徳川幕臣のうち、桐の家紋を使用する家は全体の5分の1にも及んだそうですが、他ならぬ徳川将軍家は天皇からの桐紋下賜を辞退していますし、桐紋は徳川家と対立した豊臣家の家紋でもあります。そういういわば徳川向きではない家紋を徳川家の家臣が使用することに関して、幕臣の間に躊躇いや矛盾を感じることはなかったのでしょうか? 家紋は先祖代々のものだから…といっても、他にもいくつか家紋を持っているのにわざわざ桐紋を定紋として幕府に届け出た家が多数あります。
また、wikipedia百科事典の「桐紋」の項には、「徳川家は桐紋の下賜を辞退したが、家康個人は大御所時代に桐紋を使用したことがある」というような記述がありましたが、何かそれを証拠立てるようなものはあるでしょうか?
実は私も庶流ながら桐紋を使用した幕臣の末裔なので、自分の家紋と家康公を尊敬する気持ちがどうも矛盾しているような気がしてすっきりしないでいます。御回答をお願いします。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
bungetsuです。
>>ところで、先の後藤家以外に、徳川幕府からどこかの家へ桐紋を下賜したという事例はあるでしょうか?
武士ではありませんが、国学者で医師の「本居宣長」五三の桐紋。絵師「円山応挙」葉っぱは桐でその上に花を三つ描いている。大奥女中「幾島」やはり葉っぱはそのままで五三の部分は、やや変形させている。
などがいます。
「幾島」は、正徳4年の「絵島生島」ではありません。幾島は幕末間近に天璋院(篤姫)の教育掛かりであり、朝廷との和解に尽力し、「桐紋」が贈呈されました。
>>天皇からの下賜を断っている時点で桐紋は徳川家の物ではなく、したがって自分の所有物でもないものを臣下に下賜するというのは少し不自然に感じるのですが。
確かに、おっしゃる通りですが、天皇家の「副紋」である「桐紋」を下賜されることは、この上ない「名誉」だったのです。
やはり、「三つ葉葵」は譲れないが、その次に「権威のある?」「桐紋」を下賜して喜ばせたのでしょうね。何かこう、天皇家の一員になったような「喜び」だったのではないでしょうか。
>>後藤家の場合にしても、豊臣家から認可を受けていたものを追認したというだけのことで、徳川家から直接後藤家へ桐紋を下賜したわけではないですよね。
前回に回答したように、家康は後藤家に関が原の戦いで、多大な「借り」を作ってしまい、後藤家には「恩義」があり、「命令」を控えたのではないでしょうか。
ありがとうございます。
実例を頂けると納得できました。幾島というのはあの大河ドラマで松坂慶子さんが演じていた人物のことですね。確かにあの人なら徳川家から紋を下賜されていれも不自然ではない気がします。
No.5
- 回答日時:
日本の家紋のルーツは太古にのぼり、ヘレニズム文化との関連性なども指摘されていますが、現代にまで伝わる起源は平安末頃と言われています。
その後、武士の登場とともに一族の印として、また戦場における所在の確認のために広範に普及しました。この家紋に新しい価値を与えたのは後醍醐天皇です。天皇の紋とされていた菊紋と桐紋を恩賞として用いることをはじめました。恩賞としてそれを与えられた、足利将軍家や豊臣秀吉もそれを真似て桐紋をその家臣たちに恩賞として与えまくっています。特に秀吉は太閤桐(五七桐)をデザインして濫発しています。質問者さまの言う江戸期の桐紋のほとんどは、この太閤桐ではない桐紋です。
徳川家康が桐紋を辞退した表向きの理由は、先祖を新田氏の流れであるとしていたため足利とは仇敵の間柄だからということになっています。しかし、桐紋ばかりでなく菊紋まで辞退しているので、本心は別だったでしょう。対足利や対秀吉などではなく、畏れ多くも対天皇を意識していたためと思われます。突飛もないと思われるかもしれませんが、彼は信長の行動から学んだのではないかと考えられますが、皇室を驚くほど軽んじています。この国で天皇を法で縛った(=禁中並びに公家諸法度)のは彼だけです。葵紋の権威アップに彼は非常な苦心をしています。
=よもやま話=
家康が今川氏から独立したときに、家系図を整え、清和源氏の新田氏系得川氏の末裔と名乗るようになります。本当かどうかはわかりません^^;
葵紋が松平氏のもともとのものかどうかも諸説があります。少なくとも、家臣の伊那氏や島田氏が使用していた葵紋を禁止しますが、本田忠勝のみは松平氏よりも本筋であるとして拒絶し、葵紋を使用しつずけています。
