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200年前からの日本は、欧米からどう見られていたのでしょうか?

歴史に詳しくない人間の素朴な疑問ですみません。
黒船が来た157年前前後から今日まで、
インドや香港など植民地になっていったアジア諸国と
日本は何か扱いが違うような気がするのですが
これは気のせいでしょうか?

手を付けた側の国が多くてそちら側で戦争を起こさないように
じりじりと睨み合っていたのか、
日本好きな欧米人が多くて温情的な措置でもされていたのか、
当時既に植民地化はじみに美味しくなくて
違う形の利用を模索していたりしたのか?

当時の欧米、植民地を広げる側にとって
日本はどういう印象を持たれ、
どういう世界情勢に巻き込まれていたのでしょうか?

よろしければ、植民地化されたアジア諸国と日本は
どこが違ったのか、オランダの影響が大きかったのか?
という疑問についても教えて頂けますと幸いです。

A 回答 (7件)

かなり断片的で、あまり参考にならないかもしれませんが…知っている範囲で回答させていただきます^^;




【識字率の高さ】
黒船来航以前の話だと思いますが、日本にキリスト教を布教させようと、江戸を訪れた宣教師が
当時の江戸町民の少年が本屋で立ち読みしている姿に驚き、本国に帰ったのちに、その国で日本に関する書籍を書き、その書籍を読んだ、オランダやイギリス等、当時の白人強国の知識人は、植民地にするには、あまりにこの国(日本)は文化が進んでいると思っていたようです。(宣教師の名前・国籍・情報源が分からなくてすみません…)ちなみに、当時の江戸の識字率は80%江戸以外の地方でも20%ありました。この数字は、当時のイギリスやフランスの識字率が、それぞれイギリス・ロンドンで20%フランス・パリで5%~10%だった事からも、日本の識字率が物凄く、文化水準が高く、植民地になるような未開の民族・土地の候補に挙がらなかった事も、日本が白人国家の植民地にならなかった要因の一つだと言われています。

【日本は7大帝国の一つだった】
これも、黒船来航以前の話ですが、日本は当時のヨーロッパ諸国の認識では、7大帝国の一つと言う認識でした。でも、日本が帝国と言うのは、事実では無くまったくの嘘話です。当時のロシアに漂流した日本人漁師が、帝国から来たor王国から来たでは、扱いがまったく違うのにきづいて、帝国から来た民だと言えば、優遇されたので、嘘をついて帝国から来たと言って、その嘘がそのまま当時のヨーロッパ諸国で日本は帝国だと思われるようになったようです。この話は以下のサイトを参考にしてください^^;
http://blog.livedoor.jp/seiginomikata8/archives/ …

【鉄砲伝来】
1543年に種子島に鉄砲が伝来した事は歴史の時間に習ってご存知だとは思いますが。
当時、鉄砲たった一丁をポルトガルから買うのに、大量の金と交換したと思います(うろ覚えです。すみません)ポルトガル側からすれば、鉄砲たった1丁で、こんなに儲ける事が出来るならたくさん鉄砲を金と交換して儲けようと考えたのでしょう、翌年に鉄砲を大量に持って再び日本に来たのですが、当時の日本では、鉄砲伝来からたった1年の間に、鉄砲の研究をして大量生産を可能にしてしまいました。なので、鉄砲伝来の翌年に、鉄砲を大量に売ろうと日本に来たポルトガル人は、日本人の技術力の高さに非常に驚きました。他方、鉄砲の技術が無かった、南米の民族は鉄砲により滅ぼされ、植民地となりました。

断片的ですが…上記で書いた事・白人諸国の日本に対する認識・印象は、植民地にするにはあまりにも文明的で技術力もあり、未開の民族・土地とは思えなかったようです。未開の民族では無かったという点が、私には、日本が植民地化されなかった、理由の一つとも思えます。アジアの中では、実はタイも植民地にならなかった国の一つですが、タイの場合は中間貿易をおこなっていた関係で、植民地にならなかったらしいです。

この回答への補足

沢山の非常にためになるご回答、
様々な切り口でのご回答、ありがとうございました。

若干悩みましたがこちらをベストアンサーに選ばせて頂きます。
ありがとうございました・・!

