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NHKの竜馬伝に影響されての質問ですが、当時の竜馬のような武士からすると、幕府の存在は絶対的存在であると認識していても当たり前かと思います。そのような絶対的存在であった幕府を、倒すと決心し、その方策として薩長同盟を推進しましたが、客観的に考えて、たかが二藩が同盟したからといって、それがなぜ倒幕につながると竜馬は判断できたのでしょうか?幕府とそれに味方する諸藩は二藩どころではないでしょうに。竜馬が、薩長二藩で幕府とそれに味方する諸藩に対抗できると判断した理由を教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

皆さんが仰るように、龍馬の目的は倒幕ではありません。


大政奉還です。
結局、徳川家は静岡に追いやられますが、政権を天皇に委譲して徳川慶喜も含めて新政権に
参加させる腹のようだったようです。
この考え方が討幕派と摩擦を生み暗殺にも繋がったのではないでしょうか。

歴史は誰にも予想はつきませんから、薩長二藩で幕府に対抗できるととは思っていなかったと
思います。
己の考えと力を信じてがむしゃらに突き進んだというのが現実ではなかったのではと思います。

船中八策も肥後の横井小楠の考えを模したものと言われており、勝海舟をはじめ影響を受けた
人物も多く、人脈は相当広かったようです。
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昨日の敵は今日の友。

だがフランスは断る。  byイギリス紳士。

これがこの時代のイギリスの基本外交。
見事なまでにフランスだけ叩く事に熱中している。

そりゃあ代理戦争といわれますよー。
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龍馬が求めていたのはおそらく倒幕じゃないんですよね。


徳川は徳川でいいとして、国政を担う権力を雄藩連合に移すことです。

そのためには薩長を合従させて天皇のお墨付きを得る、そのお墨付きを利用して他の雄藩を招く、そんな形だったでしょう。別に二藩で幕府に勝とうとしていたわけじゃあありません。というか勝てるわけないですよね。

龍馬の情報入手先の主たるものは勝海舟です。
それに密航経験のある長州志士との付き合い、外国商人と付き合いの深い薩摩系志士、彼らから情報を得ていたと思います。
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No、2です。

補足します。
ご存じの通り、当時の龍馬は、福井、京都、神戸、長崎、鹿児島等と各地を飛び回っていました。
各地を回り、どんどん人脈を広げていったので、情報収集は私たちが思うほど、難しくはなかったと
思います。
特に亀山社中の発足に当たっては、薩摩の小松帯刀の協力を得ています。
薩摩は、篤姫を大奥に送り出しており、幕府の現状には敏感であったと思われます。
14代将軍だったか、15代だったか記憶が定かではありませんが、次の将軍を決めるに当たって、
藩の意見を通すために上洛もしていますし、江戸にも立ち寄っています。
その帰りの事件が生麦事件で、薩英戦争に繋がりました。
長州は、幕府の尊皇攘夷決行を真に受けて、下関から外国の軍艦に向けて発砲し、無残な結果に
終わりました。
両藩の共通点は、西洋の力を思い知ったことであり、そこに龍馬は目をつけたんではないでしょうか。
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補足回答の要請がありましたので、回答させていただきます




>元をたどれば、薩長同盟の発端は、イギリス系資本の発案であると考えてよろしいでしょうか?

 断定はできませんが、利害一致しえる背景があったと思われます。
単純にフランス勢力が疎ましかったイギリス資本にとっては、フランス資本を駆逐する勢力(薩長討幕派)に肩入れしたかった、という背景があると考えています。
 基本的には、犬猿の仲の薩長の同盟の背景には、討幕という目的があったように指摘されますが、その目的のためならば、薩長とも個別に各藩との合従策が行われたはずです。
最初に薩長で合従がなったのは、第三者の協力な後押しとそれによる利益なしには不自然と言えるでしょう。
 
>イギリス系資本が、薩長二藩をもってすれば、幕府(フランス系資本)に対抗できるという情勢判断をしたということでしょうか?

