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1,「国人」っていうのは、鎌倉時代からあった地頭や悪党や荘官が、その地に根をおろして、領主になったものですよね?

2,国人はそれぞれの領地に居住していたはずですが、彼らは農民じゃないから惣村には住まないでしょう。だとしたら、いったいどこに屋敷を構えていたんでしょうか? (支配領域のなかにはいくつかの惣村がふくまれていて、それとは別に、居住するための直営地みたいな集落をもっていた、っていうことですか?)

2,国人は、上からは守護の統制にしめつけられていたし、下からは惣村の発達に悩まされていました。そういう情勢のなかで、上下の圧力にたいして妥協・抵抗をくりかえしつつ、力をつけていったものと理解しています。←間違っていませんか?

3、「名主」というのは有力農民だから、ようは惣村の一員だったんですよね? 惣村のリーダーみたいな存在だったんですか?

4,名主は、国人とちがって、もし富をえて武装したとしても、地頭とか国人とかにはなれなかったのですか? いくら出世しても、惣村内部の乙名・沙汰人みたいな、せいぜい「地侍」止まりなんでしょうか?

A 回答 (5件)

NO.4の続きです。


中世は日本史学が一番解明が遅れている時代です。学者にとっても中世を理解するのが難しい。だからいろんな学説が分かれている。古代の政治システムが破綻し、さりとて近世の武家政権も確立されていない。そういう中途半端な時期で、朝廷の正史編纂事業もまとまらなくなって、かといって幕府が編纂した正史もない。なくもないのだけど、断片的な史料しかなくて、中世になってから新たに歴史の舞台に登場してきた階層の史料がないのです。古代も近世も日本全体に共通する内容があるのだけど、中世は地域によって歩みが違うのです。何もかもが整っていなくて、様々な階層が自分にできることを必死にやってきた。何が正解か分からない。誰にも将来のことなど分からない。そういう過渡期的性格を持つ中世に生まれたのが国人、地頭、悪党、領主、名主、地侍、乙名、沙汰人といった人達なのです。どれも朝廷が定めた役職ではありません。鎌倉幕府、室町幕府が定めた役職も地頭だけ。だから、どの用語もその概念を理解するのは難しいのは当然といえる。それは教科書や参考書の執筆者にとっても難しいのです。どういう風に表現すれば、生徒につたわるだろうか。いくら悩んだところでうまく説明するのが難しい。だから結局お茶を濁すような表現になってしまう。例えば、ある氏族が突然、史料に現れたりするわけです。ではその氏族は古代には何だったのか。天皇の末裔なのか、貴族の末裔なのか、帰化人の末裔なのか、百姓からのし上がったのか、その経緯が全然分からなかったりする。どう呼ぶのが適当か分からないから国人と呼ぶ。高校生なら、それは仕方の無いことかも知れないが教科書や参考書だけを基にして理解を深めることはそもそも無理なのです。

最後に別なアプローチもあることを示して、私の回答を終えたいと思う。

それは特定の地域、特定の氏族に着目して歴史を理解するというアプローチです。例えば山城国です。今は京都府の一部になっちゃってます。古代、中世、近世、近代、現代とどういう経緯を辿ったのだろうか。そういう視点で調べてみる。それが特定の地域に着目するアプローチ。

特定の氏族に着目するとは、例えば織田氏に着目する。教科書を見ても織田信長が戦国大名として台頭してきた程度のことしか書かれていない。では織田信長の先祖は、古代・中世は何をしていた人だったのだろうか。そういう疑問を持って調べてみる。そうすると何代か遡ると、もう何をしていた人だかよく分からなくなってくるわけです。織田信長ほどの人物でもそうなのです。分からないことは分からないとしておくしかない。所詮、歴史学には限界があるのだということが分かってくるだけでも十分なのです。

なんにせよ、歴史へのアプローチは、用語の解釈学ではない。端的にいえば、私がどうしても伝えたいのはそれだけなのです。

以上
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NO.2の続きです。



「名田の解体 → 大土地所有の名主が減って、中小の独立農民が増える → 小規模化に細分化した名主層と、新しくおこった中小の独立農民が結びつく → 惣村の発達」ということが、名主が持っていた下層農民に対する支配力を相対的に低下させ、もはや彼らに地頭・国人のような在地領主化は望めなくなった。

