ネット上の情報には、以下のようなことが書いてあります。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic16.html
一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和尚が他界した時は、悲嘆のあまり、来世で再会しようとして瀬田川に入水自殺を図っている。
上記の一文には、心理学的におかしいことがあります。
一休は、母親と縁がほとんどない状態で生きていると思われるのですが、もし、自分なら死ぬ前に母に会いたいと思って会いに行くと思い
ます。
自殺未遂をした瀬田川は琵琶湖で母住んでいる京都です。
謙翁和尚と一休が暮らしていた場所は西禁寺で奈良県であるから、
わざわざ、自殺する為に、瀬田川まで、遠出したことになります。
自殺するなら、切腹という手軽な方法があるにも関わらず・・・
思うに、一休は、母にすがるために会いに行ったが、追い返されて
しまったのではないのでしょうか?
それで、行き場を失った一休みは衝動的に、川に身を投げたのではなかろうか。
どう思いますか?僕の推理。
A 回答 (13件中1~10件)
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No.13
- 回答日時:
>僕の仮説の信憑性は揺るがないですね。
このこと詳しくないです。
No.12は、切腹難しい、怖い、お手軽自殺法でないと言っただけ。
この回答への補足
>No.12は、切腹難しい、怖い、お手軽自殺法でないと言っただけ。
僕は、補足の欄に、否定するなら反論すると書いています。
最後まで読まなかっただけでしょうから。。。仕方の無いことです。
ですが。あなたは素晴らしい。
人の気持ちが良くわかっていらっしゃる。
>>>僕の仮説の信憑性は揺るがないですね。
このこと詳しくないです。
そうですね・・・
一休の思想を理解していかない限り、
一休がどんな行動とる人生になるか判りません。
僕は一休の思想を理解しているけど、皆が理解している訳じゃない。
NO12さんに謝罪文を書こうかと思ったらあれれ?yejiangさんでした。
僕はどこで、何を勘違いしたんだろうか・・
でも、僕が悪いの事実ですから、謝っときます。
ごめんなさい。
でも、ありがとう。
いろいろ、気付かされましたw
No.12
- 回答日時:
>自殺するなら、切腹という手軽な方法があるにも関わらず・・・
質問の回答ではないが、切腹は手軽な自殺方法ではないです。
切腹はしにくいものよ。自分で考えて見てください。
大変難しい自殺方法だから、武士の名誉になった。
この回答への補足
私も今、言われて思い出しました。
ドラマで、死刑になる武士が、切腹した直後に首を跳ねられる
シーンがありました。
それだけ切腹が苦痛で簡単には死ねないということですね。
料理用の包丁なら、なおさら不可能ですね。
そういえば、一休は、生前、腰に刀をぶら下げていましたが、
中身は、鞘だけらしいです。
自分の身を守る為の防衛らしいです。
・・・そんなことぐらい知ってるか・・わざわざ書いてしまった。。
けど・・、それだけ自分の身の危険を案じていたのは事実ですね。
いつ、天皇の後継暗殺を狙う死角が来るか判らないのですから・・・
と、言うことは、一休は自分の立場を理解していたことになるんかな。
そう考えたら、僕の仮説の信憑性は揺るがないですね。
No.11
- 回答日時:
回答番号:No.10
ご質問への回答に対するお書き込みへの対応です。
慰めることが必要でしたら、そのようにお取りください。無論、含んでいます。
好き、嫌いはここではあまり問題ではないでしょう。
好き、嫌いを抱懐する条件がありません。
ただ禅者、禅僧のことをなさるなら、禅とその修行をご勉強されているものと存じますので、参考として拙い投稿を致しました。
ご用事がないようですので、引き下がり、退出いたします。
以上、遠くお見送りいたしましょう。
この回答への補足
じゃあ、好きってことでいいですね。
