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南北朝 室町 戦国期、足利一門吉良家は足利将軍家に次ぐ高家として扱われてきました。
今川家は三番目。
今川家に関しては、九州探題・今川了俊や東海一の弓取り・今川義元を輩出していますが、吉良家では目だって活躍した人物(初代・長氏くらいか?)を知りません。
にもかかわらず、何ゆえ重く扱われたのでしょうか?

太田道灌も武蔵吉良家当主(世田谷殿)には敬意を表しています。

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A 回答 (7件)

こんにちは。

私も吉良家がなぜ名門として扱われるのか不思議に思っていました。斯波氏も同じように名門と言われますが、南北期から守護を務め、管領にもなっているのである程度分かるのですが。もっとも細川氏も管領ですが、鎌倉時代は足利一門でも家臣同然の家といわれていたようです。ですから初めて管領に就任した斯波高経は、管領は家来同然の役職と、就任に抵抗したようですが。
さて、吉良家についてですが、長氏が庶長子であったことが大きかったのだと思います。鎌倉時代の足利氏の惣領は義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時-貞氏-高氏(尊氏)と7代。その間で庶長子であって惣領になれなかった者が3人。畠山家の祖の義純(義兼の子)。吉良長氏(義氏の子)。斯波家の祖家氏(泰氏の子)。いずれも足利氏中の名門と言われています。
義兼の母は、熱田大宮司季範の養女(孫)で、季範のむすめの一人は頼朝の母なので、義兼と頼朝は母方のイトコにあたり、その後は家時・高氏を除き、北条家出身者を母とする者が惣領を継ぐ体制にあったことがわかります。家時は父の頼氏が病弱で早くに死去したらしく兄弟がおらず、高氏は嫡長子の兄高義の死後、家督となったようです。庶長子であった長氏の場合も、執権北条泰時のむすめを母に持つ泰氏の存在がなければ惣領になった可能性があったわけで、他の庶長子ともども足利氏の中での格式を高めたのではないかと思います。江戸時代の御三家が、将軍家との血縁関係が遠くなっても、将軍後継を出す家として重んじられたのと、同じようなものだったのではないでしょうか。
次に、長氏の子満氏が越前守護に任じられていることです。鎌倉時代に足利氏の庶子家で守護となったのはこの満氏だけです。また、霜月騒動の時、足立泰盛側について敗死しています。この時に所領が没収されたと思われますので、勢力を落としたものと想像されます。ただ、父親の長氏が健在でしたから、全てが没収されたわけでもないようです。騒動の時の満氏の表記は、足利上総三郎で足利を名乗っていることも吉良氏の足利氏内部での格の高さが表されています。
この霜月騒動には惣領の家時も絡んでいます。家時は騒動の前年に死んだとされる説と、当年に死んだとされる説がありますが、どちらにしても泰盛シンパとして北条得宗家、もしくは北条得宗家の被官である御内方に責めを負わされ、自殺したのではないかとされています。とすると貞義の挙兵も足利氏の意向を受けたもの、もしくは惣領の身替り的な位置づけも考えられるのではないかと思います。外部はともかく、足利氏内部での吉良家の評価は高くなったと思います。
さらに、吉良家の根本所領は三河の吉良ですが、三河の足利氏の所領への指揮監督権を持っていたとのウィキペディアの記述もありますので、その面でも吉良氏の地位を高かめたのではと思います。
以上のように足利氏中の吉良家や斯波家のような有力庶子家が存在したのは、相続法にあったとされています。武士の家では鎌倉時代後期までは惣領制=分割相続が一般的でした。庶子も惣領と同様に所領の配分を受け、惣領と同様に御家人として幕府に出仕します。庶長子であれば嫡子よりも早く幕府に出仕することになります。その中で人脈を築いていき、幕府の役職に就任したり、格式を高めることも可能でした。確かに嫡子惣領の方が庶子より多くの所領を相続し、庶子に対して指揮・監督権を持ちます。幕府からの命令も惣領を通じて伝達されます。ですから、弱小庶子家は、鎌倉期の細川家のように家臣同様な存在になる例も見られます。しかし、有力な庶子家の中には北条氏との関係(被官となるなど)を通じて、独立するものも現れます。北条氏にとっても惣領を中心とする有力武士団が分裂し、勢力を弱めることは望むところであったのではとおもいます。
ところが、鎌倉後期から分割相続から、嫡子単独相続に代わると、所領の相続を受けるのは嫡子惣領一人が原則になります。庶子は惣領の家来扱いになります。そうなると有力な庶子家は派出しなくなります。足利氏でも尊氏以降は関東公方家や堀越公方家以外の有力な庶子家はほとんど出ていません。将軍になった嫡子以外の寺に入れられ、嫡子にもしものことがあった場合、義教・義昭などのように還俗して後を継ぐようになっています。
そのように有力庶子家の派生がなくなると、以前の家格がそのまま固定化していく傾向になり、現実には小さな勢力しか持たない吉良家でも、貴種として扱われたのではないかと思います。