補足日時:2010/11/07 18:48
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この回答へのお礼

識字率、鉄砲の量産・・日本は遅れていつつも
遅れ過ぎてはいない面があったのですね。
そして世界の認識ミスも手助けになっていた と。

お礼が送れましたが、ご回答ありがとうございました。
とても参考になりました。

お礼日時:2010/11/07 18:39

先だって、アメリカのなんとかいう雑誌が「世界に影響を与えた100人」というのを選定し、その中に唯一選ばれた日本人は葛飾北斎だったそうです。



北斎が生まれたのは約250年前、活躍していたのが220年から180年くらい前で、彼の絵が輸出陶器の詰め物としてヨーロッパに渡って、主役の陶器より絶賛されて印象派に影響を与えるのがだいたい180年くらい前からですから、質問の時期あたりですかね。当時のヨーロッパで日本といえば、そうしたものしかなかったでしょうね。政体や地理、博物面なんかはオランダ経由でごく一部のものは知っていたでしょう。しかし、幕末明治期でさえ、日本人に文明(自分たちとは異質で独自な)を認めたものは、実際にふれあうことのあったごく一部のものだけでしたので、全般的に質問者様の言うような優しさはなかったでしょう。

日本が植民地にならなかった、一番大きな原因は武士の存在です。人口の約1割が腰に差していた切れ味のいい日本刀といったほうがより正確かもしれません。当時のイギリス公使のパークスが、前任地のシナで通用した怒鳴って叩けば言うことを聞くというやり方が通用しなかったということでも明らかなように、植民地化の戦闘を行って負けるとは思わないが、陸戦では相当大変そうというのが、当たらずといえ遠からずですね。実際、下関砲台を占拠したときも外国の兵は夜営はせずに早々に軍艦にもどっています。

悲しい話ですが、日本の文化が認められて植民地化されなかったのではなく、その潜在的な武力が恐れられて植民地化から免れたというのが正しそうです^^;
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この回答へのお礼

>怒鳴って叩けば言うことを聞くというやり方が通用しなかった
>植民地化の戦闘を行って負けるとは思わないが、陸戦では相当大変そう
なるほどですね。
抵抗が長引けば費用もかさむし母国も良い顔はしないでしょうし。

>実際、下関砲台を占拠したときも外国の兵は夜営はせずに
>早々に軍艦にもどっています。
確かに。
ボロ負けしたとは聞きますが、そのまま制圧はされませんでしたね。

これが現実でしょうね。参考になります。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/07 18:46

幕末と一言でいっても、だいたいペリー来航から戊辰戦争による江戸城開城あたりまでを一区切りとすることが多いと思いますが、この間で実は15年くらい経っているんですよね。


その間に欧米の国際情勢もかなり変わってきているんです。まず、欧州ではペリー来航の翌年にクリミア戦争が起きています。クリミア戦争というのはヨーロッパ史においても重要な戦争のひとつであるのですが、日本ではほとんど注目されません。それもそのはずで、同じタイミングでペリーがきていますからそれどころじゃないわけです。ノーベル、ナイチンゲールが活躍したなんていうと「ほぉ」と思われると思います。うろ覚えですが、たしかトレンチコートもこの戦争で登場したと思いますし、天気予報が世界で初めて始められたのもクリミア戦争からです。
少なくともロシアはこの戦争によって遠いアジアの小国にかまけているヒマはなくなりました。実は日本に最も興味を持っていたのはロシアなんですよね。日露外交は幕末前夜から大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などで交流があったのですよ。アメリカと違うのは、ペリーみたいに恫喝外交をしないであくまで紳士的な外交に終始したことです。紳士外交に終始した理由は単純で、侵略して占領するほどの軍事力がシベリアの先まで出せなかったので友好外交戦略で国交を持とうとしたのでしょう。

