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真田幸村(信繁)の「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候え」の意味


この言葉の意味ってなんすか?

おしえてください。

あと、候えはこうえ
で読み方あってますか?

A 回答 (3件)

読みと意味はNo.1の回答者様のとおりだと思います。



この言葉は大阪夏の陣の道明寺の戦いで信繁が言ったもの。
国分村の隘路で徳川勢先鋒部隊を撃破すべく出撃した豊臣勢でしたが、
予定通り国分村に到着したのは後藤基次隊のみでした。
後藤勢は奮戦むなしく撃破され、基次は戦死。
勢いに乗った徳川勢は遅れて進んできた明石・薄田・山川勢を各個撃破し、
道明寺付近で毛利勝永隊と向かい合いました。
孤立した毛利隊が全滅覚悟で突撃しようとするその時に真田信繁隊が到着。
遅参を詫び敵勢に突撃すると言う信繁でしたが
「死ぬなら秀頼様の下で」と勝永に押し留められ、
それならば、と退却戦の殿軍をかって出ます。
そして真田隊と毛利隊は攻め寄せる徳川勢を食い止め、逆に押し返し、
戦線が膠着した機を見計らって(多方面での敗報が届いたため)
四天王寺方面に引き上げます。
徳川勢先鋒部隊の指揮官水野勝成は追撃を主張しますが、他の部隊が疲労を理由に動かず、
悠然と退却する信繁が徳川勢のその様を見て質問の言葉を言ったそうです。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まずは、読み方すら・・・。

「関東勢百万と候(そうら)え、男はひとりもなく候(そうら)え」です。

意味は、NO1の方の言う通り、関東の勢力(つまり、徳川方)は百万もの大軍であるのに、(勇ましい)男は一人もいない・・・と言うものです。

これは、慶長20年(1615)5月7日、大阪夏の陣の最終決戦が大阪城南方の茶臼山・岡山付近で行われました。
この時、幸村は、大阪城の外堀に面した一画に「真田丸」という城壁を築き、徳川家康と対峙(たいじ・にらみあい)しました。

幸村は総大将の秀頼に、陣頭指揮をとるように進言します。しかし、ついに最後まで指揮をとらずに終わってしまいます。業を煮やした幸村は3,500の兵を率い、松平忠直隊15,000に激突しました。そして、忠直隊を蹴散らし、家康本陣へと襲いかかりました。家康隊は混乱し、本当に後一歩で家康を討ち取ることができる、というところで勢いを取り戻した忠直隊に敗れました。

その時に真田幸村が豪語した言葉です。

なお、直筆書状に「信繁」とあり、同年代の史料に「幸村」とは出てこない。
江戸時代の軍記物「難波戦記」が「幸村」と記したのが流布したらしい。
同書がなぜ「幸村」と記したのか分からない。
他に「信仍」(のぶより)とも呼ばれるが、いずれも「藩翰譜」(はんかんふ)など後年の史料や講談本によるもので、史料としての裏付けはない。
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 読み方は完全に間違っています。

そうらえ。旧仮名遣いだと「さうらへ」になります。丁寧語です。
 
 直訳すれば、「関東勢は百万もいらっしゃるのに、(勇ましい)男子は一人もおられませんね」意訳すれば、「関東勢百万の武者の中に、勇敢な兵士は一人もおられないのか」となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

皆様、回答ありがとうございます!

学校の宿題で、好きな歴史上人物を調べるのがあって

真田幸村調べていたらでてきて、意味深だったので調べました

皆様長文ありがとうございます。しかしバカな僕(中2)にはちょっと理解できなかったので、
簡単に説明してくれた、一番に回答してくれた方をベストとしていただきます。
長文かいてくれた方の文はもう少しオトナになってから活用させていただきます。

お礼日時:2010/08/28 20:11

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