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江戸時代の政治の実権は幕府にあり、朝廷はお飾りのような
陰の存在でした。
江戸時代の将軍家は15代ですが、天皇家も15代です。
並べると以下のようになります。

家康  後陽成
秀忠  後水尾
家光  明正
家綱  後光明
綱吉  後西
家宣  霊元
家継  東山
吉宗  中御門
家重  桜町
家治  後桜町
家斉  桃園
家慶  後桃園
家定  光格
家茂  仁孝
慶喜  孝明


さて、これらの天皇たちが何をしたかは一般的にあまり知られていません。
歴史教科書に登場するのは光格天皇の「尊号一件」ぐらいでしょうか。
江戸時代における天皇・朝廷の何か印象的なエピソードがもしあれば
教えていただけますか?

A 回答 (6件)

天皇はそもそも家ではないので、天皇家という表現はふさわしくありません。

天皇はあくまで天皇です。

近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、1400年続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。

徳川家は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書きますが、そもそも天皇は独裁者として日本国民の上に君臨した事は今だかつて一度もありません。

それを証拠に、天皇は国民と対立関係に無かったため、京都御所のような簡単に打ち破られるような堀のない邸宅に1400年も住んでいて、一度も国民に襲われたり滅ぼされたりしていないのです。

この辺を左よりの支配する学校ではきちんと説明しないので、「昔の日本は天皇家が支配する、今の北朝鮮さながらの酷い国家だった」と本気で信じるおりこうさんが多いのが実態です。

で、天皇は江戸時代何をしていたかですが、今の今上天皇同様、1400年続く祭事を行っていました。祭事とは何か。これも新嘗祭をはじめ全てが名前を変えて何とか記念日として休日となっているためわかりにくいのですが、平たく言えば、日本国民の平和や幸せの為の祭事を行っているのです。
天皇は、自分の為ではなく日本国民全ての人々の為に、いつもお祈りをしてくださっているのです。ですのでどっかの国は「日帝」と呼びますが、どちらかというと皇帝ではなく法王に近いんですよね。

戦後の共産党員はソビエトから共産主義思想を持ち帰った際、この辺を良く解っていなかったので天皇を「天皇家=特別階級」として目の敵にし、格差社会の打倒すべきものとし、また唯物論の観点から神事を執り行う祭祀王という位置づけも理解できないようです。ですので日教組に支配された学校教育ではとにかく天皇は悪いイメージしか教えてくれませんし、詳しい教育はしてもらえません。

繰り返しますが天皇は江戸時代も今も、ただ日本国民の為に祭事を行い、国民の平和や幸せの為に祈ってくださっている方なのです。
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後水尾天皇は実質的には院政を敷き明正から霊元までの帝は飾り物です。



この帝は、幕府との確執に終始した生涯と言っていいでしょう。紫衣事件や春日局の無位参内などで激怒し、徳川の血を皇室から消すために明正帝(女帝)に譲位したと言われています。明正帝は徳川秀忠の孫娘です。

孝明天皇は重要でしょう。彼の病的なまでの異人嫌いの感情がなければ、あの無謀な攘夷運動が燎原の火のように広がって、幕府があそこまで窮地に追い込まれることはなかったと思います。倒幕の動きは別の形になっていたでしょう。
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No.3につけたしです。



現代人の私達には、権力者と
「権威」や「文化」との関連については
「???」という感じですが、

明治以前は力を持つものが「文化の中枢」に
いたり、権威を誇示するための称号・官職や
儀礼作法を所持してることは重要視されていた
ようです。実際、江戸時代を通して
幕府がやったことは将軍家も含めてほぼ「武家の公家化」だった
ように思います。ただ、その仕組みを幕府内部に作らず
天皇・朝廷の存在感を消しつつも形式だけとはいえ、
朝廷に依存していた。
やっつあん熊さんやタゴサクさんといった政治に参加してなかった
当時の下々はともかく、政治に多少なりとも関わっていた武士や
商業活動を通して多少関与していた一部の商人にはこのことは
多少なりとも影響を与えていたことでしょう。

この状況がずっと続いたのはどうしてなのか、不思議としか
言いようがないですが・・・。
その結果が幕末→明治維新(王政復古)に繋がるわけですが・・・。

現代の私達は「文化を保護・奨励するおかみ」にも
「権威」というものにもいまひとつイメージがわかなくて
それが一方ではスポーツ・芸術芸能の振興に政府行政が関わる
ことを嫌悪する風潮であったり(ただ、現代の行政が振興・保護を
行うのは権威的な意味あいというよりも、国や国民の活動そのものの
振興や支援=魅力ある国づくり という考えであるともいえます)
一方では今の皇室の存在のあやふやさ
(昔のような「権威」を持ち出すことの是非はさておき)と
いう問題を起こしているのではないでしょうか?
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後水尾天皇は、寛永文化 という


江戸時代初期の京都を中心とした
「文化的動き」に大きく貢献しました。

彼の周りには文化的才能のある公家達が
集まり、また彼らの仲介によって市井の
文化人(町衆達)達も参内し、様々な文化的
交流をしました。

和歌はもちろん、今で言う茶道・華道・書・絵画
陶芸・工芸にいたるまで独特の美のかたちを
教養人同士の交流のなかで生み出しています。

後水尾天皇自身も勅撰和歌集を編纂させ
(「類題和歌集」)、自身も学問・詩歌
茶道・華道に通じていました。

これらの動きは日本の中心になり始めていた
「江戸」に対抗する部分も多分にあったようで
(皮肉なことにこれらの華やかな活動の資金
の出所は、家康の孫娘で天皇の后であった東福門院
とその実家 といっても過言ではないのですが)
そのため幕府にも多少警戒されたようです。
(実際、「紫衣事件」や明正天皇即位にまつわる問題等
天皇の「力」を多少なりとも示す事件がありました)

江戸幕府が
京都北部の「鷹峯」に市井の文化人・芸術家の活動拠点
(本阿弥光悦などが住みました)を作らせたのは
表向きは創作活動に集中できる環境をつくるため、本音は
彼ら存在感ある文化人である町衆が、天皇や朝廷と結びついて
幕府の大きな抵抗勢力となるのを恐れたからだ という
説もあります。

詳細は「寛永文化」や後水尾天皇に関する著書を
ご覧ください。
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禁中並公家諸法度では天皇のなすべきこととして「学問」が挙がってます. もちろん #1 でいわれるように「官位を与える」のは (支配者にとってある意味) もっとも大事な仕事ですが.


ところで, 「江戸時代」の解釈によっては天皇がもう 1人増えるんだけど....
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祭事をしていました。



また、官位を授けるのも、指名は将軍でしょうが、
任命するのは、帝でした。
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