学偏重主義だと非難するスタンスではありません。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (22件中21~22件)

#1です。



>神といひ佛といふも世の中の人のこころのほかのものかは

この歌をどう解釈するかは、読んでいる人の心情で違った意味を持つと思います。私はそこでの質問の文脈で読むと、宗教という仰々しい物ではなく、自分の心の「内側」に映じた物がこの世界だと言っているように思えました。

それに対して、多くの日本人に理解できる「神さびた森」などの「外側」にある物の神々しさから、氏神、産土神、ご先祖様等々の存在を確信する日本人の心を歌ったのが、

>なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

であると独断で解釈したわけです。

私は仕事柄、「判る」という言葉の意味を深刻に考えざるを得なかったのです。幸運にも、私は他の方には滅多に出来ない経験をして来ました。それは、本当の「天才」と呼ぶことの出来る方に少なくとも2人までも近しく接してくることが出来たことです。そのお二方に共通していることは、言葉の使い方の魔術師であり、本人の判っていることは、聞いた人も判るように噛み砕いて話し、本人の判らないことは、聞いた人も判らないように話すことができるのです。そして、重要なことは重要であることが判るように、中身の空っぽなことはそれが空っぽであることが判るように話します。そんな個人的な経験から、こちらが聞いても判らないような表現をしているものにお目にかかると、こちらで勝手に「この方は自分でも何を言っているのか判らないんだな」と決めつけることにしております。

>彼等自身がカルチュラル・スタディーズ等における「科学的方法の限界」をとっくに熟知していて、

は如何にも理屈にこだわっているが、人間を論じない哲学学者らしい不遜な言葉だという印象を持ちました。私なら、先ず「現在までに人類が辛うじて手に入れて来た科学的方法の限界」という言葉を使います。科学的論理や方法の中で非線形性の役割はまだほとんど何も判っていない状況にあります。それにもかかわらず、我々の埋め込まれた世界の事象は生命現象と言う大げさなことばかりでなく、ほとんど全ての事象で非線形性が本質的な役割を演じていることは、すでに判っているのです。そんな未熟な論理しか手に入れていない現代人が、良くもまあ「科学的方法の限界」などと烏滸がましいことが言えるのか、感心してしまいます。もしその論者が「科学的方法の限界」のことを明確に意識しているのなら、それを明確に宣言して、それでも相手に伝わるような努力をしていることを見せない限り、私はまたまた独断で「学問の未熟者」というレッテルを貼ることにしています。


蛇足になりますが、今までアメリカ史上で最も頭が良い大統領とされたクリントン大統領の演説や、もしかしたらそれを凌駕する可能性もあるのではないかと囁かれているオバマ大統領の演説は、上の天才方とは正反対の意味で、言葉の魔術師だと思えます。彼等は、上の方とは反対に、中身が空っぽのことでも、あたかも深い意味があるかのように神々しく演説できるのです。これらの大統領はお坊ちゃまブッシュが常に中身のないことをまるで空っぽに話すとの比べて、その点に関しては遥かに危険な大統領達だという印象を持っております。

この回答への補足

この場をお借りして一ヵ所訂正させていただきます。
正しくは「枚挙に暇がない」でした。申し訳ありません。

>如何にも理屈にこだわっているが、人間を論じない哲学学者らしい不遜な言葉だという印象を持ちました。私なら、先ず「現在までに人類が辛うじて手に入れて来た科学的方法の限界」という言葉を使います。

この箇所≪彼等自身がカルチュラル・スタディーズ等における「科学的方法の限界」をとっくに熟知していて…≫はですね、愚鈍なわたくしが苦肉の策で思いついた表現なのです。
当事者でないためあまりにも陳腐で稚拙な表現に陥ってしまい恐縮です。
ただ漠然と「科学的方法の限界」と記しましたので、chototu様から「学問の未熟者」というレッテルを貼られることをわたくしは喜んで享受致します。
未熟者の甘えにより、対話して下さる方の力量にお任せしていた部分がとても大きいことは自覚済みで今後の自身の課題です。
真面目な話、このようにご指摘いただけますと、自らの思考や記述のクセの酷さに対峙できますので、本当に願ってもないことなのです。
以後気をつけます。 そして今後ともよろしくお願い申し上げます(ぺこり)。

>お坊ちゃまブッシュが常に中身のないことをまるで空っぽに話す

わたくしの夫も仕事柄欧米の大学の研究者と接する機会があり、ある方から「ブッシュ氏がスティーヴィー・ワンダーのコンサートに行って嬉々として手を振っていた」とうかがったエピソード?に思わずひっくりかえったことがあります。
賛否はともかく、ある意味「わかり易い親しみやすさ」はあったのかもしれません。

>あたかも深い意味があるかのように神々しく演説できるのです。
>遥かに危険な大統領達だという印象を持っております。

それは草稿内容によるものでしょうか、それともencourage、何か人々を惹きつけ鼓舞する魅力が備わっているという印象でしょうか。

だいぶ「知の欺瞞」から話がそれてしまいました。
決していたずらに先延ばししているつもりは毛頭ないのですが、仮にchototu様がこれらのことを「不毛もしくは無駄な問いかけ」とお考えでしたら、どうかスルーなさって下さいませ。

