プロが教えるわが家の防犯対策術!

今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。

どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景
2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
4)墨俣城の主な役割

など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか?
1つでもお答えいただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

A 回答 (13件中1~10件)

1)桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、京に上るため、美濃攻めを決行します。

しかし美濃は兵の数も多く、地形的にも守りやすく攻めにくい。そこで急所となる墨俣に城をかまえて、攻めやすくしようとしたのです。しかし墨俣は、城を築くには不便な地形であり、そのため幾度か失敗に終わっています。そこで秀吉が登場したわけです。

2)かかった日数は3日です。というより、秀吉が3日で築城してみせると信長に約束してしまったのです。関わったのは秀吉の部下50人ほどと、蜂須賀小六の部下200人。

3)城の建設は、従来は現場に材木等を運んでから骨組みを作ったりしていましたが、秀吉は、寸法どおりに材料を仕上げるのは別の場所でおこない、それらを夜のうちにいかだに組んで流し、現場で拾い上げるという方式をとりました。そして材料があつまったところで一気に組み上げるのです。いわばプレハブ方式ですね。プレハブ方式なら組み立てはあっという間ですから、材料を運んでいるところさえ見つからなければ城の建設を隠しとおせたのです。内部の工事は、外部が完成し城としての形が整ったあとでゆっくりやったわけです。

4)1)でも書いたとおり、美濃を攻めるための要所ですね。前線基地です。


こんな感じでよろしいでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答下さって、有難うございます。
正直、この質問でこんなに早い回答がいただけるとは思っていませんでした。
嬉しいです♪

1)これは斎藤道山(こんな字だったでしょうか?)との戦いだったのでしょうか? 
何故、藤吉郎にこの話が回ってきたのでしょう??
…美濃攻めというのは、納得ができました。

2)3日で出来たんですか!すごいですね。驚きました。
これは、「城の外壁」と考えてよいのですよね?

3)この方法は考えもつきませんでした!
頭がいいですね~。感動です!

4)なるほど。では、後にしっかりとした形で残したのも「要所の城」と考えればいいんですね。

質問が度重なるところがあり、すみません。
もう少し教えていただけたら、有難く思います。

大変参考になりました。有難うございました!

お礼日時:2001/05/01 02:47

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景


書けば長くなる・・・

2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
実際には一夜ということはないですよね
それでも数日で堀と塀を作って相手の攻撃に備えれるようにしたらしいです
その間は相手の邪魔に対しては柵をたてて鉄砲などで応戦したらしいですよ

3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
いまでいう2×4、すなわち壁などをあらかじめ作っておき
筏(いかだ)として目的地まで運んでそれを起こして壁にしたと言われます
たぶん当時の城などの建築物は骨組みの間に竹を編んで
土を塗っていたと思うので(いわゆる土壁ね)時間が掛かっていたので
墨俣の作り方は画期的だったでしょうね

4)墨俣城の主な役割
稲葉山城を攻めるための足がかり

ちなみに1~4の質問の文章を以下の検索エンジンの
キーワードの部分にいれてみたら?
このエンジンは単語ではなく文章から適当なページを検索してくれるそうです
なんでしたら
”墨俣城を作るまでの歴史的背景。実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将。どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?。墨俣城の主な役割 ”
といった文章で検索をかけてみては?
http://www.mycom.co.jp/
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この回答へのお礼

こんな夜中に詳しく有難うございます。とても嬉しいです♪

1)そうですね…。私もそうは思ったんですけど、知りたくなってしまったもので…。

2)あ、建設中にも敵に見つかったりもしたんですか?!
「まったく見つからずに建築した」と勘違いしていました。
勉強になります。

3)本当に画期的ですよね!本当に驚きました。
私はお城の建築方式なんて、まったく知らなかったのですが、これまた勉強になります。

4)はい。わかりました!

今、少し教えていただいたURLで検索してみたのですが、沢山の文献が見れるんですね!
大変有難かったです!!
今日はもう、眠いので(^^;)明日、じっくりと検索してみます。

本当に大変参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 02:58

おはようございます。


戦国時代は、阪神に次いで好きなジャンルです。
実際には一夜では出来ませんでした。あまりの早さに”一夜”とついたんですね。
豊臣秀吉が一夜で作ったのは小田原城攻めの際に築いたのが一夜城とそのままの名前がついてた記憶があります。

