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南北朝 室町 戦国期、足利一門吉良家は足利将軍家に次ぐ高家として扱われてきました。
今川家は三番目。
今川家に関しては、九州探題・今川了俊や東海一の弓取り・今川義元を輩出していますが、吉良家では目だって活躍した人物(初代・長氏くらいか?)を知りません。
にもかかわらず、何ゆえ重く扱われたのでしょうか?

太田道灌も武蔵吉良家当主(世田谷殿)には敬意を表しています。

A 回答 (7件)

こんにちは。

私も吉良家がなぜ名門として扱われるのか不思議に思っていました。斯波氏も同じように名門と言われますが、南北期から守護を務め、管領にもなっているのである程度分かるのですが。もっとも細川氏も管領ですが、鎌倉時代は足利一門でも家臣同然の家といわれていたようです。ですから初めて管領に就任した斯波高経は、管領は家来同然の役職と、就任に抵抗したようですが。
さて、吉良家についてですが、長氏が庶長子であったことが大きかったのだと思います。鎌倉時代の足利氏の惣領は義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時-貞氏-高氏(尊氏)と7代。その間で庶長子であって惣領になれなかった者が3人。畠山家の祖の義純(義兼の子)。吉良長氏(義氏の子)。斯波家の祖家氏(泰氏の子)。いずれも足利氏中の名門と言われています。
義兼の母は、熱田大宮司季範の養女(孫)で、季範のむすめの一人は頼朝の母なので、義兼と頼朝は母方のイトコにあたり、その後は家時・高氏を除き、北条家出身者を母とする者が惣領を継ぐ体制にあったことがわかります。家時は父の頼氏が病弱で早くに死去したらしく兄弟がおらず、高氏は嫡長子の兄高義の死後、家督となったようです。庶長子であった長氏の場合も、執権北条泰時のむすめを母に持つ泰氏の存在がなければ惣領になった可能性があったわけで、他の庶長子ともども足利氏の中での格式を高めたのではないかと思います。江戸時代の御三家が、将軍家との血縁関係が遠くなっても、将軍後継を出す家として重んじられたのと、同じようなものだったのではないでしょうか。
次に、長氏の子満氏が越前守護に任じられていることです。鎌倉時代に足利氏の庶子家で守護となったのはこの満氏だけです。また、霜月騒動の時、足立泰盛側について敗死しています。この時に所領が没収されたと思われますので、勢力を落としたものと想像されます。ただ、父親の長氏が健在でしたから、全てが没収されたわけでもないようです。騒動の時の満氏の表記は、足利上総三郎で足利を名乗っていることも吉良氏の足利氏内部での格の高さが表されています。
この霜月騒動には惣領の家時も絡んでいます。家時は騒動の前年に死んだとされる説と、当年に死んだとされる説がありますが、どちらにしても泰盛シンパとして北条得宗家、もしくは北条得宗家の被官である御内方に責めを負わされ、自殺したのではないかとされています。とすると貞義の挙兵も足利氏の意向を受けたもの、もしくは惣領の身替り的な位置づけも考えられるのではないかと思います。外部はともかく、足利氏内部での吉良家の評価は高くなったと思います。
さらに、吉良家の根本所領は三河の吉良ですが、三河の足利氏の所領への指揮監督権を持っていたとのウィキペディアの記述もありますので、その面でも吉良氏の地位を高かめたのではと思います。
以上のように足利氏中の吉良家や斯波家のような有力庶子家が存在したのは、相続法にあったとされています。武士の家では鎌倉時代後期までは惣領制=分割相続が一般的でした。庶子も惣領と同様に所領の配分を受け、惣領と同様に御家人として幕府に出仕します。庶長子であれば嫡子よりも早く幕府に出仕することになります。その中で人脈を築いていき、幕府の役職に就任したり、格式を高めることも可能でした。確かに嫡子惣領の方が庶子より多くの所領を相続し、庶子に対して指揮・監督権を持ちます。幕府からの命令も惣領を通じて伝達されます。ですから、弱小庶子家は、鎌倉期の細川家のように家臣同様な存在になる例も見られます。しかし、有力な庶子家の中には北条氏との関係(被官となるなど)を通じて、独立するものも現れます。北条氏にとっても惣領を中心とする有力武士団が分裂し、勢力を弱めることは望むところであったのではとおもいます。
ところが、鎌倉後期から分割相続から、嫡子単独相続に代わると、所領の相続を受けるのは嫡子惣領一人が原則になります。庶子は惣領の家来扱いになります。そうなると有力な庶子家は派出しなくなります。足利氏でも尊氏以降は関東公方家や堀越公方家以外の有力な庶子家はほとんど出ていません。将軍になった嫡子以外の寺に入れられ、嫡子にもしものことがあった場合、義教・義昭などのように還俗して後を継ぐようになっています。
そのように有力庶子家の派生がなくなると、以前の家格がそのまま固定化していく傾向になり、現実には小さな勢力しか持たない吉良家でも、貴種として扱われたのではないかと思います。

なお、「高家」という言葉ですが、江戸幕府の役職だけでなく、「格式の高い家。権勢のある家。摂関家や武家の名門にいう。江戸時代には公家をさすこともある。」との意味でも使われ、平安時代の使用例が多くあります。普通の高校生が使う古語辞典にも載っていますので、「かうけ」で調べてみてください。
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この回答へのお礼

長々と丁寧な説明ありがとう御座いました。斯波や細川、畠山らの一門衆が幕閣として権勢を振るっていくなかで、家臣団化し相対的に地位を落としていく。
逆に吉良家は、長氏、泰氏兄弟の家督相続に纏わるエピソードの中で足利宗家の吉良氏に対する後ろめたさも相まって、家格を上げていったのでしょうか。

お礼日時:2011/05/19 21:56

徳川家康が吉良家より系図を借りたために優遇せざるをえなくなった


からです
当時の思想により源氏の系図が欲しかったのでしょう
その時に松平から徳川に改姓したのです
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”南北朝 室町 戦国期、足利一門吉良家は足利将軍家に次ぐ高家として扱われてきました。


Ssindengen9 さん高家の意味うを知っていますか?高家とは徳川幕府のせいどであり、それ以前には存在しないはずです。
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今川家のプロパガンダじゃないの?



