石田三成はキリシタン大名だった、と聞いたのですが本当のところどうなのですか?小西行長のように、キリシタンだったから関ヶ原の戦いで敗戦したとき、自害を拒否したというのもあるのでしょうか?

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A 回答 (1件)

おっしゃるように、三成は「オーガスチン」という洗礼名を持つキリシタン大名でした(実は行長もオーガスチンなのですが・笑)。

「茶坊主であった」という説もあるくらいの人なので、もともと信仰の素養はあったと思います。

しかし、秀吉がキリスト教を正式に禁じた1589年以降は、表立った信仰を避けていたようです。三成がその後も順調に出世したところを見ると、形式的にせよ一度信仰を捨てて見せたのかもしれませんね。それとは対称的に、信仰を捨てきれなかった高山右近などは、秀吉によって一度追放され、小西行長に保護されています(右近は関ヶ原以後も生き延び、1614年には家康によってなんとマニラに追放されています!その地で生涯を閉じました)。

さて、自害を拒否したかという点ですが、家康側は最初から選択種を与えておらず、行長の「自害も易けれど~~切支丹の法により自害せず」というのはあくまで彼の負け惜しみと見る向きが有力です。家康は付き従った大名達を納得させるために、あえて斬首に処す必要がありました。武士にしか許されない切腹では、敗軍の将の体面が保たれてしまうため、あえて罪人と同じ形で処刑したものと考えられます。ちなみに処刑の際、三成と行長の二人は遊行上人の念仏を拒否しています。

長々と書いてしまいましたが、文献は『戦国武将』(奈良本辰也監修/主婦と生活社刊)によります。
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この回答へのお礼

詳しい説明どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/05/12 20:10

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Qキリシタンの扱い

私は最近遠藤周作さんの沈黙という有名な著書を読んだのですが、ここには実話が書かれていますよね??確か、そこで質問なのですが、昔の日本ではキリシタン弾圧がされていましたが、ちなみにここでも書かれていましたが、もしキリシタンだと判明したら踏み絵を踏ませてましたが、その後、キリシタンだった人々は特に司祭は、自分の国に帰らず、日本名をもらい生活していましたよね?これはなぜでしょうか?日本に留まらせておくのでしょうか??
また、ほかの彼の著書のキリスト教にそった、著書があればご存知なかたお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代キリシタンは国禁を犯す者として追捕の対象でした。
捕らえた後、多くは改宗させる為、種々の拷問などに会わされました。

キリシタンの宗教を捨てて改宗した者についてはその棄教が本当かどうか監視下におかれました。

外国人の司祭や日本人の司祭は特に信仰が堅固な者でしたから特別の拷問などで棄教を迫り棄教した者はキリシタンの捜査や追跡に協力させました。  これは特別の用語や宗教上の習慣などを利用して摘発する必要があったからです。  彼らは「ころびキリシタン」とよばれました。