因みにpeitaさんのお礼に書かれていることについてですが、斎藤道三(字はこれです)とは信長は娘と結婚していて同盟関係にありましたから、実際美濃攻めを行ったのは道三が死んで子の義竜の時代だったと思います。
藤吉郎に話が回ってきたのは、他の方が書かれている通り、墨俣は美濃攻めの最前線基地で稲葉山城からは丸見えで柴田や佐久間といった重臣たちが失敗を繰り返してたんですね。その時の軍議でここがアピールのしどころと感じたんでしょうね。
藤吉郎は末席に座ってたらしいんですが立候補して受け入れられました。

すいません。今、時間が無いのでこの辺で・・・。
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この回答へのお礼

takesamaさん、おはようございます。(本当に今起きました(^^;))
最近、よくお会いしますね。
(「お好み焼き」と「オリックス」以外は気が合いそうですね♪)

ありゃ…「道三」でしたか(^^;) うろ覚えなもので…ご指摘有難うございます。

私の記憶だと、斎藤道三が生きている間だったと記憶していたんですが、違ったのかな?
たしか、道三と義龍(字はこっちだったような?)と愛妾を奪い合い、鷺山城と稲葉城に分かれて険悪ムードだったような…???
たしかに、道三は信長を気に入っていたので、直接対決したいとは思わなかったとは思うので、やっぱり息子のほうとの戦だったんですかね。

藤吉郎は自分からそんなに積極的にアピールしたんですね。
すごいですね~。
それで成功してしまうのですから、本当に生きた時代があっていたのでしょうね。(今のような平和な時代に産まれてきていたら、名を残せなかった1人なのかな?)

今は時間が無いとのとこなので、ある時に、よかったらじっくり教えて下さい。
不躾なお願いで申し訳ありませんが、ご教授いただけたら大変嬉しく思います。

大変参考になりました。時間が無いにもかかわらず、教えて下さって、有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 11:41

只今、お昼休みです。


義竜については、義龍の方が普通ですよね。失礼しました。
墨俣城築城は、1566年。道三没が1556年といわれております。(因みにおっしゃるように子の義龍に攻められて没しました。)よって、道三相手ではないことは確かです。
で、訂正なんですがこのときの斎藤氏の主は義龍の子の龍興でした。重ねてお詫び申し上げます。(良かった。誰かに駄目出しされる前で・・・。)
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この回答へのお礼

貴重なお昼休みを割いていただいて、有難うございます。
そうだったんですね。
どうも私は「道三」「義龍」「龍興」「信長」の関係がよく把握できていなかったので、わかり易い説明で助かりました。

「義龍」「龍興」は「信長」に好印象をいだいていなかったようですね。
こうなると、「秀吉」の歴史を調べる前に「信長」「美濃」あたりを重点的に調べる必要がありそうですね。

後、ちょっと「墨俣城」のついて調べていたら、建設日数が60日くらいとか、人員数5~600人とか、ところによって1,200人とか…???
訳がわからなくなってきました(^^;)
この辺りのことも、takesamaさんはご存知でしょうか?
本当にお暇なときでいいので、考察等、お聞かせいただけますか?

また、質問が増えてしまってすみません。m(__)m
本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 13:05

yayupuu3さん、お返事ありがとうございました。

ご質問に関しては他の方々が答えてくださっているのでいいかなとは思ったんですが答えます。

このときの戦は、対斎藤竜興です。道三の孫ですね。子の義竜はもう亡くなっていますから。(確か道三を殺した敵として、信長に攻められ亡くなったはず・・。とにかく失脚していることは確かです。)信長は道三を尊敬し、また道三も信長のことをたいそう買っていました。子や孫はそれに反感をもっていたようですね。

あと、秀吉に築城の役がまわってきたのは、他の方がおっしゃっているとおり、秀吉が立候補したからです。前の回答でも述べたとおり、墨俣に城を築くのは並大抵のことではできませんし、実際何度も失敗に終わっています。ですから信長が人を募っても、そう簡単には「我こそが」という人がいなかったのです。秀吉は、これこそが信長に気に入られ出世できるチャンス、あるいは信長様のお役に立てるチャンス(おそらく両方でしょうが)と考えたのでしょう。なんにしてもアイディアマンの彼にとっては、自分の力を信長に知らしめるためのまたとない機会であったわけです。


と、こんなところでよろしいでしょうか?だらだらとわかりにくくて申し訳ありません。お役にたてれば幸いです。
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この回答へのお礼

peitaさん、本当に何度も有難うございます! 大変感謝しております。
わかりにくい…なんてとんでもないです!
大変わかり易い説明で、有難いかぎりです!!