僕の為を思っての発言なのですから・・・
好きなら、僕が何を求めるかわかるよねw
僕の一休の仮説の信憑性です。
バンバン、否定する理論をぶつけてください。
歴史、データ、そこから、わかる一休の真の思想。・・
その思想に至るまでに辿る経路から、もっとも信憑性がある経路は
一体どんなものでしょう。
もし、「一休が母にすがりついた」という一文が、歴史の教科書に
乗ったら、面白いじゃないですか・。
No.10
- 回答日時:
回答番号:No.9
oinieagaさん、そうですか。そんなに話が通じなかったのですね。
でも読んでくれてありがとう御座いました。
一生懸命どうご説明すればいいか一晩考えましたが(たくさんの中断をしながら、)もともと説明や注釈がなくても伝わるように、私のことばで書いたものでして、私自身が言い直すところはありませんので。
ことばが難しいと仰せられても、日常語により、文法も凝ったものを意図していませんで。比喩や暗喩、明喩も使っていませんしね。抽象性もなく、まっすぐそのまま、隠すことなく内容を客観的に表現してますので。
ご質問などがあれば、お応えできるかもしれません。
一般的に、全体がよく伝わらないといわれるととてもお応えしようがないですね。
単なる私の経験と稚拙な会得を述べただけで、お目を煩わせて申し訳在りませんでした。
この回答への補足
え?慰められてたんじゃないのか??
じゃあさ、僕のことが嫌いか、好きか、どちらでもないか、
この3つで教えて・・・
そうしたら、スッキリする。
No.9
- 回答日時:
oinieagaさん
禅僧も、そして須らく真の宗教者というのは、人生が思想であり、思想が人生です。その思想は論理や演繹、学問知識ではありません。全宇宙、創造界を、更に人間と存在を振り捨てていく精進であり、結果です。
禅僧をその中から見ないでは歴史も物語りも理解から遠い、的外れとなります。単なるおしゃべりです。
人生も創造も、そして歴史もロマンであり物語です。正にhis’ storyということばとおりです。
私もoinieagaさんと同じように、別のロマンかもしれないものを追求している。
同じというとよくないかもしれないが。
どうぞよいロマンを生き、そしてでていきましょう。
一休、二十歳。数奇な運命と有為転変を振り返り、時にブッディ的には理由もない事に引き込まれる年齢でしょうか。
無論政争や権力とは相当の距離の中の言動でしたでしょう。
藤村操や太宰、そして芥川もですか。
自分は何か同調していく感懐を持ちますが、ブッディ的にも歴史的にもあまり問題のない事柄ではあります、無論私の場合は。
西郷の「おいどんの命差し上げましょう」と、郷党の若者に自分を托する行為は今までの私としては、振り返ることができます。
同じように無能で、無力でしたから。“せごどん”に失礼ですが。
すいません。言葉が難しくて全体の10%も理解できないです。
でも、何となく慰めてくれているのが判るので、ありがとうです。
今朝方は、自分の内面を見つめて、1リットルぐらい号泣するほど不安定な状態でした。
でも、もう大丈夫です。
僕は、人に認めて欲しいんじゃなくて、
人のことが大好きなんだって気が付いたんです。
単なる寂しがり屋って感じです。
気を取り直して、一休を探求していきます。
No.8
- 回答日時:
これまで一休和尚に関する書物は相当数にのぼり、その内容もまさに百花撩乱の体をなしていますが、そのほとんどが先に上げた弟子墨済の手になるといわれている年譜と一休和尚自身が書き残した歌や詩を分析することで成り立っています。
さてここで言っておかなければならないことがあります。一休和尚という人物についての信憑性です。もちろん彼自身はたしかに存在していた実在の人物ですが、その出自や母親、そして数々のエピソード、果ては晩年の全てを捧げたといっても良い盲目の女性「森女」の存在、それらのすべてに疑問符がつけられているということです。
