出産前後の痔にはご注意!

「奥州の覇王、独眼竜」こと伊達政宗についてですが、彼については小説はゲームなどではよく聞くのですが、実際のところどうだったのでしょうか。Wikiだけを鵜呑みにするのはよくないと思い、投稿しました。できれば武田信玄や上杉謙信、信長や家康などの戦国大名と比べてみてください。 また彼が20年ぐらい早く(氏康や謙信、信玄が健在)生まれていたら天下を取れていたのか否か、またその根拠を述べてください。

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A 回答 (7件)

東北地方は、あの広い面積で、200万石です、太閤検地のとき。

秀吉政権後に、家康が関東開発して、石高を増やしますが、政宗や最上なんかも、家康の真似して開発してますので、中央や東国の諸侯との交流からもたらされたものであり、政宗が単独で東北を平定開発は不可能です、人材もいません。

伊達は、近隣の諸侯の親戚化(乗っ取り)で勢力拡大しており、武力平定したものではない。関東や越後勢に武力で決戦できるチカラは、ありません。

ちなみに、小田原の北条は、末期に農民も含めて10万くらい総動員できており、支城・本城とも固く、遠征実績のない伊達が関東に攻め込むのはムリでしょう。

東北は、実は北東北のほうが強いんですよ。最上、本庄、安東、戸沢、大浦、南部、九戸など。石高が低いにもかかわらず、伊達は北を攻めてない、後背地になるにもかかわらず。

伊達の天下は現実を無視した妄想にすぎません。
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最上・大崎に負け、本庄に負け、佐竹に負け、幼君の蘆名に一時は撃退され、蒲生に一揆煽動は撃退され、南部にも一揆煽動が撃退され、自軍の10分の1の毛利勝永・真田信繁に負けています。

伊達政宗は過大評価の塊ですね。
とても天下を獲れる人とは思えません。
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米沢から根拠を黒川に移す、岩手山に移封されるも仙台開府を願い出るといった行動を見ると、兵站や経済に対する感覚もだいぶいいものがありそうですよ。


ただ当時の長躯遠征の食料調達は、大商人が大きく働いていたらしいです。となると経済的に豊かとはいえない基盤・東北の貨幣経済浸透の遅れ・流通網の弱さ・余剰生産物の少なさ(戦国期は二毛作が進んだ時代でもあります)といったことを考えると、誰であろうと東北地方での長躯遠征は不可能であったかもしれません。
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伊達家の本願の福島県伊達市のものです。



伊達政宗は確かに一流の武将ですが、超一流ではありません。まず、いくさがそんなにうまくありません。伊達の兵は東北でも強兵ですが(ということは越後や甲州の兵と同等ということです)、関ヶ原時、上杉領となっていた旧領の伊達、信夫郡に兵を入れますが、撃退されてます。景勝相手に勝てないようでは、謙信公となんてくらべられません。

その人となりは、秀吉と同質のはったり屋ですね。謀略系の人間です。その能力だけでは天下はとれません。黒田如水ってとこか^^。

まあ、田舎の良家(奥州探題の家柄)のわんぱく小僧で、グルメなファッションコーデュネーターってところですかねえ、今なら。
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質問者さんも、たいへんお好きですね。

人物以外の背景等、個々を具体的に調べてみるのは、なかなか、するめをかじるように味が出てくるようですよ。お勧めします。
さて、20年早く生まれていたらもっと苦労したでしょうね。それより、東軍に組したことは早計だったのではとおもいます。ここは2枚舌で奥羽に深く家康を誘って、上杉との挟撃を模索していたらとおもいました。ただし、家康は折込済みでしょうけどね。家康以外、戦国の風情というか貫禄を持った武将はこの当時他に見当たりません。多くの武将が付いていったことをみても、歴然でしょう。唯一、その状況を変えれたのが上杉討伐だったような気がしました。このまま勝組に乗って、歳の家康の死期は遠くない、権力側についてチャンスを待つか、どさくさにまぎれて、亡き者にするかの判断だったようにおもいましたけど、どうでしょうか。伊達は戦費を補う財力面が他国同様貧弱ですから、信長のように、季節を選ばず、いつでもOKというような戦い方ができない、智謀だけでは、ちょっとしんどい。策を行うものは策に落ちるというでしょ、徹頭徹尾正面からという戦い方をどう構築するか、このことを、信長はウツケとよばれていたころから、ガキのケンカに精を出していて学び、親父の苦労の中の死の原因は何なのかを研究していたと思いますね。盟主と盟友との関係では(どこの国でもそうですが、いちいち同意がいる)、機敏な動きは期待できません。旧態依然のままで、臨機応変は望むべきもなく(とても乱世を生き抜けない)、はじめの一歩がぜんぜん早いことは、とても有利だということです。伊達の軍制は古いほうの部類で、彼の政治的才覚だけでもっている部分がおおいでしょ。F1を調べてみますとセナ時代のセナに対して、勝つには何か足りなかったシューマッハのような位置のような気がしますね。相手の槍より先に相手の胸を突き破れば勝ち(三間半長槍)すべてこの考え方、とても単純な原理を単純にやってしまった。身内でさえ付いていくのがやっとですから、初めの頃は7百や8百の直属の馬廻り兵で、勝ち抜いていますね。会議がいらない、たとえ数が、少なくても、スピードで補う、それは、家康や秀吉もションベンがちびるほど、斬新で画期的なものだったんでしょ。戦闘(個々の殺し合いが強くても)戦略で勝つ者が国を治めるものでしょう。いくらパーホマンスがよくても、どうにかなるレベルではないでしょう。副将軍になったんですからね、よかったですよ。、地勢天勢人勢
なんでしょうね。

