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織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

A 回答 (3件)

農民視点では


戦国の村を行く (朝日選書) (-)
藤木 久志 (著)
百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) (新書)
黒田 基樹 (著)
この辺の本にあるのですが、我々が大名領国図で見ているのとは違う実態が出ています。両勢力の中間地帯は、両方に年貢を払う(上記の書籍では、金で平和を買うと表現しています)というようなことをしています。この意味で、全国政権として確定した豊臣時代とは信長の時代はファジーです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/13 08:56

>この差はどこからくるのでしょうか?


加賀100万石辺りと子飼い大名その他引いてみて下さい。
決して1人でぶん取った訳ではありませんし、褒美を重視します。

600万石から800万石あったといいます。
理由は家臣軍団には大名たる由緒(正当性)が無かったからですね。

※禄を頂いたのであり、国と城を頂いた訳ではありません。

>その間の200万石
当時は貫高制であり、
実際の貫高は表貫高よりもはるかに高い国も少なくありません。

蔵入地は、少ないと言えば少なく、
石田三成は盛んに算盤を打ったと言います。(兵糧の備蓄)

当時は金銀山は元より、海や山河までもが天下人の物であると言う認識があり、(侍は禄を頂く)大量の金銀が大阪に送り込まれます。

これによって豊臣政権は財力を高めます。
これによって大量の兵糧を買い付け、一気に送り込み、
大兵力を長期に渡って運用する事が可能となります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>600万石から800万石あったといいます。
理由は家臣軍団には大名たる由緒(正当性)が無かったからですね。

そうだったんですか。
よく羽柴秀吉が姉川の戦いの功績で長浜(でしたっけ?)の大名になったとか、明智光秀が丹波に国替えされたとか聞きますが、正確が表現ではなかったわけですね。

お礼日時:2009/07/12 21:15

信長と秀吉の違い


現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。
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この回答へのお礼

返事が遅くなって申し訳ありません。
ありがとうございました。

600万石~800万石ってのは、勢力圏の判断が難しいとかではなくてそういう問題だったのですね・・
考えてみると、織田の場合は直轄領だけの数字ですからね。

お礼日時:2009/07/12 21:11

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