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 このサイトでは、丁寧な回答をいただき、感謝しています。

 徳川家康(江戸幕府の初代将軍)には、母親が同じ兄弟がいたことは知られています(久松松平家)。しかし、父親が同じ兄弟については、内藤信成が「一説には」徳川家康の子であると言われているようですが、松平広忠(徳川家康の父)の公式な(表現は変かもしれませんが)側室の子は、知られていないように思います。

 松平広忠には、徳川家康以外の男子はいないものでしょうか(特に側室との間に)?もし男子がいるのであれば、氏名・経歴等の紹介並びに、そのことが分かる書物等の紹介(古文書の場合、閲覧方法や置いてある場所、可能なら現代語訳が書かれている本やサイト等も含めて)をいただけますと幸いです。

 なお、『ウィキペディア(Wikipedia)』の松平広忠や、徳川家康の項は見ています(同サイトによると、父親を同じとする家康の兄弟は男4人、女1人がいるようです)。同サイトのリンクや、同サイトの内容のコピー等は不要です。

 参考に、この質問をする「きっかけ」を記入しますと、昔読みました山岡荘八の小説「徳川家康」の中に、松平広忠に「お久」という(松平一族の息女の)側室が描かれていたこと。家康誕生と同じ頃にお久も子(記憶が間違えなければ男子)を産んでいることが描かれていることがあります。
 その後、松平広忠の愛情が於大(徳川家康の母親)に移った後は、(おそらく)お久も子供も登場していません。
 小説であり当然フィクションがあるでしょうが、明らかに架空と思われる人物を除くと、同小説には、実在したと思われる人物が多く、上の徳川家康の側室の子の存在の可能性を考えました。

 私は、仕事等の関係で、平日は本サイトを見ることが難しいです。御礼が遅くなることについて、ご了承ください。

A 回答 (4件)

広忠の側室(妾)の男子について、記録に見えるのは


忠政・エイ(木扁に穎)新・家元・内藤信成となっています
家元と信成に関してはWikiにも詳述されていますので省略させていただきますね
忠政(1541年生)とエイ新の二人は松平乗正(広忠の祖父信忠の従兄弟)の女・妙琳を母とする同母兄弟。
妙琳は於大の方の輿入れと共に岡崎城下から桑谷村に移り、そこで家康と同日同刻にエイ新を産んだとされています。その為に家康を憚って出家させられ、後に広忠寺の初代住職となったらしいのですが「広忠の子に忠政・エイ新と書き伝えたものはなくその母・妙琳の事も大給松平の家系に見えない」と否定されている(寛政重修諸家譜)そうです。また妙琳と広忠の年齢差が凡そ25歳前後だと思われる事や異父弟と待遇に差が有りすぎる事等から家康異母弟説は否定的な意見が多数を占めるそうです

以上、主に別冊歴史読本に拠りました。

この回答への補足

 締め切りが遅くなり申し訳ございません。

 回答をいただいた3人の方に感謝いたします。
 誠意ある回答に上下はないものと考えますが、ポイント制がありますので行使いたしたいと思います。
 20ポイントは、残念ながら補足の回答はいただけませんでしたが、私の質問趣旨に近い回答をいただいたNo.4さんに付したいと思います。
 10ポイントは、No.1さんに付したいと思います。

 ありがとうございました。

 

補足日時:2010/03/12 21:17
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなり申し訳ございません。
 
 どうやら「妙琳」が、小説「徳川家康」の中の松平広忠の側室「お久」のモデルのようですね。(私の記憶で申し訳ありませんが)同小説では、広忠に「女」を教えるために配された側室でもありましたから、年齢が年上であることは納得ですが、25歳年上となると、2子の出産の信憑性の問題がありそうですね。

 広忠寺が紹介されているホームページがありましたが(http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/kochuj …)、妙琳(お久)・エイ新・忠政の墓(とされるもの)が同寺にあるそうです(写真が載っていました)。家康の兄弟であるかどうかはともかく、当該の人物が実在はした可能性は高そうな気がします。

 もし文面にある「別冊歴史読本」がお手元にありましたら、当該号数や発売時期を補足いただけますと幸いです。ここ数年であれば、地元図書館で閲覧可能かもしれません。また別冊歴史読本の当該記事内容の出典やその他参考になりそうな情報(当該記事の著者等)についても、補足いただけますと幸いです。

 No.5・6・7は、何らかのトラブルがあったための重複投稿と思われますので、お礼は記入しません。ご了承ください。

お礼日時:2010/03/06 22:55

No.1です。

  訂正
康元と改名したのは、松平(久松)勝元でした。  異父弟の康元と異母弟の家元となります。   
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わたしの系図の読み方が間違っていなければ


正直と言う人がいたようです。
この系図が何を元に作成したのかわかりませんが。

http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/tokugawa/k …
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなり申し訳ありません。

 ご紹介のサイトを拝見いたしました。確かに、徳川家康の異母兄弟としか思えない部分にご指摘の人物が書かれていますね。
 左横にある息女2名については、書かれている嫁ぎ先に嫁いだ松平弘忠の息女がいることは何かで読んだことがありますので、家康の異母兄弟として書かれていると思うしかなさそうですね。
 サイトをざっと見たところ、他の系図を含め出典情報が一切なく、作者の自己紹介も(神奈川県が地元であること以外)ありません。推測ではありますが、No.1・No.4さんが取り上げた人物の別名だと考えたいと思います。

 このサイトは、系図以外にも面白そうな情報が満載ですね。後程じっくり見てみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/06 22:25

家康には大名になった異父弟、松平定勝がおりますが、他に異母弟、松平家元(のちに康元と改名)が居るといわれています。


足萎え(いまの小児麻痺)で歩けず、生涯人前には出なかったと伝えられています。
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなり申し訳ありません。
 ウィキペディアにも載っていた人物ですね。
 表に出てこなかった理由に説得力を感じています。出典はウィキペディアにもありますので、閲覧方法を考えてみたいです。

 No.3のご回答も拝見した上で、回答しております。No.3にはお礼を記入しませんが、ご了承ください。

お礼日時:2010/03/06 21:50

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