No.1
- 回答日時:
神を抱く者のもつ認知手段は、世界を把握するのに十分であり、
したがって神の絶対性の臨界は、信仰者に内在しないと考えます。
また神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており、
救済が無限遠を前提とする構造になっている体系では、
現世の荒廃との矛盾は、論理的に存在しえません。
『神の絶対性』と外界との界面は、思考実験においてのみ認知可能であり、
しかもその対称性は垂直的であらざるを得ない。
『神が人間の創造物』である以上、多様性の地平からは免れず
それが水平的対称性を形成しているという、世俗の前提に基けば・・・カテ違いです。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
よろしければしばらくお付き合いください。
>神が人間の創造物である以上
信仰ある人についてはこのことは当てはまらないのではないでしょうか。
天地創造の神にしても、聖人に直覚される宗教的世界にしても、
「宗教を信じる者」とは「神を人間に先立つ実在と信じる者」だと思われます。
そうでなければ、「神」と「妄想」との区別がその人の中でつかなくなりませんか。
>神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており
つまりそれは、「いないと言い切れないから存在する」ということでしょうか。
同様の論理はあらゆる物事に対して成り立つはずです。
なぜ「神」の場合には特殊にこのような蓋然性の無視が正当化されるのでしょうか。
No.2
- 回答日時:
人間が何に重きを置くかによって違いが生まれるから、神は多様なのだと思います。
神というのは人間では成し得ない力を持つ存在として仮想されたものなので、けん玉がどうやってもできない人間からすると、それがすげーうまい人間を見ると「神!」と冗談であっても崇められるわけです。けん玉神様です。つまり、人の数の、できないことの数だけ神は存在します。
ちなみに。
私は存在するものは誰かしらに監視されていると思っています。
私は親や恋人に監視され、それらはまた、友人や家族に監視され、、、もちろん植物・動物・車などの物質でも構いません、存在するものは何かしらの存在に存在を把握されてなければ、廃れてしまう。その原理は日常生活で伺えます。
だからたったひとりで無欲に生きる仙人を神に近い存在というのはわかる気がしますね。
それを世界規模、地球規模、宇宙規模で考えていきます。
宇宙・・・人間からしたら無限に近いものとして捉えられていますが、それでも存在しています。私には死ぬまで一部しか監視できないまま存在し続ける宇宙の、その全てを監視できる最終的な存在として、神様という絶対的なものを作らないと筋が通らないのです。誰に監視されなくても監視し続けるには不死でなければならないですし、そうなるとやっぱ神様なんですよね。
私は賢くないので知りませんが、私のつくった神様はどういう考え方になるんでしょうかね。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
「神は見方によって異なる」という考えには共感を持ちます。
「存在の把握」とは、例えば道端の石について言えばどのようなものになるか、気になります。
No.3
- 回答日時:
>>後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。
まあ、人間も最初(はるか昔)はたくさんいなかったからね。
鼠算はしってるでしょう。
1 2 4 8 16 32 64 128 256 512 1024 …2^16……2^33..
ざっとですが現在の地上人口は2^33に近いところ、8万に近いのが2^16ぐらいのところですね。
人口60億人の民族構成からいって8万ぐらいの神がいてもおかしくないし、更に源流にさかのぼれば1人の絶対神がいることもおかしくないんですね。
2^33から上が全て上(神)ですからね。
上からどの程度を絶対神としてるかで誤差が生じるということですね。
一番目を知れば混乱は防げるはずですが、これが大変難しいということでしょう。冷静に判断すれば違いはわかるはずですが妄信すると見えなくなるんですね。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
