プロが教えるわが家の防犯対策術!

「陽のあたる~♪坂道を~♪自転車でかっけ登らない~♪」

という替え歌を子供が歌い、仲間にうけてるのを見ました。

子供はなぜ替え歌が好きなのか?
日頃の鬱憤、体制への反発、リベラルな存在への第一歩を無意識的に行っているのでしょうか。

それっぽい答えを期待してます。

A 回答 (3件)

No.1への加筆。

急いで書いたので,あちこち穴がありますが,ひとつだけ。

>替え歌には「権威への反抗」があります。+

仙台のハナタレ小僧は,たぶん無意識のうちに,「東京の全国放送局が強制的に送信してくる権威」にたいして反抗心をいだいたのだと思います。むかしのぼくも,そういう反感をもちました。歴史教科書で,ほんらいは尊敬すべき「偉人」の肖像を,落書きでみんな「聖徳太子」にしてしまうのも,おなじ心理だろうと思います。ぼくは音楽の時間に・・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

子供にルールを強制するのって酷な気もしますが、自由すぎる子供は可愛くないですね。
校長の話、やはり面白いなと感じております。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/14 02:24

> 子供はなぜ替え歌が好きなのか?



この部分へだけの回答です。
替え歌、なぞなぞ、だじゃれ などに多い、何かにかける という思考は、頭の体操になります。
子どもは小さいとき、大人がみて「何で?」と思うくらい、良く手足を動かしますよね。あれは、無意味な動作でも、筋肉を作り、育てるのに必要なことです。
その後は、スポーツなど、意味がある筋肉の使い方を覚えます。
それと同じで、ほどよく高度の思考力が要らない状態で、頭を使う、育てるのに、替え歌、なぞなぞ、だじゃれが向いているそうです。
その少し前は、何でも覚えているって時期がありませんでした? その前は、何でも聞く、という時期。
興味関心を引き、それが何かを確認して知り、それを覚え、までの脳を鍛えた後は、知識を組み合わせて使う、という発想の領域に進みます。
それを思いっきり低レベルに発揮すると、替え歌、なぞなぞ、だじゃれなどの、何かにかける、という練習になるようですよ。

大人のだじゃれ好きも、逆かな? 一部のだじゃれ好きの大人も、ほどよく脳を使って楽しんでいる、ということらしいです。ジョギングの脳バージョンらしいですよ。

ホントかな?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

おぉー!それっぽいですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/14 02:16

何年も前ですが,ある小学校の校長先生が,


 ドはドクロのド
 レは霊柩車
 ミはミイラのミ
 ファはお墓のファ・・・
という「ドレミの歌」の替え歌を朝礼かなにかで歌ったというので,保護者やらマスコミやらに袋だたきにされたことがありました。ぼく個人は,「教育者として軽率」という良識的判断はみとめるものの,シャレのわからん連中だな,それでも日本人かと立腹しました。

1.この本歌は有名な映画『サウンド・オブ・ミュージック』の英語の挿入歌で,日本ではペギー葉山の日本語訳が歌われていますが,ぼくはドクロ・バージョンのほうが<よくできている>と評価します。「ドレミの歌」は,日本では,童歌(わらべうた)のなかの「数え歌」の系統に属します。例えば,
  ♪一羽の雀が言うことにゃ,糸屋の娘は器量よし
  ♪二羽の雀が言うことにゃ,にっこり笑って目で殺す
  ♪三羽の雀が言うことにゃ,さんざん男をもてあそび
  ・・・・
  ♪十羽の雀が言うことにゃ,とうが立ちすぎ行かず後家
というふうな歌です。このとき,
(1)「ドクロ」は仙台地方の子供が歌っていたもののようですが,ほんらい童歌はこのような自然発生的なものであるべきです。誰かがへたくそに作って,全国放送テレビで児童合唱団を率いて宣伝するものではありません。
(2)数え歌は,「ものづくし」とか「意味不明だが妙に語呂がいい」,「僧侶などを徹底してからかう」などの形式をとることがあります。「ドクロ」はこの点でも,「黒不浄づくしで死を笑いとばす」または「言挙げによって死をてなづける」という,まさに正統形式を持っています。作者がどこのハナタレ小僧かはわかりませんが,たいした言語感覚の持ち主です。死というものが手の届く現実である養老院で歌えば,たしかにブラックすぎますが,作者が子供自身であることを忘れてはいけません。

2.替え歌には「権威への反抗」があります。ぼくは音楽の時間に教科書のすべてに替え歌をつけて遊んでいましたが,音楽教師にびんたを食らいました。その痛みによって,「体制とは何か・反体制とは何か」を身をもって(言葉よりも先に)学んだのです。レジスタンス替え歌には,作者不明の名曲があります。たとえば,
 「軍艦行進曲」→「金玉の七不思議」
 「愛国行進曲」→「見よ東条の禿頭」
 「ヒノマル」→「白地に黄(きな)く」

本来,教師というものは,むろん大学教員であるぼくも含めて,基本的には体制側の存在です。教わるほうが手強い反体制(ひらたくいえば「やんちゃ」)であれば,こちらも安心できますが,最近はその基盤が危ういのではないかという不安があります。子供は悪たれ連中で遊び回ることをしなくなりましたから,替え歌のような「健全な子供文化」が伝承されなくなっています。この校長がどんな人物か,どんな発言状況だったのか,ぼくは知りませんが,文化を伝承しようと自ら馬鹿を演じた「おせっかいな人」だったんじゃないかな,と感じる部分があります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

興味深い回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/14 02:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!