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Wikipediaの手取川の戦いを読んだところ、この合戦を記した史料はわずかしかなく、それを誇大に憶測したものではないかという説があるようです。
そこで疑問が幾つかあるのですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96% …

羽柴秀吉が勝手に離陣したというのは本当でしょうか。どういった史料からその話が出てきたのでしょうか?

織田軍の柴田勢1万8千、信長本隊3万というのは、どういった史料から出てきたのでしょうか?

織田信長自身は本当に出陣してきていたのでしょうか?

A 回答 (1件)

>羽柴秀吉が勝手に離陣したというのは本当でしょうか。

どういった史料からその話が出てきたのでしょうか?
信長公記 十巻(天正5年)に
柴田北国相働くの事
八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ侯。滝川左近、羽
柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、不
破河内守、前田叉左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、賀州へ
乱入、添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、
在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗な
され、迷惑申され侯。

無断帰参で激怒されたのは事実でしょう。
このあと松永久秀が謀反を起こしたのが幸いして許されたんでしょうね。


>織田軍の柴田勢1万8千、信長本隊3万というのは、どういった史料から出てきたのでしょうか?
歴代古案における上杉謙信の書状一通からでしょうか

あと長家家譜 (連龍伝)から
同年閏七月謙信再び能州へ発向。
これにより綱連奥郡を引き払い七尾へ引き取りの節、甲山の敵平子和泉・轡田肥後・唐人式部ら半途新崎へ出張し軍を
遮る。
この節宗先は先登敵兵を討ち取り勝利を得、異儀なく七尾へ帰陣。
綱連と一緒に籠城。
ときに畠山春王丸卒去につき、城内の将卒勢気を失いしかば、綱連は信長へ援兵を乞うため、この使いを宗先へ命じた。
これにより同月二十四日七尾を船で発ち、海路を経て安土へ参向し、委曲を菅屋九右衛門長頼をもって信長へ言上した。
信長は許容これありといえども、東南の敵方手づかえの儀につき事は遅延に及ばる。
既にして諸将に命ぜられ援勢のこと定める。
その援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・
前田利家・徳山五兵衛則秀・柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
宗先とともに九月下旬安土を発し、十月上旬先陣が既に加州水島まで着陣のところ、十三人の物見が走り来たり、
「七尾落城と相見え長家一族の首の由倉部浜に首を梟し、さて謙信は松任に着陣の由」これを告げる。

から4万余 ですかね。


>織田信長自身は本当に出陣してきていたのでしょうか?
敵方が2万の大軍ですし大将が後詰にこないとまずいでしょうから。来てたでしょうね。後詰なんで戦ってないでしょうが
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この回答へのお礼

Wikipediaに信長公記にはこの合戦の記述が一切ないとあったので、柴田勝家の手取川への進出や秀吉の離陣とかも書いてないと思ってました。違ったんですね。
勉強になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/08 09:17

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