mmkyさんにおける「神」の定義が私には今一つ分からないので、よろしければそこを明確にして頂けませんか。
誤解があるかもしれませんが、これは神と人間との区別が付かないように思えます。
No.4
- 回答日時:
こんにちは。
例によってえらそうな回答ですが 答えはかんたんですよ。
★ 現実として宗教=神(仏)は多様に存在している
☆ のは すべてわたしたち人間が想像力を駆使して生んだからです。
★ 信仰を持つ人間〔にとって 自分が向きあう〕その本質としての絶対性
☆ は想像力を超えており 人間の身体をも精神をも超えています。感性によっても理性によっても分かるか分からないかが分からないのが 《絶対》です。
《神》は この《絶対》を言いかえた言葉です。《無神》と言っても《無》と言っても 同じことです。精神や想像力あるいは概念を超えているのですから 言葉で捉えることは出来ません。すべて仮りの言葉です。
ぎゃくに仮りの表現をこの神(ないし無神)についてひとはいろんなふうに考え出して来ます。それゆえ
★ 多様に存在する
☆ というかたちに 結果として成っています。言いかえると それらの言葉は すべて偶像です。仮りに人間の言葉を当てて表象しようとしてみたものという意味です。
偶像を偶像と分かっていればだいじょうぶですが 偶像じたいがほんとうの神であると思いなすと問題でしょうね。
精神もしくはなんらかの文句 これを神だと思いこんでいるなら 問題でしょうね。精神は永遠であるとか。仏性を持ち出せば何でも説明が出来るし誰でも納得するはずだとか。ブッダという名前を出せば皆がひれ伏するはずだとか。――すべてこれらは偶像崇拝です。
多元主義も原理主義も 偶像崇拝のわなに陥りやすいのでしょうね。
目に見える偶像のほうよりは 心の目に見えたというその観念の偶像についての崇拝のほうが 問題が大きいでしょうね。
これから解放されれば いわゆる宗教の対立は解消するでしょう。
★ なぜ神は多様か。
☆ ひとはワ゛ーチュアル・リアリティを求めたのでしょうね。イマジネーションはゆたかですからねぇ。いまだにこれらのわなから自由になっていないというのは どうもひとはいつまでもくるっていたいのでしょうかねぇ。そういうひと いますね。
そしてそういうひとが一人いると ほかのひとたちは皆 口をつぐみます。おとなしいと言えばそうですし 魂が抜けていると言えばそういうことでしょうね。
これは 一部の現象でしょうが この一部分の現象による影響が全体にまで及んでいるように感じます。
きみたちよ 観念の偶像から解きはなたれよ。とわたしたちは言っていかねばならないでしょうね。(ここまでは 余計なことでしたか?)
この回答への補足
回答ありがとうございます。
「神」とは「絶対」の解釈(あるいは直覚)であるということでしょうか。
(何となく、「神学」の核心をつく見方のような気がします。)
ここにおける「絶対」とは、どのように現れるものと考えておられますか。
私見としては「世界の調律」において見い出されるものに思えます。
また、その解釈は唯一なものと思われますか。
私は「イエス」も「アラー」も「ヤハウェ」も「釈迦(並立は不適切か)」も、現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。
No.5
- 回答日時:
神はいろいろな多様性を有しているようですが、立正安国論によれば全ての神々はいなくなっていますので
この問題自体成り立ちません。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
立正安国論を全面的に受け入れるならば、
世界の諸宗教は日蓮宗に還元・統一可能ということでしょうか。
例えばキリスト教徒を折伏する場合はどのようになりますか。
ぜひ教えて頂きたいです。
No.6
- 回答日時:
唯一神を信仰する者は、多様性…考えません。
その人それぞれが、宗教感を持ち、その崇める対象を信仰する。
その時、唯一神なのか、多神教なのか、仏様なのかです。
宗教は、自由だから。
宗教感をお持ちの方ですか?それとも、学問的になのでしょうか?
宗教否定派の方ですか?
日本人独特の神にも、仏にも、手を合わせる一般人ですか?