 これは極めて悪意的な見解ですが、対抗できなくても商売繁盛すればいいわけです。
投資以上の貿易取引が確保できれば、薩長が負けても差し支えないわけです
 本国の指示が見当たらないことを考えれば、イギリス系資本は、日本が泥沼の内乱状態になって商取引が拡大した方が都合よかったでしょう。
 アメリカが戦時介入していれば、戊辰戦争の構造も複雑化して面白かったかもしれませんが・・・・
 本国の利益を考えれば、一方の勢力で日本が統合されるよりも、分裂・内乱状態の方が好ましいでしょう。
 ちなみに、このような統治弱体化を図ってからの侵略は帝国主義後期の王道です。
ある程度、御用商人が利益を得て本国経済を潤沢した後に、侵略の軍事費に備え、侵略を開始するのです。こういう手法で後期帝国主義はスムーズに展開します 

>事実ならすごい分析力と的確な判断だったのですね。

 あまり知られていませんが、英仏の植民地闘争は、代理戦争であり、商人たちが前哨戦を行っているケースが多いのです。
 日本の歴史小説家は、英仏の植民地代理戦争に関する知識が圧倒的に不足しているのは依然から指摘されています
 結局、応援した勢力が勝てなくても儲けられれば戦争特需でOKなわけです。投資以上の利益を確保するには、現物の取引があったでしょう。
 なお、どれだけの取引額があったのか?という資料が日本に残されていないのが興味深いのです。勘定方の支出として武器取引が記録・保管されていないのですから、イギリス資本の影響力は測りようがありません。測りようがないから指摘されないのですが、歴史的傾向から言えば、必然と考えます。

 これは私の私見ですが、戊辰戦争の早期終結は、列強の予想になかったと思います。

『泥沼化させて商取引で巨万の利益を得て、本国の侵略を待つ・・・・』
そんな政治戦略を描いていたからこそ、戊辰戦争後半の五稜郭の戦役での諸外国の外交展開が興味深くあるわけです。
 
>そして、坂本竜馬の活躍は後世の作り話であり、薩長同盟はイギリス系資本に吹き込まれた薩摩の小松帯刀の功績であるということですね。それとも、小松が、竜馬に仲介者となるよう持ちかけたのでしょうか?

 小松帯刀の功績に関しては今後の研究を待つ必要性があると思われますが、坂本龍馬が仲介を行ったことにするのが都合がいい歴史観があると思っています
 薩長も自律的に合従に至るとするに、十分な動機がないからこそ第三者の介添にしておきたい背景もあったでしょう

 
 作り話というのはまだ精査の余地がありますが、過大評価されているとは思います。
こういう表現は不適切かもしれませんが、所詮は明治維新は、ヤクザものが調子づいた公家を連動したクーデーターであり、そのクーデーターの成功には、列強介入の脅威があったから・・と考えています
 純粋に討幕勢力と幕府勢力の正面衝突では幕府側がまだまだ余力がありましたし・・・
 

なお、戊辰戦争を日本の英仏代理戦争と見る歴史観は、明示中期には指摘されていますが、明治元勲たちはその見解に反論した形跡はありません(無視したとも思われますが)
私からすれば、戊辰戦争は、日本を内乱状態にして侵略しやすい環境整備を狙ったものですし、そのような歴史的経緯が帝国主義時代の主流にあるのは事実です。

 ちなみに、幕末の戦争技術に関しては、最終局面まで新政府(薩長)側は海軍力では、幕府・列藩同盟に勝てなかったのが現実です
 つまり、国土防衛の要だった海軍力に関しては、最後まで幕府・列藩同盟側の優位が続いていたわけで、「新政府側が圧倒した」というイメージは適切ではありません。 
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フィクションのドラマだから、そのような設定、つまりあの段階で倒幕を考えたという話になる。



1864年11月
第一次征長戦争
威圧だけで、長州が屈服
長州 VS 幕府 + 薩摩

1866年1月
薩長同盟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7% …
薩摩による長州支援

1866年6月
第二次征長戦争

1867年6月
船中八策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E4%B8%AD% …
倒幕なんてどこにもない

