No.3ベストアンサー
- 回答日時:
国抜け(脱藩)ですから通行手形は無かったと思います。
ただし、そのヤバイ期間は文久2年(1862)3月から12月までかと。
文久元年(1861)10月11日、丸亀へ剣術詮議での名目で高知を出発
許可された剣術詮議(修業)なので土州発行の手形を貰っていたと思われる。
文久2年(1862)正月、萩の久坂玄端を訪ねる
江月斎日乗(玄端日記)の14日に「武市の手紙を持って坂本龍馬来訪」とある(らしい)。
文久2年(1862)2月末、萩から高知へ帰る
文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞の説得を受け第一回目の国抜け
無手形と思われ、関所を通らず間道(裏道)を行ったのであろうか。
文久2年(1862)7月頃、大坂附近に潜伏
樋口眞吉7月23日(在大坂)の日記に「逢龍馬 贈一両」とある(らしい)。
文久2年(1862)9月頃、間崎哲馬が江戸で龍馬に逢う(間崎の手紙に書いてあるらしい)
文久2年(1862)11月12日、久坂玄端が川崎の万年屋で龍馬と一酌(玄端日記にあるらしい)
文久2年(1862)12月5日、龍馬が間崎哲馬、近藤昶次郎と共に松平春嶽を訪ねる(続再夢紀事)
文久2年(1862)12月9日か、龍馬が勝麟太郎に入門(海舟日記から推測)
これ以降、御軍艦御奉行並 勝麟太郎家来、と名乗れたと思われる
文久2年(1862)大晦日、京都経由で兵庫停泊中の朝陽丸に勝を訪ねる(海舟日記)
文久3年(1863)1月15日、勝が下田で山内容堂に乞い、龍馬赦免を取り付ける
つまり文久2年(1862)3月から12月までが、かなりヤバイ状態で、
とくに箱根の関所をどう越えたか疑問だが、裏の間道を行く手もあった。
(勿論見つかれば重罪)
面白いのは先生の勝麟太郎の父小吉が、ニ度この関所を越える実話を残している。
宿屋で手形を二百文で買ってもらう話と、
http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/15sai.html
修業だと言って手形無しで通る話。
http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html
No.2
- 回答日時:
龍馬は脱藩しましたが、ほぼ1年後、許されています。
ですから、通行手形を必要としたのは、わずかこの1年間だけです。
龍馬は、1862年4月22日脱藩していますが、10月15日には江戸に着いていますから、
正確にはこの半年間だけということになります。
龍馬は、沢村惣之丞と共に国抜けしたのですが、国抜けの経験者の沢村が用意周到に準備したルートでうまく国抜けしています。
二人が、船で長州藩上関の港に着くと、そこは旧知の地です。
その後、龍馬は単独で、大坂、京を経て江戸に向かい、10月15日に着いています。
ですから、長州から江戸まで、どのようにして行ったのかということになりますね。
実は、今もって謎のようです。
長州藩が、通行手形を発行してやったとは、考えられません。
龍馬は、脱藩する2ヶ月前に萩の久坂玄瑞を訪れています。
久坂の日記には、「晴、訪土人、薩人」と記されています。
久坂から見れば当時の龍馬は、「土(佐)人」の一人に過ぎず、名前を書き残すほどの者ではない、と思ったのでしょう。
私は通行手形なしで江戸へ行ったと思います。
江戸期後半には旅に出る町民や農民も多くなり、日記や紀行文が沢山残されており、一般人向けに解説した単行本も何種類か出ています。
これらを読んで、驚いたことには、手形なしで旅に出ている人が多いことです。
手形は旅先でなんとかなるという情報が共有されていたのではないか、と推定している著者もいます。
実際、関所手形は、関所近くの旅籠や茶店で入手できるようになっています。
また、間道を案内してくれるそうです。
関所役人に盆暮れの挨拶をしておけば、見て見ぬふりをしてくれるそうで、いつの時代も金しだいですね。
金森敦子著『関所抜け江戸の女たちの冒険』に詳しいです。
このHPには、関所手形なしに関所を通る例が示されています。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/henro-sanpo …
龍馬は、脱藩を許された翌年、藩からの帰国命令を拒絶して、また脱藩しています。
勝海舟の下で仕事をする道を選んだわけです。
勝海舟から離れた後は、薩摩藩邸に出入りして、1866年3月(慶応2年1月)才谷梅太郎の偽名で薩摩藩から通行手形を受けていますが、幕吏の目を欺くためだったのでしょう。
長州、薩州はフリーパスだったと思います。
龍馬ファンの方の回答がほしいですね。
No.1
- 回答日時:
>関所の人間を酒で酔わせて不意を付いたとかして脱藩した
これは初耳ですね。そんなエピソードもあるんですね。
さて、幕末の関所の話ですが、この当時関所はほとんど意味をもたなくなりました。
というのも、そもそも関所というのは、「入鉄砲と出女」といって、江戸に入る鉄砲
と江戸から出て行く女を見張るためのものでした。(江戸時代以降)
知らないところで、鉄砲が江戸に入り内乱を防ぐため、参勤交代による人質として
大名の妻子(主に妻)が江戸から出て行かないように、設けられたのが関所です。
幕末にもなると、妻子を国に帰してもお咎めなしでしたし、一部の地域を除いては
関所の機能は緩和されていったのです。まぁそれが、江戸後期の旅行ブームにも
つながるわけですが。
龍馬は一度藩から許しを得て、江戸に向かっています。脱藩した際も、「剣術修行に
行くんで」といえば、すんなり通してくれた関所が多かったのではないでしょうか?
また、顔が広い龍馬のことです。千葉定吉や勝麟太郎に頼めば、簡単な手形などいく
らでも発行してくれたかと思います。(実際に龍馬は勝と知り合ったことで、通常の
武士では中々手に入らないような紹介所を何枚ももらっている)
質問で書かれている薩摩には、勝からの紹介書で入国し、薩摩人と強力なコネクショ
ンを得ます。長州へは、武市の紹介書です。これまた強力なコネを作ります。兵庫、
大阪、京都、越前にも勝のほぼフリーパスの紹介所をもらい、全国を駆け巡ります。
関所はお役所仕事です。
勝からの紹介所を龍馬が提示し、「貴様のような身なりのなつが、、、あやしい。暫く
待てぃ!」と言って、その結果、やっぱり紹介書はホンモノでした。ってことになる
と、「幕臣勝殿の使者を足止めした」ということで、この関所の役人が罰せられます。
お上(幕府認定)お墨付きの紹介書・手形を提示された時点で、ちょっと怪しくても
通してしまうのが、今も当時も共通するお役所根性だったわけです。
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