と、問いたく成る質問に思いました。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>その人それぞれが宗教観を持ち、その崇める対象を崇拝する。
まさにこの状況が私の疑問でして、相異なり、時に矛盾する宗教観を許容した上で、ではそこで人を信仰に至らせる神の真理性はどのように保たれるのかということです。例えば一神と多神という宗教観の不一致もそれは既に宗教の相対性を示唆します。にもかかわらず宗教は絶対的な形で死後などの超経験的世界を語る。絶対的真理であるから信用(信仰)に足るはずなのに、「真理」は複数存在する。どのようにしてか。さらに、他の「真理」を虚偽とする「真理」さえ存在する。この問題に満ちた状況を、宗教者は原理主義以外によっていかに脱すると考えられるか、という質問です。
私の立場は、原理的に否定が不可能だから宗教を否定しないといったものです。
八百万の神は主観として存在する(「魂」のように)と認めますが、宗教の超越的世界観から取り出される実践的道徳は認めない立場です。簡単に処理できない区分とは思われますが、恐らく私は神武天皇の存在を認めないのと同様の論理でもって二者を判断しています。
この質問は、その立場から、実際に実践されている宗教に対して批判的な考察を加える意図で行っています。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
No.4です。
ご返答をありがとうございます。次のように考えております。
★ 「神」とは「絶対」の解釈(あるいは直覚)であるということでしょうか。(何となく、「神学」の核心をつく見方のような気がします。)
☆ はい。細かくは 《解釈》というよりは《単なる言いかえ》だと思います。《絶対・無限・超経験》という言葉は 概念として説明つきです。《神》は ほとんどその意味が分かりません。でも昔から用いて来たという歴史があります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここにおける「絶対」とは、どのように現れるものと考えておられますか。
私見としては「世界の調律」において見い出されるものに思えます。
また、その解釈は唯一なものと思われますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《絶対》と《わたし》との関係は 非思考としての こころの明けないし伸びとして 経験的にも現われると捉えています。つまり《経験思考》を超えているという意味で《非思考の信仰》としてです。
ちなみに この信仰が 教義を持ち集団として社会習慣となったものは 宗教です。こちらは 不必要だと考えます。ローマ教会をはじめとする組織に対して 自己解体を勧めます。非思考のことがらが 思考によって(つまり他のひとによって)決められたりすれば それは無効であり犯罪であるからです。
★ 「世界の調律」
☆ は信仰ないしひとりの存在にとっての主観の内におさまると見るべきです。社会経験的な問題に対しては 信仰は背景へ(つまり主観の内へ)しりぞきます。世界観は 経験思想に解釈しなおして理論としても政策的な意見としても述べるべきだと考えます。
★ 私は「イエス」も「アラー」も「ヤハウェ」も「釈迦(並立は不適切か)」も、現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。
☆ 《絶対》を擬人化して《絶対者》としたり これとしての・つまり《創造主としての神》としたりするのも まだ《言い換え》に属すると考えます。ヤハヱー・キリスト・アッラーフも 《言い換え》に属するでしょう。
釈迦とイエスは 人間の存在を言っていますから 神ではないでしょうね。しかも釈迦がブッダだという場合 そのブッダも 神として想定しているのかどうか 分からないところがあります。《諸法無我》と言いますから。
ただし《仏性》は 《絶対》のもとにある。もしくはその属性を解釈したもののようです。そして《絶対》はむしろブラフマンに相当するかも知れません。
★ 現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。
☆ 《絶対とわたしとの関係》としての信仰からさらにこの世界と相い対する《わたし》の生活現実に戻るなら そう成っているようだとわたしも考えます。
それは キリスト・イエスなどなどの名前というよりは たとえば《愛だの慈悲だの 永遠の生命や復活あるいはさとりなり不死不生なり》など経験思想にもかかわる概念での理論や説明の問題だと思います。今では扱いにくい《義・正義》という概念も 神の属性として添えられていましたね。概念説明を互いに行なって 自由に批判しあいつつ 共通の了解および相違点の確認へと進めていけばよいと考えます。
次のようにまとめたことがあります。よかったら参照してください。
○ (信仰類型論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。
以上の定義だけの理論は 次が その心である。
吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ありがとうございます。
同意する、の一言に尽きます。
私からこう評すのは二重の意味でおこがましいとも思いますが、もはや「宗教(信仰の基本形態)とは何か」という問いに関して一流の哲学的あるいは倫理学的考察ですね。
不可知に対する「自然的態度」と、そこから注意深く自然的態度を保持しつつレトリックとして導かれる「実践的態度」としての信仰と宗教生活。
この二重性の自覚こそが宗教対立の解消あるいは真の宗教理解の鍵となる、というようにまとめてよいでしょうか。
これが何を意味するかについて、しばらく吟味させて頂くことにします。
No.8
- 回答日時:
>信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるか
:このことに関しては、
なぜ信仰を持つのか、という根本を抜きにしては語れないような気がします。
本質としての絶対性といっても、そんなものが信仰で手に入るはずもないのに、入ると錯覚してい無理に手に入れるから折り合いが必要になるのではないでしょうか。
つまり、錯覚ならいくらでもあって不思議ではありませんから、神が多様になるのは必然的結果ということです。
一旦、陥ってしまえば、たとえ錯覚といえども(無論、そのことに気づいていないせいもありますが、それを覆されると生きていけませんから)死守せざるを得ません。
結果として、
「>原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらす」
ことになるのもまた必然でしょう。
「前者」と「後者」ではなく「因」と「果」と捉えたほうがわかりやすいような気がします。
因である、
>原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか
:に関しては、
「原理というものを拙速に求めずに、わからないことはわかるまで追い求めて、安易に(教義という)帰結を求めない」
覇気に目覚めることでしょうかね。
虫歯が痛いときには正露丸(古い?)を詰めれば緩和されますが、宗教とはそういったものでしょう。
一時的に痛みは取れますが、本質的に虫歯が治癒するわけではありません。
痛み(悩み)が一時的に取れたように錯覚させるのが宗教であって、錯覚(=真実ではないもの)であればこそ必死で、対立する概念を否定する必要がある、ということだと思います。
回答ありがとうございます。
宗教の本質的矛盾については同じ思いです。
hakobuluさんのような、科学的立場からの宗教批判は現代の一つのスタンダードですね。非常にわかりやすいです。
私は、科学あるいは経験の知が捉える(蓋然性の高い)客観的世界像を正しいとした上で、
壮大な自然や、無気味な暗闇などから生じる主観的世界像もまたリアリティとしては真実だと捉え、
その主観的世界の説明方法の一つとして宗教がある、という考えです。
結論は似ていますが、もしかするとhakobuluさんとは対立する意見かもしれません。
しばらく検討を続けたいと思います。
No.10
- 回答日時:
#1です。
質問の中でちょっと分からないことが2点ほどありますので、先に。1.『神は多様に存在している』と認識している主体は誰ですか?信仰者ですか?
