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歴史の授業で疑問に思ったことを質問します。
江戸時代の武士と農民の違いは何なんでしょうか。
武士は武器を持っていて、農民は持っていない。
農民は農業を営み、年貢を納め、武士は年貢を納められる側。
このぐらいしか分かりません。(↑も合っているか不安です・・・。)
それから、この二つの身分はどこでわかれたのでしょうか。
秀吉のときの兵農分離でですか。
それでは兵農分離のとき、その前に定められた制度(名前は忘れましたが、確か自分の耕している土地は自分の物になる、というようなものだったような気がします。)によって、土地を持っていた人が農民(百姓)で、その前に支配していた人が武士なのでしょうか。

長々とすみませんでした。

A 回答 (2件)

明確に武士と農民が別れたのは、兵農分離のときでしょう。

でなければそもそも木下藤吉郎が豊臣秀吉まで出世できるわけがありません。

他の方の回答にあるように、農民(自作農民)が出来たのは墾田永年私財法の効果です。これにより農民が自作耕地を守る為に武装化していき、武士が発生します。
つまり当初は農民=武士だったわけです。

それが鎌倉・室町に公的権威(守護・地頭など)になることによって、支配階級化してきたのです。
ですのでこの時代には皆同じ農民出身だけど、納税者と収税者に別れてきていたのです。しかしまだ非常に不安定な状態だったといえます。
これがはっきり分離するのが戦国時代の後の太閤時代で、そう考えると各地に興った武士階級の天下取りへの参戦は、室町まで残っていた公家の権威がまったくなくなったので、空いた席に座れば日本一、という戦乱だったといえ、だから日本各地に無数の木下藤吉郎がいたといえるでしょうし、織田信長が平定するまでは「加賀は百姓のもちたる国」と言って、地域運営に農民の力が非常に強く出た土地であったようです。

しかし太閤時代・江戸時代になっても完全に兵農分離したとはいえません。実際、もともとの出自はみんな農民で「自分は本家筋で農家を継いだけど、3代前の次男坊は殿様について戦功を上げたから、うちの分家は武士だ」などというのがたくさんあり、じゃあ本家の三男坊は勉強も良くできて持ったいないから、「うち(分家で武士)に子供がいないから養子に来てもらって後を継いでもらうか」などという例もたくさんあります。
そうなると農民の本家が代替わりすると「うちの弟は、養子行って武士だ」となり、もともと同じ血筋ですので、武士と農民が分離している印象がありません。

これが江戸のような都会になるとお金で御家人株を買うということいつながっていくのです。
つまり当時の日本人の意識では、たまたま殿様について戦って居残ったら武士、農地を守ったら農民、という程度の意識しかなかったのだと思います。
それが証拠に、明治になって四民平等になったらあっという間に身分制度がなくなってしまいました。

これは西洋の民主化(いまでも上流階級だけのサロンは残っている)やインドなどの平等化(法律上は平等だがカースト制度が色濃く残る社会)に比べれば、実にあっさりと身分制度が崩壊したように見えます。
しかし事実は、身分制度が崩壊したのではなく、元々強固な身分制度など無いに等しかった、のが正解なのだと思います。
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自分で耕した土地が自分の物になるのは墾田永年私財法です。

武士の誕生はその後の時代です。武士と農民の身分の違いは武士が登場した時点で既に発生していたのでは?つまり、支配するのが武士で支配されるのが農民。秀吉の兵農分離は農民や商人が武士になったり、武士が農民や商人になるのを禁止することで身分を固定化して武士とそれ以外をはっきりと区別して武士の支配下に置くというものです。そんなに難しく考える必要はないのでは?江戸時代の身分制度だって厳格なものじゃなくて、御家人株を購入するといった手段で町人身分が武士になったりしたんですから。新撰組だってほとんどが武士じゃない人たちでした。
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