これは全然間違いです。それならなぜそう指摘しなかったかといえば、質問者さまに問題解決のアプローチに気づいて欲しかったからです。

現代日本人の歴史に対するアプローチは全然間違っている。どこの誰が書いたか分からないような教科書の用語の表面だけに捉われ、その用語を覚えて、それで勉強したような気になっている。それは全く間違った勉強のやり方です。辞書で言葉の意味を引いて、理解しようというアプローチが全く間違いなのです。しかし学校の社会や歴史の先生も自分がそんな勉強のやり方だったから、それが間違いとも気づかないわけです。その間違いに気づかない限りは永久に歴史を理解することはできない。その間違いに気づかない限りは永久の真の歴史など見えてきません。

基本的なところから理解しないと、いくら質問と回答をやりとりしても、さっぱり埒が明かない。

古代の班田制がどうして破綻したかといえば、百姓に土地の経営能力が無かったからです。だから個人単位に税を納めるという制度は実現不可能だった。税が払えないから、離散・逃亡してしまう。そうなれば、戸籍も把握できないし、実態も把握できない。班田制の破綻によって、国司請負制に収税システムが移行します。百姓を個人単位に朝廷が把握できないから、国司がまとめて朝廷に納税しろというのです。しかし百姓に土地経営能力が無いという問題点はそのまま。だから当然にして税が集まらない。ではどうするか。非課税法人である寺社や貴族に土地を寄進するわけです。土地には当然にして百姓も張り付いているわけだけど、百姓ごと寄進してしまう。そうなれば、公領の全体面積が減るから少ない税金でも、それを朝廷に納めて辻褄があうわけです。そうして寺社や貴族の領地になった土地を荘園という。公領を国衙領という。念のため説明しておくが、これは荘園の成立の経緯を全て説明しているわけではありません。土地が虫食い状態になった経緯を説明しているだけだと理解してください。不良債権を売り飛ばすような寄進の他にも、国司が貴族や寺社の歓心を買うためにも寄進しているのです。実態は横流しなのだが、朝廷に対しては、かくかくしかじかで寄進しますと合法性を装っているわけです。そういう小出しの切り売りによって土地は様々な領主の入り乱れるモザイク状態に陥るわけです。そうなっても相変わらず百姓には経営能力はない。だから領主は、有力農民に収税を代行させるようになった。それが名主なのです。前に大家に雇われた管理人と例えたけど、株主に雇われた経営者と例えた方が適切だったかもしれない。そういう名主が経営していた土地を名田というのです。以上は平安時代の話。名主は収税をとりまとめる義務を負ったが、それが出来の悪い百姓に貸しをつくる背景になったわけです。借りができても百姓には返すあてなどない。だから新田開発の労務を提供して借りを返したりするわけです。名主にすれば、それは非公式に手に入れた財産みたいなもの。そういう土地は誰も守ってくれるわけではない。だから武装して自分で守ろうという意識が生まれたわけです。歴史を作るのは人の意識です。それが一番重要なことです。平安時代末期に平氏が勢力を伸ばしました。これは何を意味するかというと自分が開発した土地が平氏に奪われて、自分はすってんてんになった武士もいるということなのです。奪われた土地を奪い返すために武士になったようなもの。そういう一族が源氏につらなる武士団なわけです。源平合戦は、目出度く源氏の勝利になった。朝廷は平氏討伐を呼びかけた。それに応えたのが源氏です。平氏に恨みを持つ武士が源氏の元に総結集したということ。朝廷から命令されたから戦ったという単純な話ではない。奪われた土地を取り戻す絶好のチャンスだ。戦を起す大義名分を得た。したたかな源頼朝は、平氏討伐といっても軍資金が要る。百姓から税を取り立てる権利を分けてもらいたいと朝廷に掛け合うわけです。それが守護や地頭という公的役職です。源頼朝は公的役職の任命権を得て絶大な権力を握ったことになる。そうなれば守護や地頭に任じられたいと考える御家人はよりいっそう忠誠を誓うわけです。
これが鎌倉幕府の成立につながっていきます。しかし朝廷を頂点とする政治体制も残っています。国司も国衙領もそのまま残っているのです。鎌倉幕府の成立は、平氏領だった荘園が没収されて源氏と御家人に再配分されたということなのです。そうなると平氏系の名主は全員没落かというとさにあらずで、あわてて源氏軍に加わったりしてなんとか地位を保つ名主もいるわけです。だから天運・地運・人運が無いと財産を守れないというのです。最後まで平氏に忠誠を誓った名主だけが没落したわけです。