プリミティブな信仰においては、宗教的排他主義(=原理主義)が一般的であり、
彼らが『神は多様に存在している』と認識することはありえないと思うのですが。
2.宗教多元主義とは『宗教的絶対』に対する『異なる体系』が多数ある(=諸宗教)と考えるわけですから、
宗教的絶対は単一です(ここでの『宗教的絶対』は『神』ではありません)。
質問者様の仰る「神の多元性」とは、『宗教的絶対』が多数存在するという前提になっているように読み取れるのですが。
原理主義者は異教徒との衝突を、『原理主義と原理主義との対立』という構図で見ることはないと思います。
なぜならこの構図は既に自らの信仰を相対化しているからです。
彼らにとって信仰は神の下部構造であり、信仰の相対化はすなわち神の絶対性の誤謬を問うことになります。
したがって「殺戮や荒廃」と「救済」との矛盾は発生せず、逆に「殺戮や荒廃」は『神』或いは『信仰』によっていつか「救済」されると考えます。
宗教的多元主義は、現在までのところ『ヤーウェ(=アッラー)』という「同じ神を頂く分派」、
つまりユダヤ教、イスラム教、キリスト教の内部にとどまっており、
彼らは外部に対しては排他主義、或いはせいぜい包括主義でもって望んでいると私は認識しています。
『宗教的絶対』が多数存在するという(質問者さまの?)構図は、
世俗的なスクリプトであり、「神は唯一無二である」という『神の絶対性』を既に否定しているように思います。
つまり『神の絶対性』と『神の多元性』は、完全に矛盾した概念であり、個の内部に同時に存在できない。
であれば個別に検証するしかないと思います。
(もともと多元的で、なおかつ次々に新しい神(らしきもの)を生み出す体系であるヒンドゥや仏教の神は、同列に扱うと議論が発散してしまうと思うので、ひとまず措きます。)
---------------------------------
私は神の登場(信仰の誕生と言ってもいいかと思います)以前に、
『絶対』という概念が先に誕生したのではないかと疑っています。
『超越したもの = 絶対なるもの』という概念が、何らかの理由で必要とされ、そして誕生した。
『絶対』『超越』の誕生を要請したモチーフが何なのか、
これについて永年考えているのですがまったく分かりません。
自然的体験に基づく個の存在の儚さ=非絶対性に対する諦観や、
超自然的神秘的体験が影響したのではないかと考えていますが、
それはあくまでも影響であり、決定的なモチーフではないように思います。
おそらく言語化しにくいものであったと推測しています。
そしてその『絶対』の表現形として数多の概念が生まれた。
ある者は『疑っている自己』を絶対であると見做し、哲学者になり、
ある者は『神』という概念を生み出し、信仰者になった。
ある者は『検証可能性』という概念を生み出し、科学者になった。
(いずれも『絶対』に対する信仰者であることに注意しなければなりませんが。)
数多の概念の中で『神』がとりわけユニークであるのは、
「不可知なる絶対」として誕生していることです。
「可知なる絶対」も数多発生したはずで、
そしてそのほとんどは淘汰されてしまったと思料します。
なぜなら「可知なる」ということは「馬脚を現す危険を内包する」からです。
「完全なる絶対」以外はいつか馬脚を現す。
「不可知なる絶対」は「完全なる絶対」であることを放棄することで、
無謬性を獲得したと考えられます。
しかし『絶対』の誕生は「さまざまな異なるモチーフ」が「さまざまな異なる集団」に同時多発的に存していたと思います。
そしてそのモチーフを共有していない者=他者には、「不可知であるもの」は「存在していないもの」と同義になります。
よって「不可知なもの」は普遍を獲得しえず、ローカルであり続け、その結果として多様な神が(同時多発的に)生まれた。
これが神の多元性の発生要因ではないでしょうか?