1867年6月~
薩土盟約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%9C%9F% …
倒幕を目指す薩摩と公武合体を目指す土佐の妥協の盟約
これに坂本は参画している。
つまり、倒幕を志向していない。

幕府の権威と権力の再構築を潰すために、第二次征長戦争に積極的なサボタージュを行った薩摩。
で、実際に 幕府VS長州 (薩摩サボタージュ)をやってみたら、長州は幕府に倒れなかった。
これにて、薩摩は統幕の可能性を見た。土佐は徳川家を含めた公武合体を目指したというのが、その時代の状況です。
薩摩は、薩長で倒幕できると考えたかもしれない、少なくとも、幕府に倒されることはできないと踏んだとは考えられるが、土佐(坂本)が倒幕できると考えたとは推定できない。
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理由はきわめて簡単。



 薩摩・長州ともイギリス資本による影響が大きく、薩長同盟以前はイギリス資本も本格的に投資する情勢とは見てなかった。
そこに犬猿の間柄だった薩摩・長州の同盟が成立して、
フランスの協力な支援を受けていた幕府との英仏代理戦争の準備が始まるわけです。

 幕末は英仏の日本の代理戦争の構造で見ると案外判りやすい。

イギリス資本で独占したいイギリス系資本家 VS イギリス系資本と牽制し利益を得たいフランス系資本
これが、国家のバックアップを得て、日本での代理戦争寸前まで行くわけです。
戊辰戦役は、代理戦争寸前までシフトしそうになったのが、幕府が内乱を回避させる結果になったとも言えるでしょう。
もし、本格的な幕府の徹底抗戦になれば、フランス資本に幕府応援の準備があったことも事実ですし、イギリス資本の独占を嫌がる勢力は当時なかったわけでもありませんから
(アメリカが南北戦争だったことが、代理戦争の構造を強めた背景もありますが)

私は、坂本竜馬を全く評価していないので、薩長同盟もイギリス系資本に吹き込まれた話としか思っていませんし、薩長同盟は、薩摩の小松帯刀の功績の尽きるとしか思っていませんので、このような歴史観になります。

 少しだけ指摘させてもらうと、
幕末に関する歴史知識は、総じて、視野が狭いものが多いようです。
例えば、当時の幕末の世界情勢を考えれば、国家を挙げて日本を襲撃するような余力も、そのような魅力さえない日本が、大きな危機だったように思うこと自体が、国際政治的なセンスの不足を感じますし、海外勢力の侵略目前というような情勢認識がそもそも根拠のないヒステリックだったとも言えるでしょう。
これらの歴史観は、明治元勲が作り出した虚像であり、勝者都合の歴史に過ぎません。
虚像の歴史事実を積み重ねても歴史は動かせるとは言えますが、明かに論理矛盾・理論破綻した連中が、勝者として君臨しています
ここらの論理整合性・歴史の客観性を顧みれない明治元勲とその末裔たちが、今も日本に跋扈していることを考えると、幕末が日本を悪い方向に決定付けた歴史とも言えるでしょう。
 
ちなみに、坂本龍馬は武士ではなく、侍です。
武士とは武装貴族であり、士族階級ですが、坂本家は生粋の武家の家系ではありませんし、生業として町人と大差ない行動していますから、武士とは言えないでしょう。
 現在、一般の人は武士と侍と分離しませんが、歴史を厳格に捉える努力をしている側からすれば、坂本龍馬が武士なんて言う認識は、理解に苦しみます。
まぁ、そういう意見を出しても、武士も侍を区別しないで生きられますがね