背景となるのは嘉吉の変で幕閣の主要メンバーが動けず、実力がないがゆえに将軍代理的な位置に立った

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF% …

本当に実力があれば、揉めると推測されます。
代理とはいえ、将軍に近づいたわけですから。しかし まったく実力がなくて家格が高いので 代理にさせられた。

んで、一時でも代理に立った点を捉えて

御所(足利本家)がよくない、ならば 吉良家、(だけど吉良家に実力がない)ならば今川が出張って OK っすね。
というプロパガンダです。

太田道灌の故事はあまり知りませんが、太田道灌の主筋が扇谷上杉家で、上杉家の主筋が足利家(鎌倉御所)という構造で、けっこう扇谷上杉家ともめています。上杉家へのカウンターとして吉良家に敬意を示すのは外交としてはあり得ることかなと思います。

織田信長が主筋である織田の本家を滅ぼすために、斯波家に敬意を示していたのと同じ構造かなと。
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>何ゆえ重く扱われたのでしょうか?



先ず、アジアにある「家族・一族意識」が原因でしようね。
「武家の棟梁である将軍は、源氏の系統・血筋」である事が必要条件との考えが支配していました。
清和源氏は、源将軍・足利将軍と続きましたよね。
武家にとって、足利家は名門中の名門なのです。
(武家でない)秀吉も、義昭の養子になって足利姓になる事を望んだ程です。
義昭から断られても、秀吉は義昭を御伽衆(江戸幕府の高家)とします。

家康としては、正当な武家棟梁の継承者として認識し「足利家に敬意」を払っています。
(織田・豊臣家との対応とは、大きな違いです)
室町時代。足利将軍家は多くの支族を出します。この支族筆頭が、吉良家。今川家は、吉良家の分家です。
血の濃さが優先する時代ですから、足利家・吉良家・今川家の順になりますね。
また、吉良家は「家康が今川家に人質として駿府城に居た頃、一緒に人質」になっています。
吉良義安と家康は「遠い血縁関係」があったのです。(家康の祖父の妹が、吉良義安の母親)
名門足利家の一族であり、親戚関係がある吉良家を優遇しますよね。
徳川将軍家の、権威付けにも利用出来ます。

江戸時代の足利一族ですが・・・。

足利将軍家子孫は、阿波公方として独立した領地を支配していました。
が、関が原の戦い頃から徳島蜂須賀藩の支配・弾圧を受け藩士として存続します。
明治新政府での爵位は「後醍醐天皇に弓を引いた」として、爵位授与を拒否されて無位無官でした。
今は、京都に子孫がお住まいです。

足利家子孫は、古河公方として「5000石で喜連川藩」として幕末まで存続します。
家康から「国勝手」(幕府は朱印状を与えない。つまり、徳川家の臣下でない)との許しを受けていたのです。
ですから・・・。
5000石でも、藩扱い。(1万石なければ、旗本なんですが例外中の例外)
参勤交代免除(徳川家の家臣でないので、人質を江戸に送る必要がない)
江戸に屋敷(江戸藩邸)がない(参勤交代が無いので、幕府から屋敷を貰い事が出来ない)
喜連川当主を藩主と呼ばず「御所(様)」と呼ぶ事を幕府は許した。
明治新政府での爵位は「子爵」です。
こちらは、直系子孫が絶え肥後熊本細川家(足利一門)から養子を迎えたり、幕末には徳川慶喜の弟が養子に入っています。

高家吉良家は、赤穂事件の通りなので省略。

高家今川家は、明治20年頃?断絶しています。
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 私のオタク分野は「城」で、家系ではないのですが、思いますに、権力者にとって、血筋が尊くて、無能で、増長するほどの実績がない人・家系ほど、奉る価値があるのではないでしょうか。



 中途半端に優秀だったりすると、例えば、織田信長の三男坊氏みたいに、殺したくなります。三男坊として、身の程を知って控えておれば・・・ 、雉も鳴かずば打たれまいに、とか秀吉は思っていたのではないかな。

 その最高位にあって、脂気というか権力の臭みが抜けて、まさに純粋な人格だけが残ってしまったのが、今の天皇家ではないでしょうか。歴代の天皇、皇統の方々がみんな後醍醐帝のようなかただったら、きっと誰かが滅ぼしてしまっていたのではないか、と思っています。
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 私のオタク分野は「城」で、家系ではないのですが、思いますに、権力者にとって、血筋が尊くて、無能で、増長するほどの実績がない人・家系ほど、奉る価値があるのではないでしょうか。



 中途半端に優秀だったりすると、例えば、織田信長の三男坊氏みたいに、殺したくなります。三男坊として、身の程を知って控えておれば・・・ 、雉も鳴かずば打たれまいに、とか秀吉は思っていたのではないでしょうか。

 その最高位にあって、脂気というか権力の臭みが抜けて、まさに純粋な人格が残ってしまったのが、天皇家ではないでしょうか。歴代の天皇、皇統の方々がみんな後醍醐帝のようなかただったら、きっと誰かが滅ぼしてしまっていた、と思っています。
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