さて、ペリーをして「交渉のテーブルに着かないなら百隻の軍艦をもって占領するまでだ」とまで恫喝をかけてきたアメリカですが(ただ、恫喝外交戦略はペリーの独断だったようです)、8年後の1861年から南北戦争が始まってしまいます。これで、アメリカもそれどころではなくなってしまいました。後に南北戦争が終結すると不要になった大量の中古兵器が日本で高値で売れることとなります。

日本に軍事的にちょっかいを出せる力を持っていたのはフランスとイギリスくらいだったでしょう。しかし七つの海を支配したイギリスとて極東の端っこにある日本はいかにも遠くて大軍は派遣できません。アジアにはインドシナ(ベトナム)くらいしか拠点がなかったフランスも然り。しかもその割にこれといって欲しくなるような資源などは何も持たない国です。日本のさらに東の先には太平洋があるだけで、太平洋を挟んで向かいになるアメリカならまだしも、既に香港や上海、シンガポールに拠点を持つイギリスにとっては別にこれ以上無理する意味はありません。現代の経済でも香港や上海、シンガポールのビジネスの拠点としての重要性を見ると、イギリス人の目の付け所の鋭さには舌を巻くばかりです。

しかも前述のようにアメリカで南北戦争が終了すると、大量の中古兵器が市場にダブついて出回ります。これらの兵器は欧州列強レベルからすると「時代遅れ」だったのですが、なんとこれが日本では「最新兵器」として喉から手が出るほど欲しいものだったのです。これらをいくら大量に売りつけたところで、欧州からすると時代遅れなので自国の脅威にはなりませんし、日本人はボッタクリ価格でも競うように買い求めました。それなら、戦争という金のかかる方法をするよりここらで一儲けしたほうがオイシイという現実的判断になったと思います。
もちろん、側面としては日本がそれなりの文明国であったこと、サーベル持った奴がそこらじゅうにいて襲い掛かってくるということもあったことはあったとは思います。
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この回答へのお礼

>1年後の欧州・ロシアに影響したクリミア戦争
>ロシアの軍事力をさけなかった事情
>8年後のアメリカの南北戦争
>フランスイギリスにとって無理に取る魅力の無さ

成る程ですね。
世界はそういう情勢になり、日本どころではなくなった と。
詳しいご説明、ありがとうございます。

>側面としては日本がそれなりの文明国であったこと、
>サーベル持った奴がそこらじゅうにいて襲い掛かってくる
>ということもあったことはあったとは思います。
銃さえ持っていれば安全で偉ぶれる土地ではなかった事が
簡単に占領されない時間稼ぎになったのでしょうね。
世界情勢に救われた感じなのでしょうか。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/03 11:39

鎖国=与える情報不足ということが幸いした面があるのでしょう。



ペリー以降の交渉で、将軍が最終決断者ではない事や天皇の存在が判明した訳ですし、夫々の藩の軍事力等も判って居なかった様ですね。

欧州の植民地化については、交易やキリスト教伝播等で情報を収集し、小競り合いを仕掛けながら行なわれています。
そういった伝統的手法が採れずに、欧州諸国が躊躇っている処を、新興国である米国が強引に江戸先まで殴りこんだ結果、国交が開かれました。

日本人が好きな訳でも尊敬したわけでも無く、それ程利益があがりそうも無いのに面倒そうな国だと思っていたのでしょう。
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この回答へのお礼

なるほどですね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/08/03 11:27

追記。



「江戸の町」は、当時は「一都市の人口」でランキングすると「世界屈指の巨大都市」であり、江戸湾の奥に位置し、海から攻め入る事が不可能な都市だと思われていました。

そういう点も、諸外国が手を出しにくい要素だったのかも知れません。
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この回答へのお礼

江戸は当時としてそれ程大きな町だったのですか。
上陸するにも手間がかかる上に、制圧しても国内が統一されておらず
一筋縄には行かない、時間が掛かれば国民の武装率から
ゲリラ戦状態になれば費用がかかり過ぎになってしまう?
とでも考えられて不平等条約を選ぶ事になったのでしょうか。

追加でのご回答、ありがとうございました。更に参考になりました。

お礼日時:2010/07/22 17:21

1800年ころのお話ということですよね?



