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映画「御用金」(五社英雄監督)では、船で敦賀、下関を廻る西回りルートで江戸に運んだとしていますが、危険な海運より、陸で運んだ方が確実だと思います。
ちなみに「御用金」は天保年間の設定です。
よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

こんにちは。


bungetsuです。

「補足」で質問の件に付き述べます。

これは、「田中清六」と家康の結びつきを基にしたものと考えます。

田中清六:
http://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin …

清六は北前船をあやつり財を成し、織田信長に取り入り、秀吉にも仕え、秀吉が死去すると家康に奥州で捕まえたという白い斑点のある「鷹」を献上して取り立てられたと言われています。
慶長5年(1600)冬家康の命で佐度代官に任命され佐渡に渡り、上杉氏の代官河村彦左衛門から佐度を受け取っています。

やがて、相川金山の発展とともに他国からの「一攫千金」をもくろむ人々があふれかえり、加賀藩では佐度への渡航禁止令まで出す始末となり、清六はもともとは北国海運の廻船主でしかなかったため、人々を治める行政手腕に欠けていました。

従って、清六一人では金山労働者を支配することができず、慶長7年(1602)、家康は譜代の家臣の吉田佐太郎と中川主税(上のURLでは「合沢主税」となっていますが、正しくは「中川主税」です)を応援代官として佐渡に派遣しました。
しかし、物価の高騰や農民への増税などで治安は悪くなる一方でした。

そこで、慶長8年(1603)、家康は銀山巧者大久保長安(おおくぼながやす)を新たに佐度銀山代官に任命しました。
この時、中川市郎兵衛、鳥井九郎右衛門、板倉隼人の3人の横目(査察官)を同行したところ、新穂村半次郎、羽茂村白井勧兵衛、北方村豊次郎らが年貢の取立てが増加していることなどを直訴し、その結果、田中清六は罷免されました。

慶長9年(1604)、清六は敦賀に居を構え、再び、北国廻船の経営に乗り出しました。

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あなたの質問や補足との整合性:

(1)確かに、江戸時代初期(慶長年間頃)は清六の支配する廻船で佐渡の金銀は輸送されていました。

(2)あなたの質問の中の「天保年間頃」(1830~)には、すでに前回の回答のように、小木~出雲崎へのルートが確立しています。

(3)>>それは徳川家康五男の結城秀康が藩主だった福井藩での伝説。
この逸話については、私は聞いたことがありません。ただし、清六が北国廻船主で当然敦賀へも寄港したことなどや、敦賀に居を構えたことなどを基に結城秀康に「横流し」をしていたように設定したものではないでしょうか。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。
そして、佐渡の出身で佐渡の歴史を調べています。

佐渡の金は、

相川から小木港(小木番所)に運び、ここから御用船で越後の出雲崎に渡りました。
およそ、3刻(6時間)くらいかかりました。

その後、これは、隔年ですが、

(1)のルート:出雲崎から北国街道(またの名を善光寺街道)で上田、安中、高崎を荷車で運び板橋宿を通過して江戸の金座に運び困れました。

(2)のルート:出雲崎から荷車で寺泊に北上し、長岡、三国峠、高崎、板橋宿、江戸の金座。

銀座は有名ですが、当時は「金座」もあったのです。

荷車は宿場、宿場から10人がかりだされ、1人が前で綱を引き、2人が荷車の前を引き、2人が荷車の後押し。残りの5人は警護兼交替要員でもあり、山道などでは押し役、または、下り坂ではブレーキ役をしました。

また、佐渡から相川番所の役人4人が付き添い前後左右を固めました。

この回答への補足

ありがとうございます。
映画では小さな船で冬の日本海を三日間かけて佐渡から敦賀に渡ります。
運ぶ金は70貫=262.5kgです。
出雲崎から陸路で運んだのは歴史的事実だと思いますが、
ネットを検索して、一つだけ気になる点が。
それは徳川家康五男の結城秀康が藩主だった福井藩での伝説。
七十五万石なのに、六十八万石は家臣の知行。
秀康はどうして暮らしているのかというと、彼の城下福井は当時、
佐渡から産出された金を江戸に運ぶルートになっていて、必要な分はその都度に
もらっていたというものです。
となれば江戸初期には船で運んでいたのかもしれません。

補足日時:2011/10/25 23:05
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 馬鹿げた回答が殺到しておりますので一言申し上げます。



 江戸期物流の中心が水運であったことはその通りです。陸上で馬や荷車で運ぶよりも大量に・迅速に運べます。つまりコストが安い。しかしこれは一般の物資の場合。
 金(金貨じゃないですよ)の大量輸送なんてことはありえません。大量に産出などしないから貴重なのです。運搬はせいぜい数kg~数十Kg程度でしょう。これ以上貴重なものなど無いのですから運搬コストはかかっても良いのです。一人が1~2kg持ったって言い訳で。難破のリスクのある船に載せますか?
 人間は広域に陸上でも移動していました。参勤交代だけではなく、民間人も大量に。女性でも旅行もしました。江戸にいたる道はあります。川は浅ければ自らの足で、深ければ船、または川人足の手を借りて渡りました。
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「江戸会所公用帳書抜」に    「正徳4年9月に


大阪より100斤入1250個の銀を江戸へ送られた。
大阪・江戸間の船賃銀8貫250目・・・」とあるそうで
金銀運送に航海には危険な外洋航路でも、使用した
ことは間違いありません。

小葉田惇著 「貨幣と鉱山」 思文閣 より。
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陸では運べません。

江戸時代には鉄道も高速道路もトラックも何も無い。川には橋がかかっていない。山にはトンネルが掘られていない。大量輸送機関は船だけです。海運、水運だけが頼りなのです。
金なんか担いで山道を歩けば足を滑らせて谷底へ転落、金なんか担いで川を渡れば人足が足を滑らせて川に金をばら撒くだけ。話になりません。
海運の方が余程安全なんですよ。
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映画が海運で描かれているのは「映画だから」でしょうね。

陸で運ぶシーンより、海で運ぶシーンの方が盛り上りますから。

佐渡からの御用金は、北国街道で運搬していた筈です(北国街道は、佐渡からの御用金運搬の為に開かれた街道だった筈)

この回答への補足

ありがとうございます。
「北国街道 佐渡金山」で検索すればいっぱいでてきますね。
他の人が船と主張するのはどうしてでしょうか。
江戸前期は船だったのでしょうか。

補足日時:2011/10/25 15:32
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その頃は、重量物は船で川や海を使って運搬しました。

今の道路とお考えください。そのため運河が各地に沢山ありました。それらは今は埋め立てられ道路や暗渠になっています。
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江戸時代の物流を少し調べれば納得できるでしょう



多くの物は船で運ばれています、幕府が外洋航海可能な船の建造を禁止したため、天気が良く風が適当でなかった場合には、非常に危険な航海でした

北前船、檜垣廻船 をキーに検索してください

江戸は運河の町です
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