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江戸時代の人口分布は何故いまと比べて全国に均等に分布しているのですか?
この謎が分かれば現代でも人口集中の問題が解決できたりして・・・・なんて思いました。
下にグラフとグラフをお借りしてきたサイトのURLを添付しておきます。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html

「江戸時代の人口分布について」の質問画像

A 回答 (5件)

江戸時代の人口は最大でも3000万人程度。

安土桃山時代が約1500万人で260年で2倍に増えたということ。大飢饉が起きれば餓死者が出て、人口が減少し、農業技術の進歩や灌漑技術の進歩によって新田が開発されながらゆっくりと増えていったのです。人は食べ物がないと生きられません。自給自足経済では食糧生産力が人口を規定するのです。石高が多い藩は多くの人口を養えるし、石高が少ない藩は少ない人口しか養えない。それが江戸時代。
それが今や約1億3000万人。ざっくり1億人増えました。140年で4倍以上に増えたということ。明治以降、イギリスやアメリカからお雇い外国人を招聘し、最新の農業技術を導入し、稲の品種改良を進め、土壌も改良し、新しい作物や酪農なども導入した。農民が自分の判断で栽培する作物を選べるようになった。機械化・合理化が進み、労働集約型農業から土地集約型農業に変わった。

そういった成果によって食糧生産力が増大しました。江戸時代、ほとんど手付かずだった北海道も開拓され、稲作、酪農、畑作が行われるようになった。アメリカから移植したリンゴが青森県の特産になった。岩手山の極度に痩せた酸性土壌で江戸時代に放置されていた土地が小岩井農場になった。

しかし、食糧生産力が4倍に増えたかというと、そうではない。さすがにそこまでは増えていません。農地が増えたともいえません。江戸時代の農地のある程度は、居住地・道路・鉄道用地・商業用地・工業用地などに転用されたからです。それが顕著なのは都市部です。練馬大根は江戸時代、練馬村の特産品になりましたが、練馬村はいまや練馬区となり、練馬大根もほとんど栽培されていません。日本の食糧自給率は約40%です。もし自給自足なら5000万人前後しか食べさせることができない。では残りの8000万人は何を食べているのか。海外から輸入した食糧を食べているわけです。輸入代金をどうやって稼いでいるのか。工業製品を海外に輸出して稼いでいるのです。

江戸時代の工業の形態は、家内制手工業、問屋制家内工業、工場制手工業といったものです。製品も国内需要に応えるだけです。動力は人力以外は水車しかないわけです。工場といっても菜種を絞って油にしたり、米から日本酒をつくったりするものです。原料も販路も農村なのですから、農村から遠く離れるメリットがない。また輸送手段も船しかないわけです。長州藩では長州四白と呼ばれる米・紙・塩・蝋の清算を奨励し、かつ統制しました。それはどの藩でも同様で、どの藩も地域の気象条件や特性に適合した産業開発を推進したわけです。こうして江戸時代は幕藩体制によって地方都市が栄えることができたということです。

明治以降の欧米から導入した最新の土木技術、建設技術によって都市部のインフラを高度化することができて都市部で多くの人口を抱えることができるようになった。インフラにはハードだけでなくソフトもあります。上下水道、物流、電気・ガス、新聞、廃棄物処理、防災、治安維持、交通、医療、教育などのインフラが無いと都市は機能しないのです。都市にはそうしたインフラ機能を担う人員も必要になります。東京23区の人口密度は14,425人/km²にもなるのです。

以上をまとめると、以下のようになります。
1.農村では、より少ない労働力で多くの食糧を生産できるようになった。
2.海外との貿易によって工業製品を輸出し、食糧を輸入し、多くの人口を養えるようになった。
3.海外輸出を主とする工業は農村部に近接する必要がない。
4.インフラの近代化・高度化によって都市部で多くの人口を抱えることができるようになった。

現代何が問題かというと、農村部の人口が減りすぎて、農村部のインフラ機能を担う人員を確保できなくなっていることです。インフラが無いと機能しないのは都市部だけでなく農村部も同じです。同じ金額をインフラに投資するなら人口集積度の高い都市部に投資したほうが効率的なのは自明です。
同じ人員を擁するなら都市部の方が効率的なのは自明です。
例えば医者にしても人口が少ない農村部より人口が多い都市部の方が儲かるわけです。