大筋という意味での彼の生涯はかなり解明されており、それなりの定説が構築されていますが、細かいところではその定説を基にはしながらもあらゆる研究者や学者たち、さらには作家でさえも言ってみれば好き勝手な創作や推理をちりばめて、自身の作品の体となしています。
その伝でいえばあなたもかなりの推理を交えての自説をお持ちのようですが、それはそれで大変結構なことであり、このような知的な思索に時間を費やすことは素晴らしいことだと思います。
しかしあなたには苦言を呈することがあります。それはここでのあなたの他の回答者さんを含めた私たちへの対応の仕方です。
先に書いたように一休和尚に関してはいまだに明らかになっていないことが多いこともあって、かなりの推理や想像が入り込む余地がありますので、あなたのこれまでの自説の展開に私が異論を挟む権利はどこにもありません。
しかしここは質問者が抱いた疑問を他人に開示して、その回答もしくは意見を求める場所です。これまでにあなたへの回答をされた方たちは私も含めて、明らかに定説とは違っていることを指摘しました。もちろんそれに関してあなたが不満を持っているかどうかは私たちが知る由も無いことですし、知る必要もありません。
しかしあなたが最低でも一休和尚の年譜に目を通してみたなら、自分の勘違いを知るはずです。しかしあなたはそれに関してなんら返事を示すことなく、回答への反応は次なる自説の推理の押し付けです。
これではあなたはここで自分の疑問を解消したいというのではなく、たんに自分の思いついた(とはいえそれはもうすでに何人かの研究者や作家による研究本で触れられていますが)自説をひたすら書き連ねることで応えています。
これでは私たちはあなたの自説をこのような場で公開して、自己満足に浸りたいという願望の道具となっているだけではないでしょうか。あなたがもしかして一休和尚を研究しているどこかの大学の院生、もしくはドクターコースをとっている学生なら、ゼミなどでこのような発表をすれば他の学生による突っ込みで袋叩きになること請け合いですよ。
私は先に推測推理は自由だと書きましたが、それはあくまでも個人的な範囲で納めるならばという条件付です。このような場でしかも他者が関与した状況でそこまで自説を強弁されるのでしたら、他者の回答を無視される代償として、また少なくともその推理の素となった資料などをきちんと示すべきです。
私はそのような意味で先の回答の最後に、資料を希望されるのならすぐにその資料を提示しますと書いたのです。
今回の私への補足ともお礼とも知れないあなたの返事の中にも、明らかな定説(さすがに史実あるいは真実とまではいいません)を無視した内容が多く見受けられます。もしあなたが一休和尚の少なくとも二次的資料程度に目を通されているのでしたら、こんなことは書けないだろうなと思うわせる箇所も多々あります。
あなたの一休和尚への思い入れというか、自説へのほれ込みようは何となく感じ取れますが、残念ながら発表の場を間違えましたね。正直歴史にロマンを感じた推理というより、たんにストーリーテラーになっていますよ。
最後にあなたへの反論というかお返事の論拠となった、私が所有する資料を記しておきますね。
「一休の詩と生きざま」 舟木満洲夫 近代文藝社
「一休」 副題 応仁の乱を生きた禅僧 武田鏡村 新人物往来社
あなたが自説とされている母への確執めいた内容が記述されています。また天皇落胤説にも詳細に記述されています。
「一休」 副題 逸話でつづる生涯 安藤英男 鈴木出版株式会社
「一休」水上勉 中央文庫
一休和尚の少年期の生活が詳細に描かれています。とても餓死するほどの生活ではなかったことが理解できると思います。
「一休和尚大全」 上下巻 石井恭二 河出書房新社
一休和尚の歌や詩の完全収録板といっても良いかと思います。
「一休伝説」 岡松和夫 講談社
「人間一休」村田太平 潮文社
「一休和尚傳」 高島米峰 杏林社
以上3冊は小説の類です。
とここまで書いて送信しようと思ったら、一番新しい回答者さんへの自己反省的な文章を目にしてしまいました。
「なんだ、けっこういいやつじゃないか」というのが私の偽らざるあなたへの新たな感想です(笑)正直「ちょっとへこませてやれ」的な書き方だったんですが、一応私も年甲斐も無くということで自己反省しますね。
