プロが教えるわが家の防犯対策術!

立花隆「人体再生」(中央公論新社)に以下のような文がありました。
>カソリック教会は、脳死移植を、魂が離れた肉体を、他の命を救うために用いる愛の行為だということで認めてあり、これは、脳死以上の死後移植で、とっくに魂が離れた、放っておけば朽ちるだけの肉体を生きた魂の持主が利用させてもらうことだから問題ないと考えて、自分を納得させているということでした。何年か前に、南米のアンデス山中の雪の中に飛行機が墜落し、生き延びた人たちが(カソリック教徒)、「死んだら自分を食べて生き延びて」と言い残して死んだ人たちを食べることで命をつないだことを、カソリック教会は法王庁の正式見解として、それは神の教えに背かない正しい行い(一種の聖餐という位置づけ)だと認めたことがあります。

 太平洋戦争の日本軍では物質の補給も乏しく、サルの肉と無理に納得させ、人肉を食べたひともいたことが少なくなかったことが小説にも書かれています。心に重荷を抱えて大変だと想像します。
 戦争で人肉を食べざるを得なくなった人々は悩みを自分ひとりで抱えているのでしょうか。日本の宗教団体で、戦時中に行われた人肉喰いにコメントしている団体はあるのでしょうか?
 

A 回答 (1件)

最近の例ですとシエラレオネ国際戦犯法廷において、シエラレオネの内戦に介入して出兵したリベリア軍の組織的な人肉食(人肉食行為を行った人間のみが入れる部隊が存在しました)を当時の大統領チャールズ・テーラーが承認していたとして訴追されています。


(なおこれ以外にも虐殺や少年兵の徴兵などが罪状にあがっています)
アフリカでは「殺した相手の肉を食べることで強くなれる」という土俗信仰が広く存在するので、紛争地域での食人行為は珍しく無いそうです。
「価値観の相違」と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、殺人であれ、人肉食であれそれを正当化する論理というものは存在するわけで、そのあたりは個々人によっても違うでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 「価値観の相違」というより、食べなければ死ぬという状況に追い込まれた場合、人喰いは個人が罪として死ぬまで抱え込まなければならないのか、あるいは人喰いをしなければならない状況に追い込んだ責任者が責任を背負い込むか、心の罪を緩和する宗教的機構が痛みを分かち合ってくれるかということです。
 キリスト教では懺悔という形式で、信者の心の重荷、罪の意識を神の心に拾い上げて、信仰者を助けることをしています。
 日本軍の場合、多くの戦場で食料は現地調達の方針を採用しました。インパール作戦を指導した牟田口司令官は、戦後になってからも自分の作戦の正当性を主張して失敗責任を認めていませんが、彼の現地調達に方針により多くの将兵が病気と飢餓で命を奪われています。そんな状況のなかで人喰いが起きた場合、将兵は個人のレベルで人喰いの責任を背負い込むとになっているのがやりきれないと思います。「ビルマの竪琴」の水島上等兵は鎮魂の旅を続けますが、もうすこし、軍の責任者の謝罪とか、大政翼賛会で活躍した神道あるいは仏教関係者が救いの手を差し伸べてくれたのかなと疑問に思ったわけです。
 その意味でキリスト教会は心強いなと感じました。

お礼日時:2009/09/10 05:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!