義龍は信長に殺されていたのですか…。
勉強になります。
道三と信長の関係を考えると、子や孫が反感をもったというのもうなずけます。

「日吉」のころから秀吉は、信長のことを大変尊敬していたようですね。
この機会を生かせたのは、秀吉が本当に優秀な人材だったからなのでしょうね。
「何度も失敗に終わっていた」…というのは知りませんでした。
きっと藤吉郎もいろいろなアイディアを考えていたのでしょうね。

大変参考になりました。本当に有難うございました!

お礼日時:2001/05/01 13:24

はい、はーい!!戦国武将フリークの顔も持つtakesama再度登場でーす。

と、書き出しは威勢が良いのですが先にお詫びいたします。(お詫びばっかり・・・)ご丁寧な返事を頂きましたが、正直なところ良く分からないのが現状です。
ただ、夢のない現実的なお話をさせて頂きますと、そもそも文献自体、誰贔屓なのかで誇張表現などが加わりしばしば、混乱を招きます。”ヤマカン”の語源とされる武田家軍師の山本勘助はその存在自体が怪しいとされています。(史料的には「甲陽軍艦」でしか登場しないはずです。)さらに、僕の一番好きな真田幸村をご存知ですか?そうです。真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵は有名ですね。)を連想させる武将です。しかし、この真田”幸村”とする良質の書物は現存してないのは有名な話です。真田信繁というのが正しい名前です。

墨俣城については僕は「太閤記」で3日と読んだ記憶があるのですが、「太閤記」自体が秀吉贔屓の書物ですから、実際はもう少しかかったかもしれません。しかし、一夜ではないのと、筏を使って今で言うところのプレハブ工法を採用したのは間違いないようです。

的確なお答えが出来ずに戦国武将フリークの僕としては悔しい限りなのですが、これ位が言い訳としては精一杯です。申し訳ない・・・。

それと、peitaさん。回答を横取りしたみたいな形になって、もし気を悪くされていたら御免なさい。
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この回答へのお礼

もぉ~、takesamaさんってば…出だしでかなり期待しましたよ!
そして落胆…(・;)
いいんです。気にしないで下さい。
大体、現在生きている人間には、過去の書物からしかわからないのが事実で、正確なことは、その時代を生きてきた人間にしかわからないのです。
ただ、私も「戦国時代」は比較的好きな分野なので、興味がわいたんです。

takesamaさんはいろいろな書物を読んでいるようですね。
「太閤記」私も読んでみようかな?
普段は「教えて!goo」ばっかりですから、ちょっとは離れたほうがいいかもしれません…。

「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。
最近は「新撰組」に興味を惹かれて、そっちが多いなぁ…。
今回の質問に関しては、むかーーーしに「信長」のレポートを書いたことがって、その時のかすかな記憶からなんです。
でも、あまりにも昔の記憶すぎて、ほとんど忘れておりました(^^;;)

いろいろとご配慮いただき、本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/02 09:50

takesamaさんへ。

(yayupuu3さんへの解答欄にごめんなさい。)
そんな、横取りだなんて思ってませんよ!気にしないでくださいね。
確かに墨俣に関する話は虚構も含まれるでしょうね。秀吉自身、話ふくらますの好きそうですし(笑)。
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この回答へのお礼

peitaさん、私は全然気にしていないから大丈夫ですよ(^^)
お礼欄に新たな質問をしても、回答を下さらない方もいらっしゃって、takesamaさんもその辺のことを配慮して下さってのご回答だと判断しております。
「会員同士のコミュニュケーション」がはかれるのも、このサイトの良い部分だと思っておりますので、あまり気になさらないで下さいね。
他の方のやり取りを見ているのも、私には楽しいです♪

お礼日時:2001/05/02 09:58

横から失礼します。


墨俣城ではなく斎藤家についての補足を。

義龍が道三(秀龍)を攻め滅ぼしたことは間違いないです。
理由に付いては義龍の実の父は土岐頼芸(美濃国の前国主、道三に追放された)であり、その復讐だったという説が有力ですが、事実かどうかは今となってはわかりません。

義龍は1561年に没しています。病没と言われます。
可能性としては信長による暗殺もないとは言えませんが、彼の死が直接美濃奪取につながっていないことからも可能性は低いと言えるでしょう。
織田軍との戦闘で死亡という説は聞いたことがないですし、当時の状況から言えばかなり難しいのでは。
(信長の尾張統一が59年、桶狭間が60年と間もない時期ですので大規模な戦争を起こすのは難しい時期だと思われます)
跡を継いだ龍興は愚将と言われることが多い人ですが、それでも6年に渡り織田軍から美濃を守り通したほどなのですし。


墨俣についても少し。
現代人が城と言われると、つい姫路城などの立派な建築物を想像してしまいがちですが、戦国時代以前の特に前線の城というものはもっと小規模な、砦のようなものだと思ったほうがいいです。
特に墨俣のように目的(美濃制圧)が達成できれば価値のなくなる城だとなおさらでしょう。
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この回答へのお礼

> 横から失礼します。
なんて、とんでもない!
わざわざこの質問に回答して下さる為に、会員登録して下さったのかな? なんて感じましたから、涙がちょちょぎれるほど嬉しいです~!!!