まだ若い人のようですから、とにかく本を読み倒していろんなことに疑問を持つような感性を常に持ち続けてください。って、手のひらを返すってこういうことを言うのですよ。年寄りってずるいでしょ(笑)
最後の一文で、僕のヘコんだ心は救われました。ありがとう。。
一休の歴史、資料は、ほとんど読んだことがないので、
この際、それらを読んでみて自分の理屈に穴が無いのか調べて見たいと思います。、
もし、それでも理屈の穴が見つからないなら、もう、一度、ここでそれを証明したいと思います。
僕自身は、KITAIKKIさんの言うように、ストリーテラーみたなものです。実は、ここに投稿する前から、一休の妄想を物語にして、ネットにあげていたのですが、誰にも相手にされなくて・・・
真実として信憑性があるとは、自分では思っていても、誰も信じてはくれません。
それが、悔しかったのです。
ぜめて信じてくれなくても「面白い」って言って相手にしてもらえることを
僕は期待していました。
その寂しい気持ちが、僕をここに、連れてきました。
・・・いけない。。。涙がでる。。
僕は、、ただ、、寂しかったのだと思います。
現実でもネットでも、誰でもいいから、僕の相手をしてほしかった。
僕の存在を認めて欲しかった。
KITAIKKIさん、
あなたのお陰で、僕は、僕の本当の気持ちにようやく気が付きました。
今まで感じてきた虚無感をフッキルことが、できそうです。
どうも、ありがとうございました。。。
No.7
- 回答日時:
この場合の歴史は、一休さんの一生の中の事柄ですね。
それは、一休さんの若者時代のことがらであるということだと存じます。いろんな伝説が伝わるお方ですので、そういうことの真実がもっとわかるといいですね。
それは禅僧の理解にも繋がるでしょうね。期待しております。かちまけは拘りません。
歴史の書き換えもよろしいと存じます。
私においては、一人の独特な若者のエピソードでしかありません。
申し訳ありませんね。紐解く必要を私は認識できませんでした。
僕は、熱くなりすぎました。
ケンカ腰になっていました。謝らないといけません。
僕自身、歴史を紐解くつもりは、そもそも在りませんでした。
物語にロマンがありそうで、一休の人生を追かけていたのです。
質問をすれば、皆が妄想して楽しんでもらえるだろうと思っていました。
でも、krya1998さんにの回答を見て、はっとしました。
僕は、気が付いていなかったけど、本当は、歴史の紐を解きたかったのです。。
ロマンが現実であって欲しいと強く願っている自分が、いつのまにか居て、
それが原因で、あんな挑戦的な文書いたのだと思います。
そのことは、懺悔しないといけませんね。
では、精神的に重くならない懺悔行きます。・・・m(。≧Д≦。)mスマーン!!
No.6
- 回答日時:
一休さんも、臨済宗も、そして仏教にも疎いものですが、予ねて読んでいる西郷と僧月照の話しなどを連想しております。
はっと息を呑む、息を止める偈などが伝わる臨在のご修行なんですね。
そういう世界や当時の状況に置かれている、一休さんの境遇も考えるのか、それを捨象して考えるのか、当時のそして一休さんの二十歳という歳をどうみるか。
悲しみ慕って死ぬ事は、事、仏教修行のことでは考えられないし、母に会いにいく人間が、母にどう扱われたかでは死ぬ心からは遠いのではないか。
母の俗界の未練があるとか、どうとかのお話も考えるのに疲れるだけですね。
切腹は手軽ではありませんが、入水よりは確実(状況では)ですね。
手軽と確実は異なりますが。
師僧への殉死ということも無理なことと存じます。
禅僧は常に自己を死んでいるのですが、二十歳はどうなのか。
師僧の死を悲しむ事は、禅僧としてはありえないが、二十歳は無理かな。
臨済の禅僧という線上の死への迷い込みではないようですね。
西郷さんと月照とのことも参考になりませんね。
多分、若い、そして特殊な境遇のインテリの迷い込み的衝動ではないのでしょうか?