なお、「高家」という言葉ですが、江戸幕府の役職だけでなく、「格式の高い家。権勢のある家。摂関家や武家の名門にいう。江戸時代には公家をさすこともある。」との意味でも使われ、平安時代の使用例が多くあります。普通の高校生が使う古語辞典にも載っていますので、「かうけ」で調べてみてください。
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この回答へのお礼

長々と丁寧な説明ありがとう御座いました。斯波や細川、畠山らの一門衆が幕閣として権勢を振るっていくなかで、家臣団化し相対的に地位を落としていく。
逆に吉良家は、長氏、泰氏兄弟の家督相続に纏わるエピソードの中で足利宗家の吉良氏に対する後ろめたさも相まって、家格を上げていったのでしょうか。

お礼日時:2011/05/19 21:56

徳川家康が吉良家より系図を借りたために優遇せざるをえなくなった


からです
当時の思想により源氏の系図が欲しかったのでしょう
その時に松平から徳川に改姓したのです
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”南北朝 室町 戦国期、足利一門吉良家は足利将軍家に次ぐ高家として扱われてきました。


Ssindengen9 さん高家の意味うを知っていますか?高家とは徳川幕府のせいどであり、それ以前には存在しないはずです。
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今川家のプロパガンダじゃないの?



背景となるのは嘉吉の変で幕閣の主要メンバーが動けず、実力がないがゆえに将軍代理的な位置に立った

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF% …

本当に実力があれば、揉めると推測されます。
代理とはいえ、将軍に近づいたわけですから。しかし まったく実力がなくて家格が高いので 代理にさせられた。

んで、一時でも代理に立った点を捉えて

御所(足利本家)がよくない、ならば 吉良家、(だけど吉良家に実力がない)ならば今川が出張って OK っすね。
というプロパガンダです。

太田道灌の故事はあまり知りませんが、太田道灌の主筋が扇谷上杉家で、上杉家の主筋が足利家(鎌倉御所)という構造で、けっこう扇谷上杉家ともめています。上杉家へのカウンターとして吉良家に敬意を示すのは外交としてはあり得ることかなと思います。

織田信長が主筋である織田の本家を滅ぼすために、斯波家に敬意を示していたのと同じ構造かなと。
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>何ゆえ重く扱われたのでしょうか?



先ず、アジアにある「家族・一族意識」が原因でしようね。
「武家の棟梁である将軍は、源氏の系統・血筋」である事が必要条件との考えが支配していました。
清和源氏は、源将軍・足利将軍と続きましたよね。
武家にとって、足利家は名門中の名門なのです。
(武家でない)秀吉も、義昭の養子になって足利姓になる事を望んだ程です。
義昭から断られても、秀吉は義昭を御伽衆(江戸幕府の高家)とします。