外人の「ころびキリシタン」は貴重な存在でしたから日本に帰化させ日本人名を与えて日本人として扱いました。

Q石田三成と真田昌幸

石田三成と真田昌幸の正室は兄弟ですが、これは三成は昌幸と縁があり昌幸の紹介で婚姻したのか、たまたま同じ家の娘を正室にして縁ができたのか教えて下さい。

Aベストアンサー

own3さん、こんばんは。



真田昌幸の正室山手殿は宇多頼忠という人の娘ということから出たお話ですね。この人はもともと尾藤氏であり、最初信濃の小笠原氏、今川氏、そして武田氏と主人を変えています。理由は遠江の国人領主だったからです。このとき昌幸と縁続きになったのでしょう。永禄7年(1564)とのことです。兄は尾藤知宣といって織田氏や秀吉に仕えました。そのおかげで、武田滅亡の折には織田氏、次いで秀吉の弟秀長に仕えることになります。
秀長が大和郡山で100万石を領するとその重臣として13000石を知行しました。大体天正10年(1583)ころに石田三成と次女が結婚しているそうです。この後、彼は兄の罪に連座して、知行を返上し、三成のところに寄食しています。
結論から言って確かに頼忠の婿が昌幸であることは有名だったでしょうが、秀吉が三成に箔をつけるために縁組させたのでしょうか?あまり有名なお話も伝わっていないので、単なる偶然と考えるのが妥当でしょう。
むしろ後日談のほうが縁続きであるということ示しているでしょう。、尾藤知宣の息子を父の罪の連座からまぬかれるために頼忠が自分の養子にしました。そして、今度は三成の兄正継の養子にします。そこへ昌幸の娘と結婚させます。

詳細は下記のURLを参照ください。


宇多頼忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E9%A0%BC%E5%BF%A0
尾藤知宣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E8%97%A4%E7%9F%A5%E5%AE%A3
山手殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E6%AE%BF
真田昌幸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8

own3さん、こんばんは。



真田昌幸の正室山手殿は宇多頼忠という人の娘ということから出たお話ですね。この人はもともと尾藤氏であり、最初信濃の小笠原氏、今川氏、そして武田氏と主人を変えています。理由は遠江の国人領主だったからです。このとき昌幸と縁続きになったのでしょう。永禄7年(1564)とのことです。兄は尾藤知宣といって織田氏や秀吉に仕えました。そのおかげで、武田滅亡の折には織田氏、次いで秀吉の弟秀長に仕えることになります。
秀長が大和郡山で100万石を領するとその重臣として...続きを読む

Qイギリスの三角貿易によるアフリカの奴隷売買について

NHK・Eテレの「高校生講座世界史」でイギリスの産業革命を勉強しました。

その中で、イギリスの産業革命の頃、三角貿易が行われていて、イギリスは銃や火薬をアフリカに輸出して、アフリカから黒人奴隷を輸入してカリブ海の植民地に輸出した。そして、カリブ海の植民地からは砂糖を輸入したと説明していました。

イギリスがアフリカに輸出した銃や火薬は、アフリカでは何に使用されたのでしょうか?

奴隷を集めるため、それとも当時アフリカで戦争があったのでしょうか?

すみませんが、お教えくださいますよう、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

よく白人が黒人を狩猟のように集めたと誤解されますが、
アフリカにおける大部分の黒人奴隷と言われる方々は、
戦争捕虜や、すでに現地で奴隷となっていた方々でした。
(狩猟によって奴隷となった方々も、少なからず存在します)
このあたりはWikiに書かれている通りなので、
一部を参照にあげておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.A6.82.E8.A6.81
 「現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは
  現地アフリカの勢力である。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
 「大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を
  繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形で
  ポルトガルとの通商に対応した。」
 「売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの
  貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、
  コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを
  目的とする遠征も頻繁に行われた。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.AC.A7.E5.B7.9E.E3.80.81.E8.A5.BF.E3.82.A2.E3.83.95.E3.83.AA.E3.82.AB.E3.80.81.E8.A5.BF.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.83.89.E3.83.BB.E5.8C.97.E7.B1.B3.E3.81.AE.E4.B8.89.E8.A7.92.E8.B2.BF.E6.98.93.EF.BC.88.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E8.B2.BF.E6.98.93.EF.BC.89
 「輸出された武器は対立するグループ間へ供与され、
  捕虜(奴隷)の確保を促すこととなった。」

このように、武器を供与して部族間抗争を扇動することによって、
経済的利益とともに、さらに捕虜を生み出すことになるので
黒人奴隷と言われた方々を集めることに利用されていったのです。

よく白人が黒人を狩猟のように集めたと誤解されますが、
アフリカにおける大部分の黒人奴隷と言われる方々は、
戦争捕虜や、すでに現地で奴隷となっていた方々でした。
(狩猟によって奴隷となった方々も、少なからず存在します)
このあたりはWikiに書かれている通りなので、
一部を参照にあげておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.A6.82.E8.A6.81
 「現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは
  現地アフリカの勢力である。」

http:...続きを読む

Q石田三成の旗印について

石田三成の旗印「大一大万大吉」の読み方と意味を教えてください。

Aベストアンサー

「だいいちだいまんだいきち」と読みます。

意味は下記が参考になります。
http://www.packet.ne.jp/sakon/mitunari.htm

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic30.html

Q利休はキリシタンだったから殺された?