乾屎橛(しけつ)、これは臨済の方偈でしたかね。曹洞の方もネットには書いていますが。禅僧は極めた言葉を吐露しますね
一休さんの後年のおことばはそういうものですね。
二十歳はまだ、無理で、若者でしょうね。
普通の若い人生の一齣とみておいていいのかと存じますが。
つまり一休さんの成長の過程の一齣だと存じます。
意味や後年の一休さんを理解するためとしては、それだけのことだろうと存じます。
(乾屎橛(しけつ)の字がでませんので、便宜に下に貼り付けます。このなかのくそべらをいいます。漱石の草枕にもありますね)
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%8 …
この回答への補足
僕は、歴史を紐解いているんです。
僕の仮説を理屈で否定してみてください。
それが出来ないなら、僕の勝ちです。
僕が勝つということは、
歴史の記録自体が間違っているという証明になってしまいますよ。
No.5
- 回答日時:
一休和尚に関する伝記、研究書、全集、そしてご本人の書き記した書物などの資料は現在では相当な数にのぼり、これからもさらに増えていく可能性もありますが、質問にある和尚の入水事件に関してはそれほど詳細に追求した資料はほとんど見当たりません。
これは何を意味するかといえば、当時の事件に関しての資料に乏しいからといった理由などではなく、それほどとりたてて扱うほどの事件ではなかったという意味に捉えられるからです。私が所有する幾つかの資料ももちろん入水事件のことには触れてはいますが、ほとんどが2,3ページ程度の扱いであって、その傾向としては若かりし頃の過ちとか、若気の至り的な論評がほとんどです。
その内容ですが結論から先に言えばあなたが見たサイトの、母親に邪険にされたことの絶望から入水しようとしたというようなことはなかったと言えます。論拠としていくつか上げますが、その前にこの入水事件に関してかかれた著述のほとんどが、一休の嗣法墨済禅師が遺した「一休和尚年譜」を出典としており、この話も墨済が一休本人から教訓を込めた若い頃の失敗談として直接聞かされていることとして、後世においてなんら疑いの余地のないものだということを強調しておきます。
21歳(どの資料にも20歳という記述はありません)のときに謙翁宗為和尚が亡くなり、心の支えを失った一休和尚は精神的に虚脱状態に陥りました。一休和尚はなんとかその心の乱れを解くべく西金寺を出て清水寺に参籠をしようとしましたが、あいにく清水寺は大晦日から正月15日までの断食通経に入っており、寺の掟により他者の立ち入りは禁じられました。そこで一休和尚は寺からさほど遠くない地で隠遁生活をしていた母のもとを久方に訪れ長の無沙汰を詫びています。
その後再び清水寺を参詣し大津の宿場まで出向き、そこで宿場の者の善意に預かり石山寺に辿りつきます。寺の観世音菩薩像(石山観音)の前に立った一休和尚はそこで7日間の間経を読み香を焚き、自身の禅宗への修行の意志の固さに一点の曇りもないことを祈念しています。
これは師の死に際してその失望感や虚無感と共に、それによって自身が平常心を失ったことへの諫めと、一層の信仰心を奮い立たせるためだともいわれています。そして入水のその日、一休和尚は遠く瀬田橋まで歩き、湖水に身を投じようとしてある者からかろうじて止められたということです。
一休和尚の入水の原因は何かといえば、これには諸説があり、一つには謙翁和尚の死による厭世の気持ちから、または自身の信心への疑念からここで入水してもし命が助かるようであれば観世音菩薩の加護を得られたということで一層の修行に励み、万が一死なば来世にて必ず志を遂げようという、そんな一種の捨て鉢な賭けに出たという説がありますが、そこに母の存在を匂わすような記述をした資料はまず見当たりません。いずれにしても一休和尚の入水は未遂で終わりました。