従来は地方自治体が税金を支出して、非効率な農村部のインフラを維持してきた。それが国家財政、地方財政の赤字の本質的原因なのです。しかしこれ以上、借金を増やせない。それが農村部のインフラ切捨て、サービスレベルの低下です。その例が国鉄赤字ローカル線問題でした。

今、私たちが本気で考えなければならないのは、これ以上非効率な農村部のインフラを維持していくのかどうかです。維持するとするなら、安易な税金支出はできないという現実があります。自民党が批判される理由も結局はそこなのです。いままで安易に農村部に税金をばらまく方策ばかりに頼りすぎたのではないか。そういう不満が民主党政権を生んでしまった背景です。

現代日本人は本当に頭を使わなくなってしまった。現代日本人は江戸時代に学ぶべきではないのか。長州四白によって長州藩を振興させた長州藩の知恵を思い出すべきではないのか。そのようにも考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!詳しく書かれていて本当に勉強になりました。
この問題は私が考えていたよりももっともっと難しいようですね。
私も自分で色々調べてみます。ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/19 00:19

 米の生産を基礎とする農業社会では、人口分布が農地の分布に比例しているのは当然だと考えられます。

これが工業社会になると、主要資源である石炭や鉄鉱石の産地が偏在しているので、人口分布も資源産出地あるいは貿易港など立地条件が優れた場所に集中することになります。チューネンの農業立地論やウェーバーの工業立地論が、それぞれの社会の資源と人口の分布を取り上げています。

 産業の中心が無形のサービスを生産する第3次産業に移ると、情報入手面でもっとも有利な大都市に経済活動が集中することになります。過密過疎の問題が深刻化した高度成長期は、まさに第3次産業へと主役交代した時代でした。

 したがって、産業構造変化の方向をを逆転することができれば、以前の人口分布に戻ることが可能になるかもしれません。

 ところで、江戸時代晩期のコメの生産高はほぼ3000万石、人口は3000万人強でした。大まかにいえば、1人1石です。

 大名の石高は1万石から100万石まで大小さまざまでしたが、城下町の人口は、それぞれの石高の約1割で、かなり人口分布は不均等でした。江戸の人口は1最盛期で00万人、当時世界最大の都市だったと言われています。

 また、明治初期、府県制度が施行されたとき、人口が一番多かったのは東京や大阪ではなく新潟県でした。ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!新潟県が一番多かったとは以外でした。

お礼日時:2011/10/17 00:06

農作民が多く又農民が農民を捨てる事が出来なかったからでしょうね。

職業選択の自由は無いですから。決まった年貢を納めて先祖代々農家。もしそこから抜けるならば渡世人になるしかないと聞いてます。
またそういった脱落者を出した家は村八分にされるともあります。村を捨てることは当然許されない事なのです。
農民は旅をすることもままならず。山の向こうの世界を知らないとも言われていました。そのくせ地位は商人より上なんですけどね。よく云う士農工商でしょ。商人でも通行手形が無いと関所も越えられないですから土地を出ると云う事は大変だったのでしょう。
大河や水戸黄門ばっかり見てると感覚ずれちゃいますけど。差別はもっとひどかったようですよ。士農工商・・ですからね。最後の方は平地にも住めず人間扱いされてません。後に民とかでいまだに差別する人がいますよね。
そんな世界が現代の参考にはならないですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!おっしゃるとおり昔の常識はそのまま現代では通用しませんね。学べることはありますが

お礼日時:2011/10/16 14:26

社会を形成するのには、人口集中の方が色々便利だけど、昔は諸事情から人口が分散されていた。


現代はその諸事情が解消され、人口集中の傾向にある。

ということでしょう。

諸事情は、
人口集中しても農地は集中させられないから、都市とは別に農村が必要
輸送手段に乏しい時代は、都市と農村は近接している必要がある(農地-都市が各地に点在)
稲作は単位面積当たりの生産エネルギー量は多いが、人手がたくさん必要(農地の人口↑)
辺りのことが、このサイトの中で農業革命と産業革命、と言っている部分だと思います。