こういうことが合戦の都度、政変の都度繰り返されるわけです。

「大土地所有の名主が減って、中小の独立農民が増える」
これは間違いです。名主は大土地を所有などしていない。中小の独立農民が増えたのではない。

土地の経営能力を持つ百姓が増えたのです。一人前の農民が増えたということなのです。独立ではなくて自立なのです。もう他人から手取り足取り指導されなくても自分の足で立てるということです。それはどうしてか。鎌倉時代に仏教と文字が庶民にも普及したからです。貨幣経済の進展によって財産を持ちたいという欲に目覚めたからです。農業技術の進歩によって、安定した収穫が得られるようになってきたからです。働けば働いた分だけ財産になるということに気づき、それを実現できることが分かったからです。そうなると戦乱や治安の乱れから土地を守ろうという自覚も生まれます。自分がやらねば誰がやるという自負も生まれるのです。それが名田の解体なのです。

従来、領主の収税の都合で区分けされていた土地が、農民側の都合で区分けされるようになったのです。それが名田の解体の意味です。地理や血縁や自治や共同作業の単位で農民が団結を深めて惣村と呼ばれる形態が生まれていくのです。
それは農民の自立的成長による社会変化です。百姓がやっと名主のレベルに追いついてきたということです。守護や地頭の横暴に対抗する為に村民で団結しよう。皆で村の治安を守ろう。皆で村のルールを決めよう。皆で助け合って農作業を進めよう。それで名主の指導的地位までが失われたわけではない。村人の村政への参加意識が生まれたということです。それに伴って惣村請と呼ばれる納税システムが生まれる。村の経営陣が地頭と交渉して村全体で一括して納税するというシステムです。
従来の名主は指導的立場として経営陣にも参加しています。しかし、もう名田という納税単位は存在しないのです。
名田の解体とは、従来、百姓間のトラブルが名主一人の裁量で解決できていたのが、より民主的な方法で集団指導体制で解決されるようになったということでもあります。時代が進むにつれて、利害対立が複雑化して問題のレベルが高度化してきたからです。

平安時代の名主の家系は、武士を目指した流れと農業経営に専念した流れがあります。どうして2に道が分かれたか。それは個人の出世願望とか、そんな話では全然無い。時代の流れにどう対応したかという問題なのです。誰にも将来のことなど分かりません。一人一人は自分はどうすればご先祖様に顔向けできるだろうかと考えただけなのです。

武士は武士、農民は農民という2つの社会があったわけではないのです。家として分かれただけで、それぞれの社会があったわけではないのです。

どうすれば家を守れるのか。どうすれば先祖の名誉を守れるのか。どうすれば先祖の財産を取り戻せるのか。一人一人の頭の中はそれだけです。農民のままで良いと思えば農民だし、武士になるしかないとなればなんとしても武士になるのです。それが鎌倉幕府に裏打ちされた立場の武士を御家人という。自分だけ武士といいはっても意味がないのです。公的な場で手柄を立てる。時の実力者から認知される必要がある。

室町時代に幕府から公的に認知された職は守護だけです。そうでない武士は守護の家臣として組織化されるか国人として独自の勢力を保つかどちらかしかなかったわけです。

現代日本人は自分が持つフィルタを通して歴史を単純に理解しようとする姿勢があります。それがとんでもない間違いを引き起こす。それは歴史家や教科書執筆者にも共通する問題点です。

どの時代の人もその時代の枠組みに合わせて、守りたいものを守ろうとした。そういう欲が歴史を作る原動力です。自立心というのは、自分の足で立つという心です。法律も警察も裁判所も自分を守ってくれないとなったらどうしますか?自分がその時代の人になりきって考えてもらいたい。

原野みたいな土地を開拓して農地に変えた。その土地を他人に奪われたらどうしますか。誰に訴えますか。自分がその立場で考えてみれば良い。

文字数制限にかかりそうです。この辺で閉めます。
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この回答へのお礼

毎回、丁寧な解答をありがとうございます。


>名主は大土地を所有などしていない。中小の独立農民が増えたのではない。
このへんは、すっかり誤解しておりました。

no.3のお礼コメントにも書いたのですが、中世史はとくに難しくて、荘園とか名田とか惣村なんかの概念が、私にはなかなかうまく掴めません。
大学受験だったら、論述問題と言っても、ひたすら教科書・参考書を覚えるだけでどうにかなるから、たぶん合格点が取れるぐらいには分かっているつもりなんですが…。(汗)
専門的に研究をやりたいわけじゃないし、ほかの科目との兼ね合いもあるから、そんなに日本史ばっかりやっていられませんが、自分で参考書を読んでいろいろ勉強していたり、こういうお話を聞いていると、興味・疑問がつぎつぎと湧いてきますよ。