この回答への補足

そうか。確かに天下を取るには戦略で勝負しなければいけないですね。戦国大名としてはそういうのを評価するべきなのかな?武勇一辺倒や知謀だけなのも考え物か。もっと大局的に物事を考えないといけないのだろうね。 
そう考えると伊達政宗は天下を取るほどではないのかな。危機を切り抜けてはいるが、結果的には良い方向に転んでないような気もしました。回答にあるように「策士策におぼれる」印象は確かにあります。
あとは彼の戦の結果などを見て決めようと思います。Wikiを参考にするつもりですが、何か補足があるならお願いします。

補足日時:2009/10/20 22:04
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この回答へのお礼

kimari14さんには何回か回答していただきました。いつものことながらkimari14さんの回答は何か芯に迫るような感じがします。アドバイスされたように、今度は実際に戦国時代の武士が陣中でどんな感じに過ごしていたのかを調べてみようと思ってます。当時は風呂なんて普通の人があまり入れるもんじゃなかったと思いますし、ましてや戦争中。そんな中で一ヶ月も二ヶ月も待機してるなんて地獄じゃないかと思います。

お礼日時:2009/10/20 22:21

大崎一揆の扇動で絶体絶命の危機だったところをすり抜けたりしていますから、その政治力は並大抵ではなかったと思います。

また人の良い人が多い東北人で例外的に陰謀家であったことも間違いないと思います。
ドラマやゲームでは晩年期での登場にでもならない限りイケメンになるのがお約束ですが、実際は病気のせいで相貌はよろしくはなかったようです。
また、人取橋の戦いや小田原参陣など、普通であればそこで運が尽きる場面で運に助けられるなどとてつもない強運の持ち主であることも間違いないと思います(信長も桶狭間で今川義元を討ち取るなど歴史に名を残す名将は必ずと言っていいほど運の女神にえこひいきされています)。

ファッションセンスは謙信公や信玄公をおおいに上回っているでしょう。現代でも通用するセンスで、これは比肩しうるのは信長くらいです。
もっと早く生まれていたら、それはもうわからないですね。ただ、信玄公や謙信公の時代は日本全国どこでも長期作戦を取ることが不可能な時代でした。謙信公や信玄公も作戦期間はほとんど半年以内、氏康公の北条軍に至ってはほとんど地上げ屋なみにちょっとずつちょっとずつしか領土を広げていません。関東甲信越より社会制度が遅れていた東北ではさらに困難だったと思われます。どちらにせよ東北は雪深いしね(謙信公は冬季は関東に出兵していました。年がら年中出兵に付き合わされるので叛乱が絶えませんでした)。

この回答への補足

僕は謀略家としてかなり優秀だと思います。何回か一揆を煽動して発覚しては危機を何どもすりぬけているところから見ると、世渡りが上手だったのかな?武将としても中々優秀だったと思いますよ。奥州で一番手の位置にいたみたいですからね。
ただ一勢力の長としてはあまり評価してませんね。確かに強運で生き残りもしたが、もし悪い方向に転べば自滅の可能性もあったわけです。最悪一家皆殺しになったかもしれません。生き残ったとはいえそういう姿勢はあまり評価できたものではないでしょう。小田原の参陣の時はどのみち秀吉に服従するほかなかったと僕は思います。それでもかなり優秀な人物であることには変わりないと思います。ですが3代将軍家光の代まで生きて、家光の後見人?みたいな位置づけにいたからにはクーデターでも起こしてほしかったですね。

補足日時:2009/10/20 21:05
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/20 21:54

彼の独立した最大の戦いというと


摺上原の戦い。
で、同等の戦力、敵の主将は14歳。
文禄の役で朝鮮半島に渡っていますが、これといった話は聞かない。
関ヶ原の戦いでも、対上杉で主戦していない。
大坂の陣ではそれなりに戦果を上げている。

これから考えられるのは、天正・慶長年間での戦争経験者が多くいた時代では、これといって特記すべき戦闘能力はなかったが、実戦経験者がほとんどいなくなっていた大坂の陣では、相対的に戦闘能力が高まった。
この程度ではないでしょうか。

20年早かったら、父親の輝宗とどうような立ち位置ではなかったか。
理由は、上記の戦闘能力と、戦争のパターンが隣接地域への領土拡大に終始しているからです。その機会が無かったのかもしれませんが、
信長の京都入り・石山本願寺
元就の月山富田城攻撃
謙信の小田原攻め
などなど、長躯・長期遠征を実施していますが、政宗にはそれがない。
策源地から遠距離での戦闘を続ける能力は天下取りには必須の能力だと考えます。

この回答への補足

やはり実績や経験がそれほどなく、はっきりと推量するのは難しいのかな。戦国大名というには少し遅すぎたのかもしれません。東北という場所も天下取りレースには深く関わってこなかったのかも。しかも若いうえに隻眼、これは小説や漫画の主人公が似合うでしょうね。その分IFもついつい考えてしまう武将の1人だと思います。最終的な評価はもうすこししてから決めようかなと思っています。

補足日時:2009/10/20 18:31
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この回答へのお礼

最初の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/20 18:56

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