家康としては、正当な武家棟梁の継承者として認識し「足利家に敬意」を払っています。
(織田・豊臣家との対応とは、大きな違いです)
室町時代。足利将軍家は多くの支族を出します。この支族筆頭が、吉良家。今川家は、吉良家の分家です。
血の濃さが優先する時代ですから、足利家・吉良家・今川家の順になりますね。
また、吉良家は「家康が今川家に人質として駿府城に居た頃、一緒に人質」になっています。
吉良義安と家康は「遠い血縁関係」があったのです。(家康の祖父の妹が、吉良義安の母親)
名門足利家の一族であり、親戚関係がある吉良家を優遇しますよね。
徳川将軍家の、権威付けにも利用出来ます。

江戸時代の足利一族ですが・・・。

足利将軍家子孫は、阿波公方として独立した領地を支配していました。
が、関が原の戦い頃から徳島蜂須賀藩の支配・弾圧を受け藩士として存続します。
明治新政府での爵位は「後醍醐天皇に弓を引いた」として、爵位授与を拒否されて無位無官でした。
今は、京都に子孫がお住まいです。

足利家子孫は、古河公方として「5000石で喜連川藩」として幕末まで存続します。
家康から「国勝手」(幕府は朱印状を与えない。つまり、徳川家の臣下でない)との許しを受けていたのです。
ですから・・・。
5000石でも、藩扱い。(1万石なければ、旗本なんですが例外中の例外)
参勤交代免除(徳川家の家臣でないので、人質を江戸に送る必要がない)
江戸に屋敷(江戸藩邸)がない(参勤交代が無いので、幕府から屋敷を貰い事が出来ない)
喜連川当主を藩主と呼ばず「御所(様)」と呼ぶ事を幕府は許した。
明治新政府での爵位は「子爵」です。
こちらは、直系子孫が絶え肥後熊本細川家(足利一門)から養子を迎えたり、幕末には徳川慶喜の弟が養子に入っています。

高家吉良家は、赤穂事件の通りなので省略。

高家今川家は、明治20年頃?断絶しています。
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 私のオタク分野は「城」で、家系ではないのですが、思いますに、権力者にとって、血筋が尊くて、無能で、増長するほどの実績がない人・家系ほど、奉る価値があるのではないでしょうか。



 中途半端に優秀だったりすると、例えば、織田信長の三男坊氏みたいに、殺したくなります。三男坊として、身の程を知って控えておれば・・・ 、雉も鳴かずば打たれまいに、とか秀吉は思っていたのではないかな。

 その最高位にあって、脂気というか権力の臭みが抜けて、まさに純粋な人格だけが残ってしまったのが、今の天皇家ではないでしょうか。歴代の天皇、皇統の方々がみんな後醍醐帝のようなかただったら、きっと誰かが滅ぼしてしまっていたのではないか、と思っています。
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 私のオタク分野は「城」で、家系ではないのですが、思いますに、権力者にとって、血筋が尊くて、無能で、増長するほどの実績がない人・家系ほど、奉る価値があるのではないでしょうか。



 中途半端に優秀だったりすると、例えば、織田信長の三男坊氏みたいに、殺したくなります。三男坊として、身の程を知って控えておれば・・・ 、雉も鳴かずば打たれまいに、とか秀吉は思っていたのではないでしょうか。

 その最高位にあって、脂気というか権力の臭みが抜けて、まさに純粋な人格が残ってしまったのが、天皇家ではないでしょうか。歴代の天皇、皇統の方々がみんな後醍醐帝のようなかただったら、きっと誰かが滅ぼしてしまっていた、と思っています。
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Q征夷大将軍と太政大臣の差

中学の歴史の勉強をしているんですが
平清盛が太政大臣になり そして 源義経によって殺害され 
源頼朝が 征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開きました

そこで 幕府を開いた 征夷大将軍の方が 太政大臣より 上の身分なの? 
と 思ったので 調べてみたら 

とんでもない 太政大臣の方が 上の方だよ

と書いてありました

じゃあ もし 同じ時間に 源頼朝が 征夷大将軍で 平清盛が 太政大臣で
源頼朝が 鎌倉幕府を開いても 平清盛の方が 身分は上なのですか? 