千利休の茶道にはキリスト教の要素が組み込まれているのだとか
もしそうだとしたら 秀吉によって弾圧されたキリシタンの1犠牲者として利休は切腹させられたのでしょうか?

親友の高山右近は追放したのに利休だけお咎めなしってわけにゃいかねーだろ って感じに

Aベストアンサー

いいえ

千利休ノの妻女・友人に、キリシタンがおり、文化的にカトリックの影響受けていたのは確かですが、
確たるキリスト教信仰は、なかったのは
自刃(自ら切腹したこと)したことから、
明らかです。

カトリック教徒に自殺は許されないという絶対的戒律から、
斬首されるか、細川ガラシャのように、自決でも、形だけは他殺にするのが、
キリシタンの慣習です。


「へうげもの」に書かれたように、茶道に対する認識の違いが、秀吉の逆鱗に触れたからですね。
皮肉にも、切腹で名を高めたがために、秀吉の好みに反し
茶道は「わびさび」であるということに、なってしまいましたが。\(^^;)...

Q石田三成は何故水ではなくお湯を頼んだのでしょうか。

石田三成が関が原の合戦の後に捉えられ、その後斬首されましたが、その前のエピソードで刑が決まっているのにもかかわらず、喉が渇いたので湯を求めるシーンがあります。

ここで疑問なのですが、なぜ「お湯」なのでしょうか。
普通は手間のかからず、すぐ出せそうな水を求めるように思います。

これは刑が9~10月で肌寒かったからでしょうか? 
それとも余裕を見せたいが為に、少し手間のかかる湯を求めたのでしょうか? 
または生水は体に悪いのでお湯を選択したのでしょうか? 

どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授下さい。

Aベストアンサー

「生水は体に悪いのでお湯を選択したのでしょうか?」
が正解でしょう。

当時、殺菌された水道水も、瓶に入ったミネラルウォーターも存在しません。現代のそれらのように雑菌を含まない清潔な水は「山の中の清流や湧き水」程度しかありません。

京の街中で手に入る水は
「井戸を掘って汲んだ水」
「川から汲んだ水」
などであり、清潔なものではありません。川の水には上流で流された汚水が混じっていますし、井戸水の水質も似たようなものです。

当時、細菌の存在は知られていませんが、経験則により
「生水を飲むと腹を壊すが、煮沸した湯、湯冷ましを飲むと腹を壊さない」
ことは知られておりました。
日本家屋に囲炉裏があり、鉄瓶に湯を入れて常に沸かしていたのは「いつでも湯を汲めるようにする」ためです。これは陣中でも同じだったでしょう。「生水は飲んではいけない」という認識は誰もが有しており、「陣を構えれば炉を築いて湯を沸かす」のが常識であったと思われます。

「手間のかからず、すぐ出せそうな水を求める」
キャンプでカレーを作ったりした人はご存じと思いますが、薪や炭の火で水を沸騰させるのにはかなり時間がかかります。ガスやIHで湯を沸かすのとは全く違います。
三成は「陣中で沸かしている湯を一杯頂きたい」と所望したわけです。

「生水は体に悪いのでお湯を選択したのでしょうか?」
が正解でしょう。

当時、殺菌された水道水も、瓶に入ったミネラルウォーターも存在しません。現代のそれらのように雑菌を含まない清潔な水は「山の中の清流や湧き水」程度しかありません。

京の街中で手に入る水は
「井戸を掘って汲んだ水」
「川から汲んだ水」
などであり、清潔なものではありません。川の水には上流で流された汚水が混じっていますし、井戸水の水質も似たようなものです。

当時、細菌の存在は知られていませんが、経験則によ...続きを読む

Q石田三成について教えてください!!!