このたびは回答を読ませてもらって、すこし理解は深まりましたが、まだまだ中世史を痛快に分かったとは言えなくて、教科書に載っている用語をうまく有機的に関連づけられなくて、もどかしいです。

お礼日時:2011/10/27 23:38

 他の方が詳細に説明されているようですが逆に理解しづらくなっている模様です。


日本の中世社会を説明するキーワードは「職の体系」と「在地領主制」です。
「職の体系」とは文字どおり職の重層的体系のことであり、平安末期に確立されたとされる荘園・公領に対する支配の体制であり、本家職・領家職・地頭職・公文職等の職を保持する支配者の体制を特徴的に表現した概念です。
 荘園制的支配をこのように規定したのは永原慶二であり、当初「職」とは国家的秩序によって保証される荘園法および国衙法的に代表される古代的な性質を有するものであるとし在地領主が封建領主として未成熟であったためこの様な「職(職権)」を保持しそれを媒介とすることによる以外に支配を行い得なかったとしていましたが、後年では「職の体系」の発生を律令の郡司職および郷司職に求め次第に上級の職に及んでいくこと。それは補任関係から解放されぬ官職(公権)であると共に世襲的財産(私権)であるという二重性を持ち職の補任・宛行と軍役を媒介とする封建的主従関係が必ずしも一致しないことから職の体系は封建的ヒエラルヒーとは見なし難いことを補足しています。
 「職」そのものに関しては負担付きの不動産物件と規定する法制史家の中田薫・石井良助の見解、職の保持が土地支配と異なる点に着目した朝河貫一、公権的性格を強調し封建的関係は職の体系解体後に成立したとする牧健二の見解があり、この見解は戦後の石母田正に継承されています。
 これに対し公的性格を持つ職の保持は在地領主制形成に積極的意義を有しこのため職はそれ自体が封建的土地所有の表現であるとする見解が戸田芳実・河音能平によって主張され、黒田俊雄は職の体系そのものが封建的ヒエラルヒーであると規定しています。
 これらの基本的相違は(1)色の公権的性質を古代的と見るか封建的と見るか、(2)職の体系を封建的主従性とは異質なものと見るか、或いは同質と見るか、の違いです。
 この両者に対し、「職の公権的性質」それ自体に土地支配の論理、主従静的関係に人間支配の論理を見いだし「職」にはこの二つの支配の原理が共存すると説明するのが羽下徳彦であり、「職の体系」の根底部分に中世村落における構成的支配と家父長的支配の二重構造があると説明するのが大山喬平の理解です。
 「職の論理」に関して、13世紀以後に現れる名主職(みょうしゅしき)や作職(さくしき)や商工業者の職についてこれを農民・商工業者の成長に伴う現象と評価する点では異なる見解はありませんが、それを職の体系解体後の現象と評価して平安から鎌倉期の「職」と異なる存在と評価する永原などに対し網野善彦は職の体系そのものがそれ自体の矛盾の深化の中で発展した結果、現れてきたものと評価しています。

 これらの説明に基づきますと
(1)「国人」の中には古代の郡司などの系譜を有する者もいれば、荘園の管理者として在地での実際の支配にあたる者(受領など)もいる。更にいえば、中世後期の「国人」と中世前期の「国人」ではそこに含まれる階層も異なります。(2)「惣村」とはわかりやすくいえば、農民自らが「検断権」を確立した自治支配を行っている村落。その中には村の長などの代表者も含まれる。
の基本的な理解に誤解が含まれているとも感じられました。
 武士だから普段は館にいるとはかぎりません。武士としての職務は幕府に対する御恩奉公ですから、呼び出しがあればその都度、軍事力を提供しますが日常的には農民と変わりありません。田畑を耕すことなどごく普通のことです。唐突に「惣村」の問題を持ち出していますが、中世社会を理解するには何よりも「荘園」および「荘園公領制」を理解する事が大切です。
 そして中世を通じて、いわゆる「一揆」が現象としてみられますが、これも幾つかの段階があります。そこに関わる人の階層による区分もあれば一つの荘園や村落を単位とする区分などもあります。
 歴史学のみならず学問に携わるには「先ず自らのアタマの中を真っ白にクリアする」ことが最低限求められます。それは現在の物の見方がそのままでは通用しないことによります。
 質問事項を散見させていただいたところでは、一見「中世に関する知識」が豊富の様に見られますが実際にはゴチャゴチャで雑多な時代の知識それも通俗書に書かれている事項を鵜呑みにしている点が多々見られます。
 身分と財力や軍事力の関係と中世的身分構造の特質などは関係のない問題です。中世的身分構造は同時に階級的支配の問題と階層的秩序の問題です。
 こうした点を踏まえて勉強なさってください。
 以上、企業勤務と大学及び大学院で日本中世史研究に携わる二足草鞋の者からのコメントでした。
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この回答へのお礼