補足日時:2009/06/22 16:31
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この回答へのお礼

chototu様、再度のご回答をありがとうございます。

>「神さびた森」などの「外側」にある物の神々しさから、氏神、産土神、ご先祖様等々の存在を確信する日本人の心

なるほど、実朝の「心の内を詠む」に対する西行の「自らの外側を詠む」だったのですね。 わかりました。 ありがとうございます。
「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と、妻子を捨ててまで放浪して詠まずにはいられなかった西行。
もちろん現代の感覚と当時の時代背景とは等しくみなせませんし非難する意図も資格もありませんが、そこまで法師を駆り立てたものは一体何だったのでしょう。 
chototu様はおわかりになりますか。

>重要なことは重要であることが判るように、中身の空っぽなことはそれが空っぽであることが判るように話します。

本当に凄い方々なのですね。 真似をしようと思っても、また努力を持ってしても、なすことが恐ろしく困難に思われます。

アメリカは多民族国家という性格上、住む地域にももちろんよりますが、「自他の背負っている文化的背景」の種類の多さを認識させられるのではないでしょうか。
で、お互いの意志の疎通をまず最優先するために、何よりも発言における根拠と明晰性と簡便性を最大限に重んじる土壌があるのかもしれません。
思うに「消す文化」とでも言いましょうか、香水とは真逆のデオドラントの概念、歯の色素沈着を落とし白く歯列を矯正する風潮は欧州以上にストイックと感じたこともあります。

フランスも移民や旧植民地出身者が多数居住しているものの、アメリカほどに多文化国家ではないため、仮に「メタファー」を濫用したとしても、彼等に共通する感覚により暗黙のうちに比較的類推しやすいのかもしれません。
また他国の亡命者や政治犯を受容してきた風土と自国の歴史的経緯のゆえか、保守的概念と進取の気性が混在し、時に確信犯的に「他愛もないルールを逸脱」したりすることもしばしばあります。
ですからナンセンスな内容は糾弾されてしかるべきものの、ソーカル事件は多少なりとも両国の文化的背景も影響していたのではないでしょうか。

フランスの物理学者、アメリカの哲学思想の研究者は一体どのように事件を捉えているのでしょう。

お礼日時:2009/06/22 15:59

私の専門は物理学です。

自分で意味が判っていないのに人を煙に撒くような議論をする哲学者はギリシャ時代の昔からいたようで、そのことは哲学者自身からも繰り返し批判されておりました。ソーカル事件はその一連の動きの一つとして考えれば良いのではないでしょうか。以下の文はモンテーニュの『エセー』第二巻第十二章「レーモン・スボンの弁護」からの引用です:

「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることができなかった。エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスが<<スコテイノス>>とあだ名されたのは何故だろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。

  彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である(ヘラクレイトス)。、、、
  なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ(ルクレティウス)。」

この回答への補足

このたびは数々の偉大な先人たちの引用をありがとうございました。
そうですね、わたくしもこの質問の近くにある質問者様同様に「知れば知るほど己が使う言葉の持つ重みと責務」を痛感する気が致します。
そして哲学思想における命題の立て方等など、細心の注意を配るために枚挙にキリがない、そんな状況です。

余談ですが以下の質問にてわたくしは「実朝の歌」を例えに挙げました(No.30)。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4956139.html
それはこの歌に、当時の状況下であえてこのように詠んだ実朝の素朴さ、宗教によって癒されぬ孤独の陰翳の深さを、是非とも質問者に伝えたかったからです。
そしてその孤独の陰翳の深さという点においては西行とも通底していたと思っております。

No.34にてchototu様が「宗教的バランス」を配慮するために西行を挙げていらっしゃいます。
この意図が愚鈍なわたくしには掴みかねておりますので、よろしければこちらにつきましてもご参考までにお伺いできますでしょうか。

身の程知らずの我儘とは承知致しております。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。

補足日時:2009/06/21 23:29
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この回答へのお礼

cyototu様、ご回答をありがとうございます。

先の質問のリンクを貼らせていただきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4503143.html

この質問のNo.12のcyototu様のご回答は大変クリアーで納得させていただけるものでしたから、今なお忘れておりません。
そして殊更以下の文章はこのたびの『知の欺瞞』にも繋がる内容ではないでしょうか。

>「そんな場合には精確性を犠牲にしてでも、透明性を確保すべきです。でないと、本質が見えなくなってしまうからです。」
>「何か目新しくて程度が高そうな言葉に出会ってしまうと、ついそれを使ってみたくなって、それを聞き慣れていない者を煙に幕まいて悦に入っている場合がしばしば在るからです。」

chototu様のおっしゃることは至極ごもっともだと思います。
「メタファー」「アナロジー」としてポストモダンな思想家たちが用いたとして「その使途理由」を一切明らかにしないのは、彼等自身がカルチュラル・スタディーズ等における「科学的方法の限界」をとっくに熟知していて、あえて「メタファー」として用いたフランス風スノビズムとして「無知の知」を逆手に取ったからではないのかな、とそれほど「本質からの逸脱」とまでは考えていないのです。

まあ、ナンセンスに尽きるテクストと言えばそれはもうそれまでですが。
ソーカルの説く「知の欺瞞」がchototu様のご回答「論理の罠にはまり込んで落ち込む無意味な思索の遊び」と同意見であるのでしたら、哲学思想において自然科学の用語を隠喩として用いることを苦々しくお考えでいらっしゃるということなのでしょうか。

お礼日時:2009/06/21 23:21

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