10秒目をつむったら…

欽明天皇と蘇我小姉君(おあねぎみ)との間には、穴穂部皇子(あなほべのおうじ)と泊瀬部皇子(はせべのおうじ)という男子がいました。
そもに祖父は蘇我氏(というか、両親が同じ)なのですが、
泊瀬部皇子は蘇我馬子が支持(崇峻天皇になった後、襲って自殺に追い込みますが)、穴穂部皇子は物部守屋が支持していました。
物部守屋は、なぜ敢えて蘇我氏を祖父に持つ穴穂部皇子を天皇に推したのでしょうか?
ご存じの方、よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

まず泊瀬部皇子を蘇我馬子が支持した時期と、穴穂部皇子を物部守屋が支持していた時期は異なります。



また物部守屋は政略結婚で身内の皇子を持っていなかったので、ただの利害関係で穴穂部皇子と組んだだけだと思います。
自分の身内の皇子があったなら、必ずその皇子を政治に使うでしょうね。

また穴穂部皇子は天皇になりたい野心が強く、後の推古天皇の炊屋姫や蘇我馬子と問題を起こしたり
その騒動に物部守屋が入り込んで、協力体制になったようですが
まあこの時期は身内とはいえ権力闘争で殺し合いをする時期ですから、お互いに利用して権力を持とうとした結果、
結局、この二人組が蘇我馬子と炊屋姫に排除されたということです。

歴史は勝者の都合の良いように書き換えられるので、実際のところ両者が協力体制にあったのかも疑問とは思いますが。。。
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