では一休和尚の命を救ったのが誰かということですが、これはあなたもご存知のように一休和上の母親が遣わした手の者でした。自分の元を訪れた我がこのあまりの憔悴ぶりをみて、もしかしたらという気持ちから自分の手の者を遣わして我が子を見守らせたということでず。このことを見ても、一休和尚が母親の冷たい仕打ちに絶望したあまり死を選んだという推測は成り立ちません。
さらに母親が将来的に我が子に皇位を継がせようという野望を持っていたということですが、庶民の生活に身を落とした母親はその後も細々ながら我が子一休和尚との交流を続けており、一休和尚にしても母に読んでもらおうと書いた、あの有名な「仮名法語」や「水鏡目なし草」などが残っていることからも、とても通常の親子関係ではなかったとはいえ、母子の縁が全くなかったということはまずありえません。ふたりは当時の二人の境遇で出来うる限りの愛情を、お互いに育んでいたことは間違いありません。
さらにいえば後小松天皇の後を継いだ称光天皇の病気中、彼に世継ぎがないことが問題になり、健在であった後小松院(後小松天皇)がひそかに実子一休和尚を宮中に召し後継を下問しましたが、一休和尚は即座に伏見宮家の親王彦仁王を推挙しています。
また後小松天皇の臨終に一休和尚が赴いたことによって、天皇の後継問題が…、ということですが、後小松天皇は建前上の第一皇子である實仁(称光天皇)に生前譲位しています。したがって隠居した後小松院(後小松天皇)と面会したとしても、すでに天皇は他にいたのですから別にお家騒動的なことは起こるはずもありませんでした。
以上のようなことからも、この母子には権力への欲求はまったくなかったということが分かります。一休和尚の母は臨終に際し遺言を遺しておりますが、それは「俗世に眼を向けることなく仏の道に一心に仕えよ」という言葉で終わっています。あなたが言われるほど権力に執着していた母親であれば、死の間際にさえも、いや死の間際であるからこそ、我が子を天皇になさせえなかった無念を書き残していたのではないでしょうか。
長々と書きましたが、もしこれらの記述の出典がご希望でしたらすぐにお答えします。またすでにご存知である事柄も多々あったと思います。重複をここでお詫びします。
この回答への補足
なぜ、一休は、自殺未遂の後に、厳しい餓死するものの場所へと身を投じてしまうのでしょうか。
師のいた西金寺なら、一貫的な、もう少し、楽な生活ができる環境があったと思います。
一休の生前の言葉の中に、僧を否定するような、言葉が沢山あります。
当時、僧は、誰からもあがめられるような、今で言う芸能人みたいな立場にあった。
それは、あらゆる欲を我慢することが、美徳と考えられていた。
でも、一休が、僧を否定するようになるのは、世間が考える僧と、実情が違ったからではないか。。
その根拠となりえる文面がいくつかあります
「8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ
「さぁ追い出して下さい」と告げ、
ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。
>>>
一休は、この頃から、物事に疑問をもち考える習慣がつくようになった。。
その行動力が、頓知と言う形になった。でもそれは僧の反感を買うものばかりである。
このことから、一休が僧を強く否定する理由が隠れていると思われます。
寺には、恐らく他の子供預けられていたでしょう。
僧の見習いとっても所詮は子供、いざこざがある。
でも、自分は、好きでここに来たわけじゃない。。
一休には納得がいかない。「どうして?」いろいろ考えても逃げ場所はない
でもその考える習慣がへ理屈を生み出してしまった。
へ理屈は上手くいったのでしょう。知能争で、優位に立てることで、
ストレス解消していたのかもしれない。
ある意味、頓知は、反抗期ともいえる行動である。
