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古代の日本には大和以外にも、毛野、越、吉備、出雲、筑紫などの地域にそれぞれ有力な王権が存在したようです。
これらが武力によるものか同盟関係のようなものが成立したのか分かりませんが、最終的に大和を中心に統合されました。
大和が他の地域より優位に立った理由は何なのでしょうか?
山間の盆地にあって交通が便利でもなければ肥沃な土地でもなく、そうかといって海に面してもいないので大陸との交易に有利なわけでもありません。
川は流れていて、(現在でいう)大阪湾から瀬戸内海までつながっていますが、それは別にここだけではありません。
地の利ではなく統合の時代に大和に優秀な指導者が多かったのでしょうか?

A 回答 (3件)

あくまでも思った感覚ですが…


奈良・京都で大地震って聞いたことがありますか?

1000年も都が置ける安定した場所なんだと思います。
相手は地震や津波、火山に襲われ易い環境があります。
災害が少ないから安定した国家が出来ます。
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経済的側面で考えると



現在の日本人の感覚による沖積平野に水田地帯というのは、江戸時代中期以降であり、古墳時代の稲作は、扇状地や陸稲が中心。
灌漑設備から考えると、筑後川とか吉野川とか利根川あるいは淀川なんかより、那珂川とかあたりが管理できる大きさ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82% …
太閤検地の段階で国別の生産高が一番高かったのが、近江。琵琶湖に注ぐ中小河川が灌漑の中心だったから。
この意味で、古代の大和盆地には大和湖がありそこには、中小河川が流れていた、つまり灌漑管理しやすい中小河川が多かったので、稲作に適していたと考えられます。

後背地
伊勢から濃尾・近江という独立の王権が発達しきっていないがそれなりに経済力がありそうな地域を背景に持てた。

※ 秦帝国のあと、漢楚の戦いで、渭水盆地を常時押させていた漢が長期戦で勝ったのと同様なことが大和と後背地である 伊勢=濃尾=近江 あたりであったんではないか。
その記憶があるので、天武天皇は伊勢に行き、伊勢神宮を天皇家の重要な神社にしたのではないかと思う。
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暦だと思う。

日本列島に稲作が導入されてから大和民族は農耕民族となった。農耕には暦が必要です。暦が無ければ、どんなに肥沃な土地であろうとも、いつ田植をすれば良いのか、いつ稲刈りをすれば良いのか、判断の基準が無いことになります。現代ではどんな家庭でも暦が無い家は無いでしょう。無くてもネットで調べることもできる。しかし古代ではそうではなかった。文字が無いのだから、暦などない。暦を売る書店もない。そういう時代にどうやって農民は稲作を行っていたのだろうか。「皆の衆、そろそろ田植の時期じゃぞ。」誰か号令を掛ける立場の者がいたはずです。それが指導者、統治者の役目であったはずです。それが天皇だったのではないでしょうか。大化の改新を経て、元号が導入される前は、日本には年を現す基準は天皇の即位した年でした。例えば、崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。といった記述がある。これは崇神天皇 - Wikipediaからのコピペだけど、現代にまでこういう歴史が伝えられ、残されているということなのだ。この時代に文字があったわけでなく、語り部が伝承で語り継いでいたはずです。その当時にかの人物が天皇と呼ばれていたわけではないが、そういう指導的立場で人々に号令をかけていたはずだというのが私の考察です。いろんな成功や失敗の歴史を伝承で伝えて、頼るもののない人々に的確な号令を発して人々の信頼を勝ち得た一族が天皇だったはずです。
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