荘園とか、職の論理には、たくさんの学説があると聞いていましたが、本当にいろんなふうに研究が進められてきたんですね!!
高校の教科書とか用語集だけでは、荘園やら惣村がどういうものだったか、なかなか理解が及ばないことが多いんです。

わたしは複数の教科書・資料集を買って、それらをベースに受験勉強しているのですが、どの本も「職の論理」にぜんぜん言及されていません。「職の論理」という言葉は、市販の参考書ではじめて知りました。しかし、いまだに理解がアヤフヤです。(汗)

日本史の研究者を目指したいわけじゃないから、受験のためには用語暗記を中心に、表面的な理解だけで事足りるのでしょうが、気になって調べていけばいくほど、中世史は常識では分からないことが多く、疑問がたくさんわいてきます。

お礼日時:2011/10/27 23:18

どうも説明が不味かったようです。

まず時間の認識をはっきりさせる必要がある。また個人と家の区別もはっきりさせる必要もある。この辺が不明瞭だから議論がかみ合わないものになっているのです。

「名主は、国人とちがって、もし富をえて武装したとしても、地頭とか国人とかにはなれなかったのですか?」

という質問は、何代か前の先祖が名主だった地頭や国人がいないのか?という意味なら答えはNOです。そういう家系がひとつもないことは証明不可能だからです。地頭や国人の出自はまちまちだった筈です。しかし全ての家系について先祖の階層が証明されているわけではないのです。だから武士起源論が論争になっているわけで。

まず理解していただきたいのは、どの時代の人もその時代の法律、制度、仕組に応じて生きているということです。どの時代の人も、未来の子孫の繁栄を願って生きているということです。できるなら子孫に財産を引き継ぎたい。赤の他人に奪われたいと考える人など誰もいないのです。自分に子が無いなら、誰か財産を守ってくれそうな身内の人間に跡をつがせたいと考えるのです。それが家という概念です。

ところが中世という時代は、法律も制度も仕組も全然整備されていないのです。役所なんてものがない。登記所がない。土地の所有権という概念が確立していない。財産を築いても、それを預ける銀行もない。証券会社もない。株式も債券も預金も何にもない。土地の権利書もない。こういう時代にどうやって自分が開発した田を子孫に引き継げばいいのか。まずそういうことを理解していただきたい。

だから出世コースではないのです。たまたま、そういう流れにのった家もあったかも知れない。しかし、それはたまたまそうなっただけの話です。うまく時代の流れにのって、そういう経路を通った家もあったかもしれないということなのです。

「平安末期には名主が名田の経営で富をたくわえて、在庁官人とか開発領主とかになって、その中からは武装して後の地頭・国人になる人々もあらわれた。それが出世コースだった」

出世の為に武装したわけではない。資産を守るために武装したのです。資産を守るために鎌倉幕府にはせ参じて地頭になったのです。資産を守るために武士団を組織化していたら、いつのまにか国人と呼ばれるほどの家になってしまっただけのことです。それはそういう家もあったかも知れない。しかし全ての家がそうだったわけでもない。

武装したくて武装しているのではない。武装しないと資産を子孫に引き継げないから武装するのです。他人に奪われたくないから戦うのです。戦いたくて戦っているのではない。

質問者さんは「用語」だけに捉われすぎているのです。確かに歴史はそういう理解も必要なのでしょう。しかし、歴史を理解するには、その時代の人々の息遣い、営みを理解することがなによりも重要なんです。

奈良時代以前には子孫に引き継ぎたい資産など何もなかったのです。誰もが自分が食べるだけで精一杯。国司から要求されただけの税を納められるかどうかだけが関心の全てです。納められなきゃ逃げる。守る土地が無いのだから、土地にしがみついて戦う意味がないのです。