仮説に過ぎませんが、その後の一休の人生と絡めると信憑性がでてきます。
後の行動から、“禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべき”“
悟る必要はないということを悟った”とも言われている)。
>>>この文面からも察するように、
僧は、信念を貫くことにより、過ちが起きてしまう。ということを悟ったのです。
だから、一休から、この言葉が出てきたのだと思います。
強すぎる欲求と信念は、対立の元となり争いを生みます。それが、後の2度目の自殺の理由になってきます。
話を戻しますが、この思想に至るまでに、
何か、ケンカの様なことがあったのでしょう。そして、自分の信念を貫いて、苦しむ僧でも見たのでしょう。
僧達は常に意味のない信念を追求し続けて、人生の無駄な時間を過ごす。
それを一休が悟ったからこそ、戒律を作った可能性があります。
その戒律を広めるために
一休があえて、酒を飲み、女とはべることを世間に公表し注目を浴びた。
当時の常識では恥ずかしく、隠すべきなのですが、
それをしたのは、僧でも、普通の人と同じである。
と、いうことを判って欲しかったのだと思います。
もしかしたら、8歳の時に世話になった僧が、影で、物欲していたのかもしれません。
証拠はありません。一休も人のプライバシーに関わることは、記録として残せません。
でも、強い信念が無い限り、自分の愚考さらけ出すことはできない。
単なる馬鹿な行為で無いからこそ、一部の僧の人気を集め弟子ができた。
そして、2度目の自殺事件の時です。
一休は、独自の戒律で、同士と言える僧を集めていました。
自分の信念が正しいと思って生きていたはずです。
もっと、自分の信念を広げようとします。
ですが、信念の対立で、同氏達は、信念の通じない僧から、自殺に追い込まれます。
僧侶の世界に絶望した一休は、自殺をするのですが、
自殺の強い意志となったのが、自身で戒律を広めたことに対する罪の意識となります。
自分の信念自体を否定しなければならなくなった、一休は、自殺衝動にかられるのですが、
意味も無く死ぬのでは、悔しかったんでしょう。
自分には、信じてくれる弟子がいる。
その弟子達に、信念を捨てて、僧を止めろとは言えない。
だから、信念を捨てさせる為に、恐怖を弟子に与えようとした。
一番、長く死の時間を見てもらうために、断食に挑戦した。
まあ、食欲自体もないだろうから、調度よかったのかもません。
けれど、時間をかけすぎた結果、説得されてしまいます。
続きは申し訳ないが、お礼の所に書かせていただきます。
最初の自殺事件に話を戻しますが、
僧は世間上、現代の芸能人という位置づけとなると書きました。
政治の分野に飛び出すには、格好の売名行為となってきます。
大衆の知名度もあがり、天皇の子であると世間に明るみなる可能性も高い場所です。
母が、もしも、本気で一休を天皇にさせたくないのなら、
寺に預けるのでは無く、むしろ、農民に預けるべきなんです。
このことから、一休は、最初から母の陰謀で政治の道具として扱われた可能性が高い。
母は天皇に嫁いだものの、周りから苛められた。
そして、貧乏にされて、半ば捨てられたらしい。。。
と、いうニュアンスの文章が書いてあったのですが、
普通の人なら、プライドはズタズタです。
一休を利用して、政権を奪い取ることを考えるのは、むしろ自然。
だが、一休は、天皇にはならない。
一休が母の要望どうりに、天皇にならなったのは、天皇になっても社会が変わらないことを悟ていた
のではないでしょうか。。。
自分の信念を一般に広めるほうが確実だったんです。
自戒集』(62 歳)・『骸骨』(64 歳)・『狂雲集』
>>文面で・・・察するに
マトモ人間が読むと恐怖したそうです。
恐らくその文章には人間が欲を求める結果、悲惨な結末になるという