中央公論社の『世界の歴史』25巻が
「アジアと欧米世界」という副題で、この時期のヨーロッパ人のアジア観が
描かれていますよ。
英国の香港総督の通訳ギュツラフが、総督宛てに書いた上申書が
とても面白い内容になっています。
日本人と中国人を比較しながら、
「もし日本が鎖国をしていなかったら、アジア一の強国になっていた」という
旨の報告を行っています。
だから、中国と日本とでは、違う対応をすべしといった内容です。
ギュツラフの提案が、そのまま採用されていたわけではありませんが
当時の生の情報の一つとして、興味深いので
よかったら、一度、見てみてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そのような本が出版されていたのですか。

>「もし日本が鎖国をしていなかったら、アジア一の強国に
>なっていた」という旨の報告を行っています。
日露戦争後そのような形になったのですよね・・
しかし当時の日本は欧米に全く歯が立たない弱小国・・
実際戦ってもボロ負け・・
つまり植民地化しようとしても強烈な抵抗をされ手間がかかり過ぎる
しかも一纏まりになってないバラバラな国で頭を抑えても意味が無い
などが日本の植民地化に手間取った理由だったのでしょうか。

当時弱かった日本よりもさらに
当時のアジア諸国は弱くて植民地化されてしまった・・?
という事なのでしょうか。


その本、翻訳されていましたら機会が有れば
是非読んでみたいものです。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/22 17:13

諸外国からは「手を出すとヤバい国」と思われていました。



当時、国民の半数近くが「銃砲刀剣類を所持」していました。

武装していた国民は、士農工商のうち、士だけだと思われがちですが、当時、農民は「足軽」として徴兵され、刀や鉄砲などを持っていたのです。

農民のうち、徴兵を受ける農民、つまり、武器を所持していた農民が、農民全体の半数だとしても、士農工商の人口比率は以下のようになっていましたから、武器を所持していたのは「7%+約80%の半分」で、50%近くは武装していた計算になります。

士(僧侶をふくむ)=7%
農(漁をふくむ)=76~83%
工=4~7%
商=6~10%

明治維新の廃刀令で、殆どの一般人は火縄銃や刀剣類を持てなくなりましたが、今でも、古い農家の蔵から火縄銃や日本刀が出て来たりします。

命令(法律)を出して回収、廃棄させなければならないくらい、国民に広く武装が行き届いていた訳です。

諸外国も、オランダからの情報で「あの国はイザとなると一般市民も武装して出てくるぞ」という国内情勢を知っていた筈です。

なので、不利な条約を結ばされてしまう事はあっても、植民地化までは至らなかったのだろうと思います。
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この回答へのお礼

とても興味深いご回答、ありがとうございます。

なるほど・・確かに農民も普通に徴兵され戦っていたのですよね。
世界から見るとやけに高い武装率の国だったのでしょうか。

>今でも、古い農家の蔵から火縄銃や日本刀が出て来たりします。
小さい頃経験が有りました。
近所の家の蔵を整理してたら錆切った火縄銃が出てきて
危険かもしれないからいじるな・・と言われつつ軽く触っていた事が。

>不利な条約を結ばされてしまう事はあっても、
>植民地化までは至らなかったのだろうと思います。
なる程・・ほかのアジア諸国がどうだったのかは解りませんが
日本は農民の武装率に救われた形だったのでしょうか。

とても新鮮な気持ちというか、驚きというか、
とても興味深いご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2010/07/22 17:07

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