竹千代や菊千代のように、幼名に「~千代」とつく幼名が
どれだけあるのか探しています。
一覧にしたいと思っておりますので、上杉謙信:虎千代というように
武将名(?)も一緒に教えて頂けたらと思います。

こんな幼名があったような…というのでもかまいません。
どうぞ宜しくお願いいたします。

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A 回答 (5件)

 徳川家康 竹千代 というのは思いつきましたが、


他のを検索してみますと・・・
こんなサイトを見つけました。

 http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/mm03.html

この回答への補足

たくさんのご回答、ありがとうございます!
いままで頂いたものをまとめますと、

犬千代:前田利家・利長親子
猿千代:利長の異母弟利常
勝千代:武田信玄
鶴千代:太田道灌、蒲生氏郷・秀行父子、頼房以降の水戸徳川家嫡男
竹千代:徳川家康、徳川信康、徳川家綱、松平清康
松千代:土井利勝
辰千代:松平忠輝
徳千代:阿部正次
虎千代:上杉謙信
仙千代:松平広忠
万千代:武田信吉
伊勢千代:青山忠俊

以上になるかと思います。
他の幼名もしくは訂正などありましたら、ご回答お待ちしております。
どうぞ宜しくお願いいたします。

補足日時:2009/10/12 14:52
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no.3さんの鶴千代で思い出しましたが、


蒲生氏郷・秀行父子および頼房以降の水戸徳川家嫡男の幼名が鶴千代ですね。
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太田道灌は幼名を鶴千代といったそうです。

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取り敢えずひとつ。


武田信玄  幼名、太郎、勝千代。
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前田利家・利長親子の幼名が犬千代。



利長の異母弟利常の幼名が猿千代(後に犬千代)ですね。
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Q武将 ?上杉謙信? 名言

 先日、ラジオで聞いたことですが・・
戦国時代の武将(確か・・上杉謙信だったような)が
『死にたくないと思う奴は死に、死にたいと思っている奴は死なない』
というような意味合いの言葉を残したと聞きました。

どなたか、ご存知でしょうか?

Aベストアンサー

上杉謙信

・生を必する者は死し 死を必っする者は生く

解説・・・生きようとする人は戦場で死に、決死の働きをした者が生きていくという言葉

Q上杉景勝と景虎、どちらが先に謙信の養子になった?

タイトル通りですが、時期的な違いもわかりましたら教えてください。

Aベストアンサー

景勝ではないかと思います。

景勝
父の長尾政影の死(1564年)に伴い、謙信の養子になる

影虎
越相同盟(1569年)の際に北条家から人質として、謙信の養子になる

Q越後守護上杉家と長尾為景・影虎と関東管領上杉憲政の関係

 越後守護上杉家は、長尾為景によって国を奪われ、
その後、関東管領である上杉憲政は長尾影虎から関東管領職と上杉姓を引き継いだと認識しています。

 越後守護上杉家と関東管領上杉憲政は、遠い親戚にあるのだと思いますが、
なぜ関東管領上杉憲政は、越後を一族から奪った長尾を頼ったのでしょうか?

Aベストアンサー

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

上杉家の始祖は上杉重房であり、その息子は上杉頼重と言い、彼には三人の息子がいました。
その頼重の息子の一人、藤明が長尾家に養子に入り、その子孫が長尾為景や長尾影虎となります。
また頼重の息子の一人、憲房の子の憲顕が山内上杉家の始祖となり、その子孫が上杉憲政となります。

つまり、上杉憲政と長尾影虎は血筋を辿っていくと、どちらも上杉家始祖の上杉重房に辿り着く血縁関係にあり、全く無縁な関係というわけではありません。

そもそも戦国時代ですから、血縁関係があっても、その時々の状況によって戦ったり味方になったりするのが当たり前の時代です。
同じ上杉の扇谷上杉家と山内上杉家は時には戦ったり、時には味方になって一緒に北条氏と戦ったりしています。こういう事は別に珍しい事ではありません。
長尾氏が越後の実権を上杉家から奪ったからと言って、味方にできないというものでもありません。
武将は自らが生き残るために、敵、味方を変えていくものです。
この時は上杉憲政の置かれた状況が、たまたま長尾影虎を頼らせたのでしょう。

北条氏に対抗でき、なおかつ上杉家に血縁、縁のある武将だから。

当初、上杉憲政は佐竹氏を頼り、上杉の名と関東管領職を渡し保護を受けようとしました。
かつて佐竹氏の第12代の当主をつとめた佐竹義人は山内上杉家から婿養子に入った人であり、佐竹氏も上杉憲政と血縁関係にありました。
しかし、当時の第17代当主、佐竹義昭は源氏の家名である佐竹の名を自分の代で終わらせるわけにはいかないと断ります。

そこで上杉憲政が次に頼ったのが長尾影虎でした。
長尾影虎も上杉の血をひいています。

上杉家の始祖...続きを読む

Q上杉謙信とか上杉家とかを

なんだか義に生きて義に死んだみたいにすごく美化してますけど、
誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。
実際のところ上杉軍って、攻め込んだ先で百姓とかぶち殺しまくったり、
女を犯しまくったり、すごく恐れられていたと聞きました。
上杉謙信に至っては、ただの戦好き。
今で言うところのブッシュ元大統領みたいなものだと言うことですよ。
いったい誰が何のために、
上杉家を義に生きる集団みたいな情報操作をしたんですかね。

Aベストアンサー

>誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。


根拠はありませんが、
江戸時代のそれも元禄時代あたりからではないでしょうか。

日本人には判官びいきというのがあって、
強者、権力者へのあてこすりや批判に
それに対抗するものを作りたがるからです。

権力が不安定な時代であれば弾圧されますが、
安定してくると、それも一つの読み物、娯楽として
庶民の不平不満のガス抜きとして認められます。

家康がたぬきおやじで、真田幸村や直江兼継が
反権力のヒーローみたいに特徴づけられるわけです。

たぶん、講談や辻講釈の一節として定着していったのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E8%AB%87

Q上杉謙信にも領土的野心はあった?

上杉謙信は正義と理想のために戦い,戦いといえばハイリスク・ローリターンなものばかりで敵から奪った領土は元の領主に返してあげていたという話を聞くけど、長尾家(上杉家)は謙信の代で200万石近い大大名になってますよね。
七尾城の戦いでも織田家を破ったりして越中とかそのあたりを上杉家の版図に加えることに成功してますよね。

実は上杉謙信にも北条氏康や武田信玄のような領土的野心があったということですか?

Aベストアンサー

#3の補足です。

>しかし、居座ることなく引き上げたとなると、200万石という数字は越後、能登、越中の直轄地と、兵は引き揚げたけど影響力をもった関東と信濃を支配圏と計算しての数字ということですか?

200万石という数字の根拠は、自分にはよくわからないのですが、彼は異常なほど関東や信濃への出兵を繰り返しています。
出しては退き、出しては退き、という行動が、領地目当てではない「義将」と言われるゆえんであるわけですが、その中で直轄地にしたところもあれば、家臣に分配する土地もあったでしょうし、その土地の国人の領地を安堵してそのまま彼らを臣従させる、ということもあったでしょう。
まったく見返りなく出兵するだけでは、家臣はついてこないでしょうから。
ただその行動の動機が、領地拡大だったとは言いにくいんじゃないか、ということです。
出しては退き、を繰り返さなければいけない事情として、越後は雪国ですから、雪に閉ざされる前に本国に帰還しないといけない、といったことはあったと思いますが。


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