※神が『絶対』のレトリックであることはそのとおりだと思うのですが、
『絶対』の修辞の多様性は、先ず「不可知なもの」と「可知なもの」という形で立ち現れるはずです。
そしてそのうちの「不可知なもの」というテクストの下部構造が『多様な神』であり、
『多様な神』のさらに下部に「ヤーウェ」や「ツァラトゥストラ」や「八百万の神」というサブスクリプトが存在している。
そういう構図で私は見ています。
----------------------------
>>神が人間の創造物である以上
>信仰ある人についてはこのことは当てはまらないのではないでしょうか。
その通りだと思います。
そして信仰者は「神が人間の創造物だとは考えない」のと『まったく同じ理由』で、「多様な神が存在すること」を認めません。
>「宗教を信じる者」とは「神を人間に先立つ実在と信じる者」だと思われます。
>そうでなければ、「神」と「妄想」との区別がその人の中でつかなくなりませんか。
「根拠」のない想像のことを妄想というのだと思いますが、「神の根拠」は先述の言語化できないモチーフなのだと思います。
そのモチーフが彼らの内部に備わっている、その一点においてのみ、妄想というくびきから脱しているのだと思います。
非信仰者から見れば神は妄想以外の何ものでもありません。
神の誕生に立ち会えなかった者、すなわちモチーフを共有しない者の信仰はとても脆弱です。
このモチーフを、或いは信仰を強化するための装置が宗教という体系なのではないでしょうか。
>>神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており
>つまりそれは、「いないと言い切れないから存在する」ということでしょうか。
先ほどの論のとおり
「不可知なる絶対」は「不完全なる絶対」であることを甘受することで無謬性を獲得したと考えられます。
その意味では「いないと言い切れない」構造になっていることは、その通りだと思います。
>同様の論理はあらゆる物事に対して成り立つはずです。
あらゆる物事は回答の「有期限延期」に拠っています。
科学は物事を「解明する」=「言語化する」ことで、結果的に「解明されていないもの」=「現時点では不可知なもの」を表現しています。
>なぜ「神」の場合には特殊にこのような蓋然性の無視が正当化されるのでしょうか。
「神が存在すること」と「神は不可知であること」は、併せてひとつのタームだからだと考えています。
独立して検証することは出来ないものとして最初から存在している。
神は立ち現れたときから不可知であり、不可知であることを疑えば、或いは知ろうとすれば、たちどころに神は消滅してしまう。
「神が消滅してしまってもいいんですか?」
ある意味で見事なロジックだと思います。
-----------------------
お付き合いいただきありがとうございます。
自分で読み返してみて、なんとまとまりのない文章であることかと情けなく思います。
質問者様や他の方の御意見を参考に、今しばらく思索してみようと思います。
この回答への補足
ご指摘の通り、確かに曖昧な文章であったようにも思います。
しかし結果的にと言うか、CageAnoeさんの回答は、私の質問をCageAnoeさんの視点から進めた形となっていますので、
回答を踏まえて、疑問点を集約できそうです。
つまり、宗教者Aはその信ずる神の絶対性において、別の宗教者の信ずる別の「神」の絶対性を虚偽と見なさなければならないはずである。いや更に言えば、同一宗教内における解釈も統一されなければならないはず。
ここで必然的に、Aのモチーフに基づく神と、他のモチーフに基づく「神」が存在し、Aと他は互いに「私たちこそが正しく、救済されうる。彼の神は虚偽である。」と考える。
これはほとんど原理主義的と言って良い。そしてこのような人間同士が心の内で互いの尊厳を自覚的に貶し合うとはあまりにも精神的に貧しく、悲しいと言うべきだ。
実際には、"なぜかなあなあのままに"宗教宗派が乱立する状況があり、宗派を越えて人間は分かり合うことができている。
このダブルスタンダードはなぜ成り立つのか、ということです。
実際真面目に信仰を反省する人などほとんどいないのではないかという思いがあります。
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