現在、放映されている赤穂浪士関係の映画で、「最後の赤穂浪士」を観ました。とてもよい作品でした。そこで、質問なんですが、今回の「最後の赤穂浪士」や、以前、映画ではなく、本で「武士の尾」を読んだんですが・・・これは、赤穂浪士の討ち入りが失敗した時の次(第2部隊)の部隊を大石内蔵助の密命により、おもて上は、「逐電した武士」という汚名を着せられながら、赤穂浪士の討ち入り後も生きていく・・・というスト-リ-でした。
この二つの、物語は事実なのでしょうか。
細かく言うと、登場人物の名前や、特に、大石内蔵助の隠し子(女性:可音)のことも含めて・・・。
以上、宜しくお願い致します。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
討入りについては公儀(幕府)はもちろん、吉良屋敷の隣近所に屋敷を持つ武家も事前に知っていました。
その第一の根拠は、元禄十五年十二月十三日付けで、大石内蔵助が赤穂の僧3人に宛てた書簡のなかに次のように書いてあります(赤穂市の正福寺蔵)。
「家来左六・幸七暇遣差上候間一筆致啓上候、甚寒御座候得共各様弥御堅固可被成御座珍重奉存候、其元御城主も被仰付珍重ノ御事御座候、前々ノ通無相 違寺社領も被遣事ニ候哉無心元存候
一 私在京之内は何角不得心隙候て書状ヲ以も不得御意御不音罷成候、兼而御聞及も可被成候、十月初京都出足無異義父子共下着仕事ニ候、今日迄一段と両人共無病ニ罷在候、誠に仏神之御加護と難有喜悦仕事御座候、在京之内は従公儀も拙者江附人在之一足もふミ出し候儀不成旨慥成筋より聞出し候なと以後万々一無別義世間ニ罷成候様子ニ候ハヽ吉進事ハ一度武名家をおこし候様ニ仕度事に候ヘハ少は心底に懸り候、此義も存間敷事ニも候得共人生ぼんぶノ拙者ニ候得は御はつかしき事ニ候、乍去一事之邪魔ニ成候様成所存ニて毛頭無御座候、御気遣被下ましく候、良雪様へ去年以来ノ御ものかたり失念不仕日々存出し、此度当然之覚悟ニ罷成忝次第御座候、日来御心易得御意候各様故、別而御残多御暇乞旁如此御座候、死人に口なし死後色々ノ批判とりニ可在之と察まゐらせ候、知貞御坊へも同前申度候、遠林寺・神宮寺もし噂も御座候ハヽ宜布御心得可被下候、恐惶謹言
道中御関所無滞少も心懸り之義無之下着仕候・・浪人共追々下着、拙者も罷下り候さた色々在之、若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案(安)堵罷有候・・
十二月十三日 大石内蔵助(花押)
恵光様
良雪様
神護寺様
参
尚々此書状家来ニ可進と存候得共若道中滞候てハ如何と存さしひかへ死後大津より其元へ相達し候様ニ頼置申候」
恵光は花岳寺、良雪は正福寺の住職です。神護寺の僧の名は記載なし。
関所も問題なく通過できて無事に江戸に着いたことの報告とともに、若老中(書簡にはこう書かれていますが若年寄のこと)も知っているようで 「うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候」。討入りも成功するようだ、という意味のことが書かれています。
この大石内蔵助がなぜ、赤穂の僧宛に書簡を書いたのか。
討入りのために下向する大石はじめ元赤穂浅野家の家来たちは浪人の身です。なので、主家というものがないので寺が通行手形を発行したことは間違いない。
書簡の内容からみて、手形を発行した寺でも、下向の目的は知っていたはずです。
それでは、なぜ若年寄が討入りについて知っていると大石が察したのか。
本所吉良屋敷の道一本はさんだ南隣は、相生町二丁目。ここに前原伊助の店がありました。
吉良屋敷の南西角には、吉良および北隣西側の土屋主税(老中、土屋相模守の本家)の家が共同で管理・運営する辻番所がありました。
また、綺羅屋敷の北隣東側にあった本多孫太郎(当時二万石の越前松平家老)屋敷の北西角にも辻番所がありました。
辻番所には昼夜番人を置いて周囲を監視し、一刻に一度は周囲をパトロールすることになっていました。
だから、浪人風情の者が出入りする店もわかっていたはず。
辻番は若年寄が支配し、御徒目付けが定期的に巡回してチェックしていました。辻番の前をフリーパスで通ることができなければ前原伊助の店にも近寄れないし、討入り本番では大石主税をリーダーとする裏門隊は吉良屋敷の西側にあった裏門にたどり着くこともできません。「若年寄も知っている」 と大石が悟ったのは、そんなことからでしょう。おそらく他の同士も知っていた。「どうもおかしい、大石に問い詰められて、「じつは」 ということになったと考えられます。
本所吉良屋敷の前住人は、松平登之助。公方さまの御小姓で、彼とは幼なじみで本所の年貢屋敷(自前で農家などから購入)も隣り合わせという非常に親しい十歳年長の従兄、松平右京大夫は、柳沢出羽守と二人三脚で政治を動かしていた次席御側用人でした。