家康は愛知県の松応寺に父広忠の墓を造営しますが、その墓の紋は葵どころか一つ引き両(=新田氏の紋)でもなく剣銀杏(剣三つ銀杏紋)です。家康の廟所である日光東照宮の各所にも剣銀杏が描かれています。さて、家康の先祖はいったいなにものだったのでせう^^。
ありがとうございます。
おっしゃる通り、当家の桐紋は太閤桐ではなく普通の五七の桐です(豊臣家から下賜されたのではなく足利家から下賜されたので)。
徳川幕府が朝廷を完全に押さえ込んで、その力の及ばぬ政権を関東に樹立したことは、平将門シンパの私としては、神田明神を江戸の守護神として大事にしてくれたことと合わせて快哉を叫びたいところです。
そういう将門イデオロギーを持つ自分というのを考えても、ますます桐紋でいいのだろうかとしっくりしないものが残ります。
No.4
- 回答日時:
こんにちは。
NO1.のbungetsuです。
>>しかし、家臣への褒美に桐紋を用いたと考えれば納得はいきます。松平家の蔦紋などは桐紋の上部の花の部分を謙遜の意味で葉にしたものという説もありますが、それが正しいとすると少なくとも松平各氏は桐紋を尊んでいることになりますね。
正確な史料は、私の本棚のどこに「しまい忘れた」かみつかりませんが、
「紋」の起こりは、奈良時代頃で、当初は「七つ」位の紋所しかありませんでした。
ですから、源平合戦などでも、平家の白旗、源氏の赤旗のように、敵味方を区別する意味合いだけでした。
やがて、各家を表わす紋所に替わり、天皇家は「桐紋」を採用しました。
そして、NO2.の方の言われるように、足利家に譲られ、織田信長や秀吉が好むようになりました。
従って、徳川幕府としては、我が家の紋所である「三つ葉葵」は「永久欠番?」とし、それについで高貴な「桐紋」を褒美として下賜したと考えます。
また、確かに、あなたのおっしゃる通り、桐紋などでも、本家や主家にはばかって、丸で囲んでみたり、丸を外してみたり、その一部を変形させてみたり、と、多種多様に変化していきました。
「藤」紋にしても、「上がり藤」「下がり藤」などがありますよね。
度々ありがとうございます。
ところで、先の後藤家以外に、徳川幕府からどこかの家へ桐紋を下賜したという事例はあるでしょうか? 天皇からの下賜を断っている時点で桐紋は徳川家の物ではなく、したがって自分の所有物でもないものを臣下に下賜するというのは少し不自然に感じるのですが。
後藤家の場合にしても、豊臣家から認可を受けていたものを追認したというだけのことで、徳川家から直接後藤家へ桐紋を下賜したわけではないですよね。
せっかくお答え頂いているのに口答えするような文になってしまいすみません。他意はありませんので、またお答え願います。
No.3
- 回答日時:
こんばんは。
桐紋ですが、wikipediaにもあるようにもともとは菊紋と並ぶ天皇家の紋で大変尊ばれたものです。織田信長が足利義昭を奉じて上京した時に、義昭から副将軍か管領への就任を要請されてそれを断り、代わりに堺などに代官を置くことを認めさせたことは有名な史実ですが、その時に桐紋の下賜は受け入れています(ですから織田信長の有名な画像の紋は桐紋です)。足利尊氏が天皇家から下賜され、それを信長が足利家より再度下賜されているような形になりますが、あの信長でも桐紋の下賜を喜び、それを画像に描かせているのですから、桐紋は武士の間でも尊重されていたものと思われます。
家康がなぜ桐紋の下賜を辞退したかは不明ですが、桐紋は豊臣家独占のものではなく幅広く使用され、桐紋を使っていた家でもそれぞれ足利家や、織田家のように由緒いわれを持っているために、禁止する必要性もなかったのではないでしょうか。また、桐紋は本来天皇家の紋であるとの意識も強かったのではないでしょうか。
あなたの先祖にも桐紋の使用や下賜に絡んだ言い伝えなどが残っていませんでしょうか。
ありがとうございます。
私の先祖は足利将軍より桐紋を下賜されました(どの将軍かを書くと私の苗字がバレかねないのでそれは控えます)。
おっしゃる通り、織田家も桐紋を使用していましたし、それに続く豊臣家もそうですが、徳川家だけがその使用を拒否したということが、家康ファンとしては寂しく思うところです。葵紋のように桐紋を独占せず、これを我々足利家所縁の者が使う余地を残してくれたのだと考えればありがたい配慮ではありますが…。
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>徳川幕臣の桐紋使用について