石田三成について教えてください!!!

最近、石田三成という武将が気になり
比較的歴史に詳しい母に
三成について聞いてみたところ
「三成は極悪人として京都の市内を
歩き回された挙句、打ち首になったんだよ」
と聞かされました。

母は三成の事についてはあまり知らないらしく、
それなのに何故か嫌いなようです。
石田三成はなぜ"極悪人"として
市内を歩かされるような事になったのでしょう?

また、石田三成が好きという方は
彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

三成を嫌いな人は多いと聞きます。
それはやはり、10m10mさんがおっしゃるように
"極悪人"として市内を歩かされたからだと思います。

その理由は、勝利者であった家康の敵であったから
ではないでしょうか?

勝者としては、敵を処刑するというのは
当然のことでしょうし、また、juyjuy さんの
おっしゃるように家康も彼を評価していましたから、
それはなおさらだと思います。


>また、石田三成が好きという方は
 彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

わたしは、三成が好きで、いろいろな本を読んでいますが、
その中のひとつに、こういった逸話がありました。
(うろ覚えですが……

『人々はお茶を回し飲みしていた。
 回し飲みをしていた一人、 三成の友である
 大谷刑部はハンセン病であった。
 そのため、他の者たちは、刑部の飲んだ後の
 茶は飲んだフリをして他の者にまわすことが多かった。
 
 ある日、刑部の鼻水がお茶の中に入ってしまった。
 そのままお茶を回すことをためらい、
 お茶をまわすことができずにいた。
 それを見ていた三成は、
 
 「拙者は喉が渇き申した。
  刑部殿、早くお茶を回してくだされ」
 
 とお茶を受け取るや、それを一気に飲んだ。』

このあとの記述にもあったのですがこのことから
三成と刑部の友情がうかがえます。

人々から嫌われているというのに
こんなことができるとは……友情最強!

とわたしも思わず拍手をしてしまいました。
この逸話はあまり有名ではないかもしれませんが
わたしが一番好きな逸話です。

(長文失礼致しました。

三成を嫌いな人は多いと聞きます。
それはやはり、10m10mさんがおっしゃるように
"極悪人"として市内を歩かされたからだと思います。

その理由は、勝利者であった家康の敵であったから
ではないでしょうか?

勝者としては、敵を処刑するというのは
当然のことでしょうし、また、juyjuy さんの
おっしゃるように家康も彼を評価していましたから、
それはなおさらだと思います。


>また、石田三成が好きという方は
 彼の魅力について教えて頂けると嬉しいです。

わたしは、三成が好きで、いろいろな本を読んで...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q石田三成はキリシタン大名だった?

石田三成はキリシタン大名だった、と聞いたのですが本当のところどうなのですか?小西行長のように、キリシタンだったから関ヶ原の戦いで敗戦したとき、自害を拒否したというのもあるのでしょうか?

Aベストアンサー

おっしゃるように、三成は「オーガスチン」という洗礼名を持つキリシタン大名でした(実は行長もオーガスチンなのですが・笑)。「茶坊主であった」という説もあるくらいの人なので、もともと信仰の素養はあったと思います。

しかし、秀吉がキリスト教を正式に禁じた1589年以降は、表立った信仰を避けていたようです。三成がその後も順調に出世したところを見ると、形式的にせよ一度信仰を捨てて見せたのかもしれませんね。それとは対称的に、信仰を捨てきれなかった高山右近などは、秀吉によって一度追放され、小西行長に保護されています(右近は関ヶ原以後も生き延び、1614年には家康によってなんとマニラに追放されています!その地で生涯を閉じました)。