早い話が、薩摩・長州の合従によってイギリス資本が本格的に幕府(フランス)と対決する環境が整ったということです。

この回答への補足

早速の回答ありがとうございます。今少し教えてください。
まず、武士と侍が違うとは本当に知りませんでした。同じ存在を言い方が違うだけと、今の今まで思っていました。ありがとうございます!
さて、回答からすると、つまり、元をたどれば、薩長同盟の発端は、イギリス系資本の発案であると考えてよろしいでしょうか?イギリス系資本が、薩長二藩をもってすれば、幕府(フランス系資本)に対抗できるという情勢判断をしたということでしょうか?事実ならすごい分析力と的確な判断だったのですね。そして、坂本竜馬の活躍は後世の作り話であり、薩長同盟はイギリス系資本に吹き込まれた薩摩の小松帯刀の功績であるということですね。それとも、小松が、竜馬に仲介者となるよう持ちかけたのでしょうか?

補足日時:2010/08/29 01:06
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元禄のころ、忠臣蔵で有名な浅野家の大石蔵之助。


ある藩がお取つぶしになって、城の受け取りを
命じられて、ハタと困った。武装、隊列 拒絶の場合の
戦闘やなにやら、どうしていいものか わからない。
金を使って、怪しげな軍略家を連れてきて、教えを乞うたらしい。
それぐらい、平和?(ボケ)。
家康から家光までの徳川の治政は、武士階級の完全なる
武装解除を完成さした。それから300年。もっとボケる?
武士の身分も金で売り買うほど、借金で首が回らない
どの藩もみんな財政破綻状態。
(戦争はつまり金ですからね)
全国的に。虚勢された馬のように、武士にはもう馬力はなく
幕府のペリーへの対応の軟弱さは、なんとなくチェンジを
感じたんじゃないのかな。

この回答への補足

早速の回答ありがとうございます。今少し教えてください。
回答していただいた内容からすると、平和ボケ、財政破綻。しかし、なぜここから急に長州、薩摩へとつながるのでしょうか?

補足日時:2010/08/29 00:50
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・薩摩、長州、(その他、肥前、水戸藩)において、藩財政の立て直しが速やかに行われたこと。


特に薩摩は、砂糖の密貿易、綿花輸出による資金獲得(アメリカ南北戦争の影響)、最新鋭の武器購入により、武力を強化。

・天下泰平の時代が長く続いたため、士気が上がらない。

・幕府と諸藩のつながりの希薄化。

以上の、三つが主な判断基準だろうと思います。

この回答への補足

早速の回答ありがとうございます。今少し教えてください。
つまり、回答にある三点(「士気が上がらない」は「幕府が」だと思いますが)を竜馬が把握していたということになりますが、1人の脱藩浪士がそのような情報を把握できるものなのでしょうか?

補足日時:2010/08/29 00:47
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当時の徳川幕府は、相当権威が落ちていたようです。


黒船の襲来を受けて判断に困り、諸藩に相談を持ちかけているようです。
それまでは、上意下達で命令系統は一本化していました。
相談を受けた諸藩は、ボスはどうも当てになりそうにない(自分で決められない)という
感覚を持ち始めたのではないかと思います。
そういう背景の元、信頼は失墜し絶対的権威を失っていたと思われます。
一方、薩摩と長州は外国とも戦っていますし、歴史の流れは、幕府より理解が進んでいたと
思われます。
更に薩摩にあっては、琉球王国との貿易等もあって財政も他の藩より裕福であれば、西洋か
らの武器調達も容易であったと思われます。
財政も、新しい武器も幕府とは比較にならない程であったとすれば、時の勢いはまさに
薩摩、長州にあったといえるのではないでしょうか。

この回答への補足

早速の回答、ありがとうございます。今少し教えてください。
回答いただいた内容は、(1)幕府の権威失墜を竜馬が把握していた。(2)薩摩の財政・武器が幕府を上回っていた。ということだと思いますが、1人の脱藩浪士である竜馬がどうしてこのような情報(特に(2))を把握できたのでしょうか?また、薩摩を選ぶ理由は、(2)にあったとしても、ではなぜ長州を選び、薩摩と結びつけたのでしょうか?申し訳ありません。教えてください。

補足日時:2010/08/29 00:42
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