「道三」「義龍」「龍興」の関係を判り易く解説して下さって、本当に有難うございます!
やはり、道三は義龍に攻め滅ばされていたのですね。
「義龍」の死因については、いろいろな説があるのですね。
本当に勉強になります。

「墨俣城」についても、認識不足でした。
いろいろと検索していたら、立派に「お城」としての建築物のように見受けられたので、「砦」という形が思い浮かばなかったんです。
これもまた、勉強になります。

いろいろと検索していて、思ったことですが、
「墨俣城」に直接足を運んだほうがいいように思えました。
「資料館」もあるようですし…。
ここが私の疑問を晴らす、最善の場所のように思えました。

miskaさんのご回答、大変参考になりました。
本当に有難うございました!

お礼日時:2001/05/02 10:37

またまた、しつこくやってまいりました。

(好きな分野はどうしても、複数回になってしまいます。御免なさい。)

直接の回答ではないので余談としてお聞きください。
>「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。
許しません!!それは、冗談ですが、「戦国時代」が比較的お好きだということなので、真田家について。
徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。真田軍が破ったのは、家康自身が率いたのではないのですが、武田軍の時は徳川軍が圧倒的不利にもかかわらず、戦いを挑んで惨敗しました。しかし、対真田軍は、圧倒的に徳川軍が大軍を率いておりました。でも、真田昌幸(幸村のお父さん)の見事な采配で、徳川軍が勝ちを得ることが出来なかったのです。

ね。巨大戦力に立ち向かう、弱小戦力。しかも、弱小戦力の勝ち。何かに似ているとは思いませんか?yayupuu3さんなら、必ず好きになると思います。

よって、「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。15巻くらいありますが・・・。

質問の回答にはなっておらず、しかも押し付けがましいい文章になってしまい、さらにはただ単なる自己陶酔的な文章になりましたので、わざわざお礼をつけていただかなくても良いです。
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この回答へのお礼

おほほ(*^。^*) 私のコメント欄はお読みになっていますか?
「お返事だけは100%保証(?)です」と書いてしまっているのですよ(笑)

「真田太平記」ですね。図書館に行って、探してきます♪

何度でも嬉しいですから、あまりお気になさらずに。
何度も足を運んでいただき、有難うございました。

追伸:質問回答に関係なく発言できるところをみつけました。
興味があれば…私の回答した質疑の中です(^^)←多いけど…
(pさんの「納豆」もお返事済みです)

お礼日時:2001/05/04 10:55

再び横槍を入れさせていただきます。


僕も真田家は大好きなのですが…

> takesamaさん

> 徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。

武田軍も、三方ヶ原の前年に三河に侵攻して小競り合いながら勝利しています。
というわけで最低二度は勝っていることになります。
…というより、実際のところ徳川家って単独で勝った戦いはほとんどないんですよね^^;
# 姉川、長篠、関ケ原などは徳川家とは言えないでしょう

> 「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。

太閤記は秀吉の伝記に伝統的につけられるタイトルなので、一本の小説と比較するのは無理があるかと。


と書いた直後になんですが、お薦めの小説ということで。
司馬遼太郎の一連の戦国モノを薦めておきます。
・国盗り物語(全四巻、道三、信長、明智光秀の話)
・新史太閤記(全二巻)
・関ケ原(全三巻)
・城塞(全三巻、大坂の陣)
※巻数は全て文庫版
それぞれけっこう厚い本ですが、都合がいいことにこれだけ読めばこの話題に出てきた人物に付いては一通り知ることができます。
もちろん、小説なので(これは真田太平記にも言えますが)全て事実だと思ってしまうのは危険ですが。
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この回答へのお礼

あら~みんなしてぇ、どんどん話が反れちゃうんだから♪
見ていて楽しいですけどね(^^)

オススメ本を紹介していただきまして、有難うございます。
まだ、図書館に行く前で良かったです。
「国盗り物語」「新史太閤記」「関が原」「城塞」……っと…メモメモ。
文庫版というのは有難いですね。
頑張って、読破しまーす!

参考になりました。miskaさん、本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/04 17:59

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