高杉晋作と西郷隆盛・大久保利通は実際会ったことはあるのでしょうか?

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A 回答 (3件)

大久保利通についてはわからないのですが、中岡慎太郎関連の資料を見ていると、高杉と西郷は面談しているようですよ。


元治元年(1864)12月14日、大阪屋にて西郷、高杉と面談だそうです。
中岡慎太郎という人物は高杉とも仲が良かったみたいですし、西郷隆盛とも同年12月4日に変名を使い五卿筑前移転の件で談判の際、西郷の元へ訪れ三条卿らの四藩分預反対、征長募兵の解除について意見交換をしていたようです。(中岡慎太郎全集より)
ここからはあくまで推測ですが、大久保利通と会っていても不思議ではないと思います。
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 以前興味があって調べてみたのですが、西郷は海路大阪に上る途中、下関で桂に会う予定があったのに、すっぽかしたことや、


 また、高杉が四国潜伏中に西郷が身分不相応のものを使いに遣ったことを、高杉は長州を軽んじたと感じたという記述からは、
 西郷・大久保は最低限公式な場ではあっていないと推測できます。(非公式にはあったかも)
 
 坂本竜馬とはねんごろになっていますが・・竜馬は下関に5回くらいやってきて、2回目の長州征伐には長州方について参戦しているくらいですから。
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回答がつきませんね。

自信がないですが、参考に回答します。

高杉は、坂本龍馬とは下関で会ったことがあるようですね。西郷、大久保は長州を訪れたことはありますが、はたして高杉と会ったのかどうか。

現在手元にないので確認できませんが、司馬遼太郎 「世に棲む日々」 (文春文庫)中に、「高杉は諸藩の志士との交流を面倒に思い、西郷、大久保と実際に顔を合わせたことはなかった」というような記述があったと思います。
司馬氏の作品は小説なので厳密には事実と異なりますが、「高杉が西郷、大久保と会っていない」という重要な事柄を、司馬氏が空想だけで書いているとは思えません。

私は未読ですが、西郷、大久保を描いた司馬氏の「翔ぶが如く」(文春文庫)を読むか、かなり大変ですが下記年表で調べてみるのはいかがでしょうか?

「幕末年表」
http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/bakumatu.htm

参考URL:http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/bakumatu.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
色々な本などを見て自分なりに調べてみたいと思います。

お礼日時:2003/12/18 10:59

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Aベストアンサー

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Q西郷隆盛と大久保利通

この二人は幼なじみなのに、やがて考え方の違いで対立するのですか?征韓論のあたりからでしょうか?

Aベストアンサー

>この二人は幼なじみなのに、やがて考え方の違いで対立するのですか?征韓論のあたりからでしょうか?

対立が顕在化するのは征韓論前後からですが、その兆候は維新政府樹立直後から既に現れています。

維新の英雄を無能呼ばわりするのは憚られますが、西郷隆盛は日本を古代中国伝説の帝王である「堯・舜の世」如きにしたいという程度の、漠然とした理想しか持ちませんでしたが、一方の大久保利通には西欧列強からの侵略に対抗する、そして豊かな国家を育成する「富国強兵」という明確な国家観が存在しました。

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Q高杉晋作の言う「おもしろい」とはどういう意味ですか?

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高杉晋作の言う「おもしろい」とはいったいどういう意味なのでしょうか?

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ですが、高杉の言う「おもしろい」の方が現代の若者のそれよりも
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お教えください。

Aベストアンサー

今では、「面白い」と言えば「楽しい」と同じような意味に使われていますよね。

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本来の「面白い」とは、「パッと目の前が明るくなる」、「目の前に美しい景色が現れる」。
そんな意味だったようです。

ですから、高杉晋作が言うところの、
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とは、閉塞的で身分に縛られて生きる封建社会を揶揄したものではないかと、私的には考えます。

その「おもしろき こともなき世」を「おもしろく」。
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そんな願いを込めているんじゃないかと思いました。

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聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
かなり、「取り乱した」という話もあります。

 アナタは、そんな取り乱した女性に対して
「どんな顔だったんですか?」と平然と聞けますか?
http://pleasure-bit.com/1048.html

 仮に取り乱していなくても
<除幕式>の祭典の際中に「どんな顔だったんですか?」なんて
まともな、人間なら聞かないわな~

 聞いたところで どうするの?
似顔絵でも書いて銅像を作り直すの?