それが平安時代になると逃げない。土地を子孫に引き継ぎたいと考えるからです。守りたい資産ができたのです。人から与えられた土地ではない。自分が開発した土地だからです。しかし、どうすれば守れるのか。その手段が名主だったのです。平安時代に個人単位だった収税が田単位に変わっていくのです。なぜなら税を納められない百姓が逃げてしまって管理ができなくなってしまったからです。だから国司は、有力農民に眼をつけて、収税のとりまとめを任せたわけです。その名主が収税を負かされた田を名田というのです。収税のとりまとめといっても、時には出来の悪い百姓の分の税も代わりに納めさせられたりするわけです。立替払い金を貸し付けた格好です。そういうことがつもりつもってくると馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるわけです。それではどうやって未収立替払い金を回収すればいいのか。そこで考えたのが、払えない百姓を使って新田を開発し、その土地を貴族や寺社に寄進して荘園にしてもらって、自分を荘園領主から名主に雇ってもらうということなのです。その荘園を寄進系荘園という。これはひとつの例として説明しているけど、全ての名主がそうであったわけではない。百姓を支配したという言い方があるけど、それはこういうことなのです。百姓の方も借りをつくった弱みがあるから、新田開発を手伝えという命令を断れない。平安時代は、他の百姓に貸しを作ったことが資産なのです。有力百姓にとっては貸しを取り立てる権利が資産なのです。その資産を守るための地位が名主なのです。しかしはなはだ心許ない地位でもある。コンビニのバイトのようにいつ首になるかわからない。何も保証がない。それは荘園領主自体が心許ない地位だからです。だから武装する必要ができた。そうしないと資産を守れなかったからです。荘園を剥奪されない為に、横着な百姓に命令する為に、他の武士に土地を奪われない為に。

「名田の経営で富をたくわえて」というのは、名主として税を取りまとめている仕事をしているうちに他の百姓に対して貸しができたということなのです。その貸しを具体的に形とする為に百姓を使って「開発領主」になった家もあるということなのです。開発する土地を守るために武装した家もある。そういう家が後に地頭や国人になった家もある。いろんなレベルのいざこざを武装して解決する必要があったから武装したのです。警察も裁判所もない。自分で戦わないと誰も守ってくれるわけではないのです。

地頭になる家というのは平安時代末期に鎌倉幕府に仕えて、功を為した武門だけです。それは平安時代末期の戦乱で源頼朝に従って共に戦った家だけです。そういうチャンスが無かった武士は、地頭にはなれません。

「4,名主は、国人とちがって、もし富をえて武装したとしても、地頭とか国人とかにはなれなかったのですか? いくら出世しても、惣村内部の乙名・沙汰人みたいな、せいぜい「地侍」止まりなんでしょうか?」

ですから、地頭とか国人がいる鎌倉時代や室町時代で、まだ名主の家系は『もう手遅れ』なのです。平安時代に名主だった家にはチャンスがあったかもしれない。チャンスを活かした家もあったかも知れない。しかし、鎌倉時代や室町時代で名主の家系では、武装しただけでは何も起きないのです。そうなる為には戦乱が起きて手柄を立てるチャンスが必要です。チャンスといいながらチャンスとは限らない。逆にピンチかも知れない。時流に乗れなければ、負け組に入って、もう敗者復活の機会は訪れないかもしれない。

家にも先発・後発があるから、後発組が先発組である地頭・国人に追いつけることはありません。せいぜい地侍として地頭や国人の家臣団の末席に加えてもらうのが精一杯ということなのです。

だから4.の答えはyesです。

だれからも認められる実績が無いと、周囲から認められることはない。いいかえれば名主としてのキャリアは全然武士としての実績にはならないのです。

そろそろ回答を締めさせてもらいたいと思う。まわりくどいぐらいに冗長な回答になったかも知れないが、それは質問者さんに質問者さんが何を理解できていないかを気づいて欲しいからなのです。

現代人は必ず余計な思い込みを持っていて、それが歴史を理解する障害になっている。だから、この手の質問に答えるのは誰でも億劫なのです。その障害を外から取り除くのは大変な難事業だからです。

私もその試みがどれほど成功できたものか。

この回答への補足

おかげさまで、「武装する=武士化=出世のため」という捉え方が、かならずしも適当でないってことを理解できました。
時代の変遷とあわせて、名主がその時々でどういう立場だったのかも、だいたい納得がいきました。