ハチャメチャな話ですみません

Aベストアンサー

なるほど。面白い質問ですよね。とてもいい疑問だと思いますよ。

征夷大将軍→武士で一番上の位。つまり武士のボスです。
太政大臣→これは貴族社会の高い位です。

つまり、単純には比べられないのです。
A中学校の校長先生とB高校の校長先生はどっちが偉いか、というのと同じですなのです。

そして、覚えておいてほしいのはここからです。
貴族社会(中学生なら平安時代とおぼえておいていいです)で、
「俺たち貴族の領地を荒らす者が出てきたぞ!そうだ!武に長けた者を雇うよ!」
ということになって、雇われたガードマンの役目をしたのが武士のはじまりなんです。
貴族が雇い主、武士は雇われる人、こういう風に覚えておいて下さい。

そうすると、貴族社会の高位である太政大臣と、雇われ人の武士のボスである征夷大将軍では太政大臣のほうが偉い人、ということになりますよね。

最後に、あなたのいうような、「清盛と頼朝が同時に存在したらどっちがえらい?」
という質問に答えると、太政大臣にあった清盛が上、ということになるのです。

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q由緒正しき大名

武士の発祥建前は天皇の親衛隊ですが
実際は地方武装集団がおおかたであるとおもいます。
この意味で実際に古くから天皇家につかえる家柄であるといえる大名家はどのくらいあるのでしょうか?

Aベストアンサー

鎌倉以来の家系で、比較的有名な大名は
1. 薩摩の島津家
 初代は島津忠久(1179-1227)、源頼朝の庶子と称しているが、本当は近衛家の家司とも言われる。 いずれにせよ、幕府より島津荘総地頭、薩摩・大隅・日向守護職を任じられているので、古い家柄は間違いない。

2. 喜連川家
 徳川幕府から、石高は5千石ながら、10万石の待遇を受けたので、一応大名の仲間として数えると、室町幕府を開いた足利将軍家の末裔。 足利家は八幡太郎義家の3男源義国を祖とする家柄です。 因みに足利尊氏のライバルの新田義貞は義家の次男義親を祖とし、徳川氏に系図を貸した家柄ながら、子孫の岩松氏は家康の怒りを買い、20石(後に120石)の微禄の旗本に留められてますから、回答からは除外。

3. 南部氏
 東北の大名だが、武田信玄と同じく新羅三郎義光を祖先とする。 鎌倉幕府の御家人であった。

4. 細川家
 源満仲の三男の源頼信を祖とする河内源氏の子孫、室町幕府の有力大名として勢力があったが、衰え、織田信長に仕えた傍流の細川藤孝により、家運を盛り返した。

5. 上杉家
 藤原氏の庶流で公家の家柄だが、宮将軍宗尊親王に従って鎌倉に行き、足利氏と姻戚関係を結んで守護大名となった。 有名な上杉謙信は上杉家の憲政の養子になって、上杉家を継いだ。

ご質問者の由緒正しき大名というのは、鎌倉時代から氏素性がはっきりしている大名ということになりますが、系図が書き換えられることも多く、諸大名は数多くいますが、当てはまる大名はなかなかいません。
将軍家の徳川氏も新田家の子孫と称していますが、怪しいもので織田信長も平氏と言っていても、これもはっきりしません。
下克上を生き抜いた大名は少ないようです。

鎌倉以来の家系で、比較的有名な大名は
1. 薩摩の島津家
 初代は島津忠久(1179-1227)、源頼朝の庶子と称しているが、本当は近衛家の家司とも言われる。 いずれにせよ、幕府より島津荘総地頭、薩摩・大隅・日向守護職を任じられているので、古い家柄は間違いない。

2. 喜連川家
 徳川幕府から、石高は5千石ながら、10万石の待遇を受けたので、一応大名の仲間として数えると、室町幕府を開いた足利将軍家の末裔。 足利家は八幡太郎義家の3男源義国を祖とする家柄です。 因みに足利尊氏のライバルの新田...続きを読む

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q現在でも源(みなもと)さんは居ますか?