 あの銅像が作られた経緯を考えたら
作り直しなんて余程バカか、責任感のある奴しかやらんだろ

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Aベストアンサー

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Q西郷の欧州視察 明治維新で明治政府は大久保や木戸やその下の山県や西郷従道ら多くの志士を欧州視察に行か

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Aベストアンサー

なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?
   ↑
政権がまだ不安定で、国内を沈静化させる
ために、西郷を日本に置いておきたかったからです。
首脳の皆が皆、外国などへ出かけたら、反対分子が
暴れます。

現代でも、クーデターは国王なり、独裁者なりが
外国へ出かけた隙に発生している場合が多いです。




「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」
    ↑
朝鮮半島は日本防衛の要です。
元寇だって、半島経由で日本を侵略しています。
半島が列強の植民地になったら、特にロシアですね。

ロシアの植民地になったら、日本の安全保障上
非常にまずいわけです。
だから、征韓論なのです。
ロシアに占拠される前に、占拠してしまえ、ということです。

日清日露戦争はまさに半島を巡る戦だったのです。

Q高杉晋作にまつわる名所を観光したいのですが

山口県に旅行するにあたって高杉晋作にまつわる名所を観光したいとおもっているのですが
どこかおすすめな名所等はありますでしょうか?
できればたくさん教えていただきたいです。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

山口県萩市在住のものです。
彼の出生地の萩に絞って上げますね。
出発地としては萩市堀内(ほりうち)にある『萩博物館』をオススメします。
ここで萩の歴史が学べる上、高杉晋作資料室に晋作に関する常設展示やビデオ上映がありますのでそこで見聞を広めてスタートした方がいいでしょう。
また、高杉晋作資料室長である一坂 太郎(いちさか たろう)学芸員がいらっしゃったらお話を伺うことをオススメします。
彼は下関にあった晋作ゆかりの東行記念館副館長でしたからその辺のエピソードも聞けるはずです。
次は『萩博物館』から歩いて、『菊屋横丁』へ行きましょう。ここは彼の出生地で今も菊屋家の住宅と当時の町並みが残っています。
次に菊屋横丁から徒歩3分くらいでいける『円政寺』ここでは幼少期に神社に飾られた天狗の面を見て心を強くしたという逸話が残っています。
更に歩いて10分くらいの距離には晋作が14歳のときに、入学した藩校明倫館の跡地、現在の明倫小学校に行きましょう。
明倫小学校に行った後は、小学校の道路を隔てた向こう側にある萩市役所前から発着している『はぎまぁーるバス』(コミュニティバス、どこまで行っても1回100円)の東回り(松陰先生号)に乗りましょう。(西回りの晋作くん号では行けません)
それで、萩市椿東にある『松蔭神社』に行きます。
ここには彼が通い、師である吉田松陰に教えを受けた『松下村塾』があります。
これだけで足りなければオプションとして松蔭神社から山手に上がった吉田松陰誕生地にある『高杉晋作草庵跡地顕彰碑』や、江戸から帰ってきてから投獄された野山の獄(のやまのごく)跡(萩市今古萩(いまふるはぎ)町)くらいですかね。
奇兵隊に関する史跡や墓所は下関市にあるので、そちらについては明るくないので今回は控えております。

参考URL:http://www.takasugi-shinsaku.com/index.html

山口県萩市在住のものです。
彼の出生地の萩に絞って上げますね。
出発地としては萩市堀内(ほりうち)にある『萩博物館』をオススメします。
ここで萩の歴史が学べる上、高杉晋作資料室に晋作に関する常設展示やビデオ上映がありますのでそこで見聞を広めてスタートした方がいいでしょう。
また、高杉晋作資料室長である一坂 太郎(いちさか たろう)学芸員がいらっしゃったらお話を伺うことをオススメします。
彼は下関にあった晋作ゆかりの東行記念館副館長でしたからその辺のエピソードも聞けるはずです。
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Q日本にピストルが伝わって来たのは江戸時代後期だと思うのですが、高杉晋作と坂本龍馬以外で使ってた偉人が

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Aベストアンサー

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一部省略しますが、
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という部分です。
かつぐというところが、気になりました。
日本で、担がれた人物は誰だろう、と考え、次の二人を思いつきました。
1.源頼朝;北條氏などの関東の武士に担がれて、蜂起した。
2.西郷隆盛;郷土の若者に担がれて、西南戦争に乗った。
質問は、①二人は、担がれたに該当しますか?
②他に該当する人物は何方ですか?

Aベストアンサー

秀頼に関しては、担がれた悲劇。他の織田や今川の関係者たちは、欲を捨てたゆえに、生涯をちゃんと終えることができました。

徳川家康に関しては、信長失脚あたりまで。それ以後は新規召抱えの家臣が増えて、御輿の役割は急激に減ってます。

幕末の薩摩藩では、土佐の個々が脱藩して活動の限界を反面教師にして、藩主を御輿に担ぐ方向に進んでいます。当の藩主が不慮の死を遂げて、次の藩主にも接近という形は、節操がないようにも見える。


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