ところで、わたしが前回(No1)のお礼で述べた“勝手な推測”は、因果関係としては妥当なんでしょうか?
しつこく訊いて、スミマセン…。
↓↓↓
鎌倉末期から室町時代に至るまでには、「名田の解体 → 大土地所有の名主が減って、中小の独立農民が増える → 小規模なほうへ細分化した名主層と、新しくおこった中小の独立農民が増えてくる」という流れがあった。
つまり、かつて平安末期の名主が持っていたような「下層農民に対する支配力」みたいなものは、名田の解体と、中小独立農民の増加にともない、鎌倉末期ぐらいから相対的に低下していった。
それゆえ、地頭や国人になりそこねていた後発組の名主は、もはや個々の力では下層農民を強権的に支配する力がなくなってしまっていた。
しかも、その周りには、すでに地頭やら国人やらが実力をつけていて、名主がみずから武士団を組織するチャンスは完全に失われていた。
こういう情勢のなかで、名主層は自己の権益をまもるために、惣村形成へと向かっていくことになる。

補足日時:2011/10/26 15:02
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この回答へのお礼

たしかに、歴史の勉強をしていると、現代の常識がまったく通用しなくて、落とし穴にはまることが多いです。
近代的な意味での「政府」「所有権」という概念はなかったのだから、誰がどうやって人民・土地を支配していたのか、いつもアヤフヤで分からなくなってしまいます。

中央の政治制度とかはまだ分かりやすいですが、高校の教科書を読んでいるかぎり、とりわけ地方のことは難しいですね…。
農業をやっている人のなかにも、時代ととにもいろんな階層が出てきて、けっして一様じゃありませんでしたし、彼らの上に寄生して収入を得ていた中間搾取層も、複雑に入り組んでいることが普通ですし。

ご指摘どおり、用語には、あまりこだわらないようにします。そういった用語の裏がわに、どういう背景があったのかを、しっかり理解していきたいと思いました。

お礼日時:2011/10/26 14:31

1.だいたいそうだけど、ちょっと違う。


荘官というのは荘園の管理人というほどの意味で、荘園の主である貴族から雇われた立場の武士なのです。現代でいえば大家さんから雇われた賃貸マンションの管理人みたいなもの。荘官は鎌倉時代以前からあるし、鎌倉幕府とは関係がないのです。鎌倉幕府は諸国に守護・地頭を設置したが、荘官上がりの地頭もいたし、新たに任命されて現地に派遣された地頭もいた。鎌倉幕府は武士政権だけど、全国の武士がすぐ鎌倉幕府によって組織化されたわけでなく、朝廷-貴族のラインで荘官だった武士もいるわけです。それが承久の変の後の戦後処理で朝廷側の貴族の領地や武士の領地が鎌倉幕府に没収されて、人事異動が行われる。悪党というのは鎌倉幕府に反抗的だった武士の総称、というか鎌倉幕府が勝手にそう悪口をいっていただけだから、その正体はまた別な話。
いずれにせよ地方で独自の勢力を保った武士を室町時代に国人と呼ぶようになったわけです。国人は元は荘官や地頭や悪党だったといえなくもないが、3つの出身母体があったかのように理解しては間違いです。荘官でありながら地頭でもある。荘官でありながら悪党でもある。これはどちらも矛盾していないのです。

2.惣村という概念と村落という概念を混同してはいけない。惣村は実態としては村落ではあるのだが、全ての村落が惣村であったわけでもない。惣村は荘園や公領に対立する概念です。従来、領主に支配されるだけだった百姓が自分たちの権利に目覚め、自分たちの権利を守るために、自立し自治を守ろうとした時代の流れによって生まれた概念が惣村なのです。従来、領主の都合で区分けされていた土地とその境界が意味を失って、地理的にまとまってきたということなのです。といっても現代の市町村のように明確に行政区画が定まっているわけではない。そのような制度が確立していたわけではない。
国人がどこに住んでいたかといえば平時は村落に住み、有事には山城に立て篭もるパターンです。山城といっても山というほどでもなくてせいぜいが小高い丘のようなところで、城というほどでもなくて砦みたいな建物です。そこだと生活は不便なので平時は村人と一緒に村落に住むのです。これはあくまで一つのパターンであって皆が皆そうであったわけでもない。土地の地理、地形は千差万別ですから。