神田川沿いの佐久間町二丁目北にあった松平登之助の屋敷は元禄十一年九月六日の大火で全焼。その代地として公儀から本所に屋敷(敷地のみ)を拝領したのは、同年十一月でした。大火後の建築ラッシュを考えれば新屋敷館の竣工はどんなに早くとも翌年の夏ごろ。
松平登之助は元禄十四年八月に本所屋敷を立ち退き、翌月に吉良が入りました。登之助の屋敷だったときは、表門は南側でした。目の前は、相生町二丁目。が、吉良屋敷の表門は東にに移設されていたのです。
No.6
- 回答日時:
つづき
寺坂吉右衛門は脱盟したと書いた本があります。また、寺坂吉右衛門は浅野の家来ではなく吉田忠左衛門の家来だと勘違いしている方が多いようですが、寺坂吉右衛門は元吉田忠左衛門の家来で、二十七歳の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのです。三両二分二人扶持の足軽でしたが、浅野家の家来でした。
瀬尾孫左衛門は大石内蔵助の家来で、討入り前の行動については不明です。佐藤條衛門や堀部文五郎のよにに、サポーターとしても名がでてこないので逐電の可能性は大です。
No.4
- 回答日時:
「赤穂藩家老・大野九郎兵衛さんが、大石が失敗した時の第2陣だった」という話が、群馬県と山形県に伝わっているそうです。
先の回答者さんがおっしゃるように、おそらくは事実でない可能性が高いですが、伝承として長く語られていた事は確かなようです。
小説は、この伝説をモデルにされたのではないでしょうか?
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/20 …
No.3
- 回答日時:
軍事的合理性から考えれば、二の太刀はありえない。
古来、軍事指導者が腐心するのは、軍事力の一点集中です。
現場の進行状況に対応するために、「総予備」を配置しますがそれは、成果の拡大などを目的とします。
特に、赤穂浪士の討ち入りでは、討ち入り失敗の場合、赤穂浪士や吉良家家中の武力に対して圧倒的に巨大な幕府が直接介入することが予想されます。幕府が直接介入したのでは、数十人単位での赤穂浪士部隊では話になりません。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>赤穂浪士の討ち入りが失敗した時の次(第2部隊)の部隊を大石内蔵助の密命により、
事実ではない・・・と思います。
現に、城明け渡しをしてから、大石内蔵助が密かに討ち入りを期して、同士を集めたのに対して、同じ国家老の大野九郎兵衛などは、さっさと赤穂を捨てて逐電しています。第2の部隊は、誰も棟梁がいませんでしたから・・・。
実際には、萱野三平などは、両親や兄弟から討ち入り参加を認めてもらえず「義」と「孝」の板ばさみとなり自刀しています。また、他にも討ち入り直前に離脱した者も何人かいます。
大石内蔵助も47人集めるのがやっとだったのではないでしょうか。
ただ、討ち入りが失敗した時には、大石内蔵助には、浅野内匠頭の墓前で自決する覚悟を秘めていたと考えられます。
なお、討ち入り直後に「逐電」した者がいたことは事実です。
寺坂吉右衛門と言う男ですが、寺坂は赤穂藩士ではなく、赤穂藩士吉田忠左衛門の家来でした。
大石はこの男に「密命」を託して、離脱させたと言われています。
その「密命」とは、
内匠頭の妻・瑤泉院への報告と広島の浅野本家への報告、後世に47士がどのように評価されるのかを伝えてもらいたい、などを託されたと言われています。
寺坂は、全ての事後処理が終わると、大目付・仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)に自首をしましたが、かえって、10両をもらって釈放されています。
その後、他藩に就職したり、後に江戸に出てきて寺男などをしながら82歳の天寿をまっとうしています。
小説家は(私も?)事実を歪曲させても面白い本を書く時があります。
なぜなら、今となっては、その当時を誰も見ていなかったわけですから・・・自由な発想、または、奇抜な発想で書かれる本もたくさん出回っています。
No.1
- 回答日時:
事実かどうかは、内蔵助にでも聞かないと無理でしょう。
ただ優秀な戦略家でもあれば、一の太刀が失敗した場合のことを考えて
次の打つ手を考えてるはずでしょうね。
そして実際に討ち入りを参加しながら赤穂浪士の凱旋を外れてその後も生きていた浪士がいたのは
事実ですが、内蔵助の密命は別だと聞いてます。
(綱吉の裁定に対して疑問を抱いていたらしく、赤穂浪士の正義を後の世に伝えるのが
命令らしいですね。)
創作としては(歴史小説だからそれなりの史実に沿っていればなんでもありってことでしょうか?)
歴史家が書いたのでない限りはあまり信用し過ぎても、本当の話ではないと思いますよ
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