極端な話、農業の問題さえ解決すれば、過疎化した地域の住民をみんな都市に移住させて、過疎化地域を放棄すれば、インフラ整備などの必要もなく、社会資源を効率よく利用できるし、天災で山奥の村が孤立、とかいうことにもならないし、無医村とかなくなるし、いいこともあるのでしょう。
震災で被災した地域を、復興しない、という選択肢もあると思います。
ファイナルファンタジー7というゲームで、世界を支配している企業の社長はテロで崩壊した地域の復興をしない、という選択をしてましたしね。まぁその社長は直後に死ぬ運命でしたが。

ただ、それは人道的ではないです。
効率重視でヒトのココロを無視したような政策は、少なくとも民主主義では通りませんから。
被災者よりも増税されて困る人の方が多くても、日本人の感情として「被災地を放棄」できないでしょう。


人口集中の問題はいろいろと掲げられますが、人口集中がすべて悪であるわけではないと、私は思います。
単純に人口を分散させるよりも、上手に人口を集中させる方が、みんなの幸せの総和は大きくなると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!そうですね、人口集中にも人口分散にもそれぞれ利点がありますからどっちが絶対にいい、というわけではないですよね。ご意見ありがとうございました

お礼日時:2011/10/16 14:24

一言でズバッといってしまえば、工業国ではないからです。



工業国の場合、都市に多くの労働者が必要です。逆にいえば都市にいけば仕事があって現金収入が得られる。そうなると人の流れは都市に集中します。
しかし江戸時代の日本のどこにも工業都市はありません。江戸は政治都市だし、大阪は経済都市でした。だから、ある程度の人の需要があっても、それ以上に人を必要とはしなかったのです。

あともうひとつは、交通手段がないこと。基本的に当時の日本は農業国ですから農地すなわち地方で生まれる人が多い。そういった人たちがどこかに移り住みたいと思っても、鉄道もありません。自分の足で歩き、身の回りのものも背負うか荷車に載せるかしないといけません。
鉄道ができるまで、人は自分が生まれたところから半径15キロ以上のところに移動することは滅多になかったそうです。これは日本に限らず、世界中どこでも同じだそうです。どこでも歩いていかなきゃならないと思えば分かりますよね。15キロなら、歩いて4時間くらいかかる距離です。まあ行動範囲としてはそのくらいの広さが限界でしょう。日のあるうちに行って帰ってこなきゃならないとなれば、15キロ半径がいいところではないでしょうか。

都市に行く手段もないし、行ったところで食っていけるアテがあるわけではない。そうなるとわざわざ生まれた場所を捨ててまで都市に行く必要はないということになります。

まあおそらく移動を禁止されていたから、という回答が寄せられると思うのですが、それも一因ではあったとは思いますが、例えば現代の中国でも基本的に地方から都市へ勝手に移住することは禁じられていますが、地方から都市への人口流出が止まりません。理由は、都市に行くと工員などの仕事があって現金収入が得られるからです。今より豊かな生活ができるかもしれないとわかるから都市に人が流れるのです。
法律で禁じられたからといって人の流れまでは止められません。旧東ドイツが崩壊したのも、禁止されていた人の流れを最後は止められなくなったからです。

日本でも人口分布が明らかにいびつになったのは戦後どころかまあここ20~30年くらいの話です。で、戦後若者がなぜ都市に向かったのかというと、そこに仕事があったからです。いくら娯楽施設が多いとかどうとかあっても、そもそも仕事があって収入を得ないと消費もしようがありません。
ただ、日本ではちょっと諸外国にはない特徴があって、いわゆるスラム街がほとんどないのですね。仕事のない人たちがとりあえず都市の周辺地域に溜まって、失業したまま住むのでスラム化する、という都市のお約束が日本の場合はありません。そこはユニークなところだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!なるほど現実的な回答で納得できました。日本にスラムが無いのは言われてみると本当に盲点でした。

お礼日時:2011/10/16 14:18

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