2(二つ目の)守護の統制とは早い話が軍事動員指令です。兵士を何人出せ、軍馬を何匹だせ、弓矢をいくら用意しろと好き勝手な命令が来る。時には敵対する2つの陣営から矛盾する指令が来ることもある。たまったものではありません。いったいどっちについたものか。敵対する国人の領地を奪うチャンスに利用できるのか。何か恩賞は期待できるのか。課しを作っておけば、後で助けてもらえるだろうか。いろんなことを考えるわけです。負け馬についたら、自分が領地を失うだけだから必死です。そこで他の国人の動向や考えも探りを入れてみる。時には国人領主連合を結成して団結力で守護の無理難題に対抗する。それが国人一揆。力をつけていった国人もいれば、負け馬についていって没落した国人もいるし、他の国人に滅ぼされる国人もいるしまちまち。定型的な消長のパターンがあったわけではない。家が栄えるか没落するかはいつの時代も天運・地運・人運によるのです。

3 名主というのは時代によって意味が変わっている。元は名田の雇われ経営者というほどの意味。百姓が自立していないのです。田があっても、いつ田植をすれば良いのか、いつ稲刈りをすれば良いのか自分で判断できない。人から命令されないといつどんな農作業をすれば良いのか全然わからない。そういう百姓が当たり前の時代に何もかも自分で判断できて他人に的確な指示も出せる百姓もいた。それが有力百姓という意味。現代の農家は誰もがいっぱしの経営者です。しかし中世はまったく違うのです。おらどうすれば良いか教えてくんろという百姓ばかりなのです。そういう百姓は所定の年貢を納められない。予定の収穫を挙げられないのだから当たり前。そういう他力本願的百姓を指導したのが名主です。村人が皆それなりの収穫を挙げられるように指導し、年貢を納められるようにするのが仕事。それが名田を経営するという意味です。時には村を代表して領主とかけあう。時には領主の命令を村全体に広める窓口。

4 武装するかどうかは富とは関係ありません。武装だけなら戦場で拾い集めた武具でも武装はできる。そんなことではない。武装が必要だったら武装する。武装で身が立つなら武装する。それだけの話。
国人というのは武士を組織化した武士団の棟梁でもあるのです。一人だけ武装しても国人になるわけではない。一族郎党・親戚などが全部武士でそれらを取りまとめられる力量が無いと国人など務まりません。名主は百姓は取りまとめることができても所詮は百姓なのです。そう簡単に武士の真似事などできない。
乙名・沙汰人も有力百姓です。そういう立場で惣村の経営に参画して集団指導体制を構築したというか。
地侍というのは百姓出身だが武士志願で、武士団の下っ端に加わっていった連中のこと。武士団に加われずに武士志願の連中をかき集めて野武士になった人もいる。それは出世コースでもなんでもないのです。二男三男で土地の相続を受けられず、武士として身を立てる道を選んだ、百姓が嫌になって武士の道を選んだ。自警団のように村と契約し村に雇われた地侍。いろんなパターンがあるが、富があるから武士を目指すというものではないし、それが出世コースだったわけでもない。そういう野心家・冒険家もいたかもしれないが、名主として村人から尊敬される立場の人間が何が悲しくて武装する意味があるのか。

このへんで回答になっているかな。
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この回答へのお礼

なるほど、あやふやだった知識に、だいぶ整理がつきました。
ありがとうございます!!


4,
>名主として村人から尊敬される立場の人間が何が悲しくて武装する意味があるのか。

ここはちょっと、疑問が残りました。
私は一応、「平安末期には名主が名田の経営で富をたくわえて、在庁官人とか開発領主とかになって、その中からは武装して後の地頭・国人になる人々もあらわれた。それが出世コースだった」というふうに理解していました。
もしそうだとしたら、鎌倉時代・室町時代にはそういう変動も少なくなって、名主はもっぱら農業経営者とか惣村指導者という立場に落ち着いた。…っていうことですか?


ちなみに、鎌倉末期になると「名田の解体」という現象があったと思うんですが、それも名主が農業経営者・惣村指導者としての立場に落ち着いたことに、なにか因果関係があるんでしょうか?

わたしの勝手な推測だから間違っているかもしれませんけど、
「名田の解体 → 大土地所有の名主が減って、中小の独立農民が増える → 小規模化に細分化した名主層と、新しくおこった中小の独立農民が結びつく → 惣村の発達」ということが、名主が持っていた下層農民に対する支配力を相対的に低下させ、もはや彼らに地頭・国人のような在地領主化は望めなくなった。
……なんていう感じだと思いました。

お礼日時:2011/10/25 17:58

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