さて、自害を拒否したかという点ですが、家康側は最初から選択種を与えておらず、行長の「自害も易けれど~~切支丹の法により自害せず」というのはあくまで彼の負け惜しみと見る向きが有力です。家康は付き従った大名達を納得させるために、あえて斬首に処す必要がありました。武士にしか許されない切腹では、敗軍の将の体面が保たれてしまうため、あえて罪人と同じ形で処刑したものと考えられます。ちなみに処刑の際、三成と行長の二人は遊行上人の念仏を拒否しています。

長々と書いてしまいましたが、文献は『戦国武将』(奈良本辰也監修/主婦と生活社刊)によります。

おっしゃるように、三成は「オーガスチン」という洗礼名を持つキリシタン大名でした(実は行長もオーガスチンなのですが・笑)。「茶坊主であった」という説もあるくらいの人なので、もともと信仰の素養はあったと思います。

しかし、秀吉がキリスト教を正式に禁じた1589年以降は、表立った信仰を避けていたようです。三成がその後も順調に出世したところを見ると、形式的にせよ一度信仰を捨てて見せたのかもしれませんね。それとは対称的に、信仰を捨てきれなかった高山右近などは、秀吉によって一度追放され...続きを読む

Q石田三成の欠点

 関ヶ原の合戦では、始め数で有利だったのに、いつの間にか小早川秀秋とかに裏切られて、徳川家康に負けてしまいましたね。

 なぜでしょうか??ドラマとかだと、忠義に生きた武将で、性格も頭も良さそうですが・・。

 石田三成の欠点って何ですか??

Aベストアンサー

色々と言われていると思いますが、ボクはたった一つの理由と思います。

嫉妬

です。

単に、他の子飼いの武将から嫌われた理由は、

太閤になってから秀吉に常に傍に置かれ重用されたからです。
※福島、加藤などの7本槍達からは重用されたように見えた。
 彼らは地方に飛ばされ、大坂近くの佐和山を三成は与えられた。

その嫉妬心から、武功の無い三成を目の敵にしていじめたのでしょう。
秀吉に一番の忠誠心を持って仕えたのは、やはり三成です。
太閤殿下の恩義を一番に思い、豊臣家のために考えていたのは、三成です。

その実直な忠勤ぶりが秀吉に認められる反面、他の人間から疎まれたのです。
人間誰しも欲望や野心はあります。しかし三成は決して金欲になど捕らわれません。
だから家康は数的不利であるのを承知で今後の目の上のタンコブである三成討ちを
覚悟したのです。

考えてみてください。家康は三方が原戦いの惨敗を糧にして負ける戦は
仕掛けないと決めています。
なのに関が原へは念には念を入れて望んでおり、それでも勝利は確信できていない。
でもあえて合戦を挑んでいます。そこが家康が三成を恐れていたと評価できる
とこでは無いでしょうか。

もどすと嫉妬心から、朝鮮出兵の事や、監視役(チクリ屋)など言うことで
彼らは憂さを晴らしていた。そこを家康が付け込んで三成を敢えて反目させたと思います。
要は武士の面子ってヤツで有言実行しなければならない点をついた。
そして、彼ら秀吉子飼いの武将が根っからの武士の家系では無いことも察してしていたと思います。
もしも関が原に秀頼の旗印が上がれば合戦は全く逆になったはずです。
加藤清正らも三成を心から嫌っていないと思います。同じ釜の飯を食った中です。
裏腹なイケズな性格もたらした事件かも知れませんね。

色々と言われていると思いますが、ボクはたった一つの理由と思います。

嫉妬

です。

単に、他の子飼いの武将から嫌われた理由は、

太閤になってから秀吉に常に傍に置かれ重用されたからです。
※福島、加藤などの7本槍達からは重用されたように見えた。
 彼らは地方に飛ばされ、大坂近くの佐和山を三成は与えられた。

その嫉妬心から、武功の無い三成を目の敵にしていじめたのでしょう。
秀吉に一番の忠誠心を持って仕えたのは、やはり三成です。
太閤殿下の恩義を一番に思い、豊臣家のために...続きを読む


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