(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。
(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。
(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を図り、他家での使用を禁止しました。
(4)ただし、本田氏のみが賀茂神社神官の出自であったため、徳川家の独占に対して、
「殿こそ、新田の出であるのであれば、丸に一の「一引紋」に変更されたらいかがでしょう」
と、断り、家康もそれにはさすがに「理の当然」と考え、本田氏も葵紋を使用することを許可しました。
(5)賀茂神社の葵紋は、(写真を添付してみます)。
そこで、徳川家では丸に三つ葉葵に変形させて、現代で言う「三つ葉葵」の紋を将軍家の紋所としました。
>>家康個人は大御所時代に桐紋を使用したことがある
次に、「後藤庄三郎光次」という人物を紹介いたします。
(1)秀吉の時代から、京都の後藤家が代々小判を製造することを許されており、秀吉の命で小判に「五三の桐」紋を入れるよう指示されていました。
(2)後藤庄三郎光次は、本家の後藤徳乗の次女で2歳年上の出戻り娘のお亀と一緒になり、婿養子として後藤家に入り分家をしました。
(3)庄三郎は冶金に優れた腕を持っていたため、本家の徳乗は、分家の庄三郎に大判、小判製造を分担させることとしました。
それに対して、庄三郎は以下のような証文を入れています。
1.大判の墨書き、刻印打ちは本家が行うことを守る。
(大判は本家のみで製造し、分家は大判には手を出さない)。
2.小判の桐紋(裏面)は子孫まで守り通す。
3.後藤の苗字は代々受け継ぎ、苗字の変更はしない。
4.黄金3枚を毎年本家に贈る。
5.これらに背いた場合は、小判製造の収入を残らず本家に返上し、役儀も返上する。
(4)慶長3年(1598)、後藤庄三郎は家康に請われて、関が原での戦いの軍資金の調達を命じられる。
(5)その後、徳川家康の時代となったが、家康は、後藤庄三郎に大きな借りを作ってしまい、また、後藤家では、秀吉以来の「五三の桐」紋を打刻することを守り通したため、家康は「葵」の紋の打刻を打診はしたが、後藤家が「伝統を守る」と言ったため、それ以上の命令という形での強制はしなかった。
(6)家康は遺訓に、「後藤の桐紋」と称して、
「後藤の桐紋、永代に渡って許すものなり」
と、言い残しており、
幕府も一時、
「葵紋の大判を与えれば、賜った者に恩賞効果がある」
との意見も出されたが、後藤家では、
「神君(家康)より許可された後藤の桐紋は変えるわけにはいかない」
と、反対したため、音止みとなった。
(7)従って、江戸幕府約270年の間に、幕府公認としての「葵紋」の大判、小判の製造は一切なかった。
ただし、金の産国を表すものとして、小さな丸の中に「佐」(佐渡)とか「石」(石見)を刻印したものはある。
(8)また、幕末の老中稲葉正邦の「淀稲葉家文書」に、慶応3年(1876)銘の一両コイン(丸い、現代の500円硬貨ぐらい)の企画図らしきものがあり、葵の紋を中央に配し、その周りに慶応三年と文字を巡らせ、裏面には六角形の中に「一両」、その周りに「量二文目二分五厘」の文字を巡らせたものを造ろうとした形跡はあるが、実際には製造されなかった。
この(8)は利光三津夫著(前日本貨幣協会長)の「古貨幣七十話」の第38話による。
多分、家康が使用したものは、この後藤家の小判のことではないかと考えます。
>>そういういわば徳川向きではない家紋を徳川家の家臣が使用することに関して、幕臣の間に躊躇いや矛盾を感じることはなかったのでしょうか?
前述のように、「三つ葉葵」は、家康以来徳川家が「独占」をし、その代わりとして、家臣などの「褒美」には「桐紋」を下賜したのではないでしょうか。
詳しいご説明ありがとうございます。
ではやはり、一度は後藤家に葵紋の打刻を打診したということは、本音では小判も桐紋を廃止して葵紋に変えたかったということですよね。
しかし、家臣への褒美に桐紋を用いたと考えれば納得はいきます。松平家の蔦紋などは桐紋の上部の花の部分を謙遜の意味で葉にしたものという説もありますが、それが正しいとすると少なくとも松平各氏は桐紋を尊んでいることになりますね。
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