恐怖文集が書いてあったのではないでしょうか。
例えば、侍は、遊びで、人を切とか、レイプするとか・・・書いてあったのだと思います。
見たこと無いですけど・・・
これを用いれば、真面目な人間にとっては、恐怖しつつも防衛策を練ったり、
心構えを得ることが出来ます。
一休にとっては、真面目な人にこれを広めることが、不幸を避ける一番の近い道と考えた。
そうでないなら、ファンは獲得できない。
まだ、書きたいけどスペースが・・・
No.4
- 回答日時:
七日間の参籠はここから
京都の西山の西金寺
で、大津の石山観音で、七日間籠もったが悟れなかった。
京都からわざわざ大津に行っていることは確か。
母に会いたいのであれば、わざわざ大津に行く必要はない。
当時の上層公家や武家では、実母との関係が薄いのが普通です。時代的には平安時代になるが、そのへんの心情は
山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)
このへんに詳しい。現代人の母子意識から推測するよりも、平安時代の母子意識から推測する方が、室町期の母子意識に近い。
室町期以降でも、秀吉の母子感覚が現代人の近いのは、彼が庶民の出身であるかと言われています。
単純に放浪で流れて、ドボン死を選ぶような人が、歴史に残るとはおもえません
↓
西郷隆盛も、入水自殺未遂です。
一休の場合、七日間の参籠のあとの入水で、放浪ではないですし。
この回答への補足
7日こもったとして、一休が、どんな悟りを開いていたかは判らない。
母に会いたいという、危険で不順な気持ちに懺悔しに来たのかもしれません。
要するに、母の夢を叶えたい気持ちと、母に甘えたい気持ちの葛藤をしていたとか。。
そもそも、母に会ったことは世間には公表できない立場の人間です、
天皇の子であることは、伏せないといけない事実なのですから、
7日、こもったという歴史の記録そのものが嘘である可能性もある。
>>>、平安時代の母子意識から推測する方が、室町期の母子意識に近い。
これは100%間違いです。
へ案時代は、女が男を選ぶ社会ですから、
天皇に嫁ぐとは次元が異なります。
詳しくは、
回答者、KITAIKKIさんの場所に補足で書いてあります。
以下は、書ききれなかった残りの推論です。
>>>>
このことから、一休は、アニメの様なお笑いのような人生は一切歩んでいないと思う。
僕が思う世間の認識は、大きく間違っていると、どうしても思えてなりません。
こんな壮絶な人生を歩んだ一休が、通称森侍を死ぬ気で愛せるのは、
森侍の壮絶な人生を推理したからではないでしょうか?
盲目の女が、どうして一人で、生きてこられたのか?親は死んだのか?捨てられたのか?
身売りされてしまったのか?
盲目で付き添いなし森に来るのは、自殺行為にほかなならない。
それだけの、覚悟があって逃げ出した・・
一休にとっては、カルチャーショックだったのではないでしょうか?
自分が長年、悟りを続けて葛藤していた苦しみと、比べたら、同情せざる終えません、また、森侍にとっても、
自分の苦しみを理解してくれて助けてくれる人は、そうそう居ません。
だから二人は、僧侶達から、公認されてたのではなかろうか。
決して、僧侶達が欲物精神からではないと思います。
僧侶は、「自戒集』(62 歳)・『骸骨』(64 歳)・『狂雲集』で悲劇の可能性は知り尽くしている。
一休の事例は、安全で悲劇が起こることはないだからOKということになったのでしょう。
死後残された「大丈夫、心配するな。なんとかなる」という言葉は、
自分の歩んだ人生と、森侍が歩んだ人生を元にした言葉で。
たとえ、どんなに苦しくても、いつかは、幸せにたどりつく。だから、心配すんな・・・
ってな感じが言いたかったのでは無いでしょうか?
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