天皇から賜わった姓としては「藤原」さんや、「橘」さんが現在でもわりと多いので有名だと思いますが、「源(みなもと)」さんや「平(たいら)」さんは現存しない姓なのでしょうか?
前者はよく聞く名前なのに、後者はほとんど、というか聞いたことないので不思議に思いました。

また、関連した質問として、上記の「藤原さん」たちは鎌足から脈々と続く藤原さんなのでしょうか?それともほとんど関係ないですか?
やはり藤原さんの中でも、教科書にでてくるような藤原氏の血筋の子孫は1%未満ですか?

Aベストアンサー

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和源氏)→久我家(村上源氏嫡流)
平氏  西洞院家(堂上平氏)
藤原氏 近衛家(摂関家筆頭・藤原氏嫡流)
橘氏  ※平安時代に没落
源氏と藤原氏は、細胞分裂のように数え切れないくらいの家に枝分かれしていること
はご承知のことと思います。源氏の足利・新田・武田・今川、平氏の北条・織田、
藤原氏の九条・西園寺などは有名ですね。明治維新の岩倉具視は村上源氏、三条実美
は西園寺の本家筋にあたります。

ですから、古代より脈々と続くこうした「お家柄」のご子孫たちは、上記の近衛・久我とか
九条・西園寺・岩倉・三条とかの家名を現在も名乗っておられますので、現在
藤原・源・平などを名字としている方々は、明治になってから名字としてそれらを
名乗るように決めた家ということですので、少なくとも「お家柄」の子孫ではない
と見るのが無難でしょう。
(だからといって、絶対に藤原・源・平氏の子孫ではない、とは断言できませんが)

なお、藤原道長とか藤原定家、源頼朝や平清盛などは、上記の家名がまだ無いか、
あっても定着していない時代の人物ですので、そのまま藤原・源・平を名乗っています。
藤原定家の子孫は、のちに冷泉家を名乗ります。

あと、橘さんはちょっと微妙ですね。橘氏は家名が成立する時代より前に没落して
しまっているので、家名を持たないまま橘氏のままで明治を迎え、そのまま名字を
橘にした、という地方の旧家があっても別に不思議ではありません。

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和...続きを読む

Q幕末における御三家、親藩の態度

鳥羽伏見の戦いの前後頑固な保守の東北地方は別にして、伊予久松、桑名の松平などの親藩は佐幕派で幕府維持にまわりました。薩長が倒幕を始めたとき特に御三家の中でも筆頭の尾張が官軍方についたのはなぜですか。また他の紀州や水戸、さらには高松など親藩といわれた諸藩はなぜ官軍に味方したのですか。賊軍といわれるのが怖かっただけが理由でしょうか。また、前田家などは場所が東北ではないけどどのような動きをしたのでしょうか。
どなたか教えていただけませんか。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ご承知のように幕末の主な大名家は一橋家の血統に繋がる人物が藩主となり、それに対抗しているのが系統的には水戸の血を引く一橋本家という捻れ現象でした。
尾張藩も例外ではなく、一橋系が藩主を務めていましたが、14代慶勝は支藩の高須家から入った人物で、水戸の血縁ですから、勤王の考えに近い人物です。
家臣も2派に分れ、付家老の竹越を中心にした佐幕派と成瀬を中心にした勤王派で、青松葉事件というクーデターで、慶勝・成瀬ラインが佐幕派の粛正に成功し、官軍に加わります。

紀州藩は元々8代吉宗の実家であり、それ以降も将軍を出しているので佐幕派でしたが、幕末に14代茂承が藩主になると政治的には蚊帳の外に置かれ、15代将軍の当て馬にされたり、長州征伐で冷遇されたために佐幕熱が冷めてしまい、勤王に傾いてしまいました。

加賀前田家は元々日和見な家風ですから、単に情勢を読んだだけでしょう。

Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
豊臣秀吉(の母)の子孫であるとの事だそうです。
だとすれば、現代の皇室は日本史オールスターですね。

残念ながら、どういうわけか私はこの動画を見る事が出来ないんですが
皇室が上記の人物の子孫だというのは、どういう流れになるんでしょうか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

Aベストアンサー

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む


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