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他のアジア諸国がいとも容易く列強に植民地化されていた当時、日本も江戸幕府が脆弱になり内戦が起きていた頃です。 薩長対江戸幕府の争いに乗じてイギリスやフランス、アメリカ、ロシアはなぜ侵略行動を起こさなかったのか、又は起こせなかったのかを教えてください。 当時の列強の国内事情及び列強間の関係、日本の事情を重ねて教えていただけると幸いです。

A 回答 (14件中11~14件)

 当然ながら、侵略行動を起こしています。

その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

 インドでは、敵対的な関係の藩王国に、イギリス・フランスなどがそれぞれ借款による資金提供・兵器輸出をして戦争をさせ、提供した資金の返済に「徴税権」などを担保にして、停戦後にその国の税収を差し押さえ、統治機構を徐々に乗っ取っていきました。(借金返済を拒否すれば、資金提供・武器輸出をしてもらえなくなり、敵対国に負けて自国が消滅してしまうので、欧米列強に対して、自国経済の切り売りをしてしまいました。)

 日本でも、薩摩・長州にはイギリスが、幕府にはフランスが支援し、内戦が長期化しても資金提供(後で返済を要求されますが)・武器供与を継続しますという申し入れを受けていました。

 それに対して、徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで幕府内の主戦派に「鳥羽伏見の戦い」を戦わせて、幕府の自力では内戦に勝てない実態を体験させた後、戦闘行為を放棄し内戦を事実上終結させてしまいました。

 幕府内主戦派には、幕府の必勝作戦として、薩摩・長州軍が江戸に進軍した時点で、当時東洋一といわれた幕府海軍によって、東海道を遠江・駿河で上陸作戦を行い、物資輸送を遮断し、江戸に入場した朝廷軍を干し上げる戦略が提唱されていました。

 これが実行されていた場合、江戸に侵攻した朝廷軍が壊滅し、フランス兵器で武装した関東の幕府軍とイギリス兵器で戦う薩摩・長州などを主体とした名古屋以西の朝廷軍が対峙し続ける長期戦となり、イギリス・フランスに対する借金がどんどん増えて行き、戦争に勝とうとすれば、日本の国家主権にかかわる領土・権利を担保に、お金を借り続けることになっていたでしょう。

 明治維新時に、日本が植民地化されなかった背景には、欧米列強のアジア侵略のパターンを知っていた人々が、『如何に内乱を短期・小規模化して、政権交代をするか。』という点について、努力を重ねたからです。
 戦力を持ちながら、ほとんど戦わずに政権を移譲した「徳川慶喜」は、日本の植民地化を防いだ、隠れた功労者と言えます。(朝廷側が政権を確立するまでに幕府兵力とまともに戦ったのは、鳥羽伏見と上野の彰義隊程度で、合計二日しかありません。)

この回答への補足

要するに日本国内の亀裂が浅く、また維新時の内戦処理がすばやかったということですね。 その後、列強に隙を見せる間もなく、富国強兵が成功したのかな。 前半部分のご回答にあるフランスとイギリスが共謀して日本を半分づつ植民地化しようと考え行動を起こそうとしたような史実はないですか?

補足日時:2012/02/11 19:57
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質問者さんの歴史認識は事実と懸け離れています。

日本とて列強の侵略を免れることはできませんでした。江戸時代以前から松前藩が統治していた南樺太をロシアに侵略され奪われています。明治新政府が事態に気づいた時は手遅れで樺太千島交換条約を結び、ロシアの侵略を追認するしかありませんでした。ロシアは侵略行動を起こしていました。現代日本人は余りにも無知蒙昧過ぎます。他の欧米列強は日本に不平等条約を結ばせたことで満足していました。下関戦争で長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ4カ国連合軍の戦争があったことで明らかなように、列強は他の列強と協調的で突出した態度はとらないというのが共通する対日外交方針であったからです。要するにロシアだけが、独自の侵略方針を持っていただけで、他の4カ国は他の列強に遅れを取らないことが目標だったのです。列強が下関戦争を戦った目的は列強の実力を見せつけて日本の攘夷方針を断念させることだけでした。くだけていえば列強は相互に牽制しあって、どこも抜けがけができなかったわけです。

なお、薩長対江戸幕府の争いなど存在しません。漫画の見すぎです。徳川慶喜は大政奉還で政権を返上しています。戊辰戦争の本質は、明治新政府が反乱勢力を討伐したことです。大政奉還によって江戸時代は終わっています。そういう急展開の時代の変化についていけなかった守旧派が明治新政府に逆らったわけです。

学校の先生は何を教えているんですかね。同じ質問が何百回も繰り返されています。

この回答への補足

薩長対江戸幕府の争いなど存在しません⇒現在の日本政府からみれば守旧派が明治新政府に逆らったということになっている。 しかし、鳥羽・伏見の戦いや東北各藩(奥羽越列藩同盟)と薩長土の戦いは実質薩長対江戸幕府(家臣団)の争いです。 歴史とは色々な立場・角度から考察していかなければならない。一方的見方しかできない方、また自分の見方が唯一正しいと思う方は歴史の考察に向かない。 教科書に書いてある内容を多方面から考察することを回答者さんにはお勧めします。

補足日時:2012/02/11 19:35
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大航海時代の日本の事情を良く知ってるからです。


再度、ペリーが訪れた時、封建制が健全と残っていました。
欧米諸国が繁栄を謳歌できたのは封建制度のためです。
そのため欧米諸国は封建制=先進国という解釈を持っていました。

ザビエルが日本に到着した時、その組織化された精神に圧倒されたそうです。
鉄砲を伝えたところ30年間で当時で最も優れた鉄砲を作ってしまいました。
世界中を征服した欧州人ですが、封建制のあるところは日本だけでした。
しかも、しっかりとその優秀性を見せつけた。

江戸末期ならば火力の違いで圧倒できたでしょう。
しかし、彼らは植民地支配の難しさをよく知っています。
部族間の対立など期待できない日本においては
攻め込んでも内部でゲリラ活動に合うだけ。

核兵器を使えなければ、ベトナムと同じになるのです。
当然江戸末期に核兵器などありません。
農産物以外、何もない日本をそこまでして征服するメリットは有りません。
なお、ロシアは北海道の警護が手薄なので攻め込んでいます。
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 #8です。

追記の形になりますが、当時のイギリスとフランスでは「統治組織としての日本」に対する認識が異なっています。
 初代駐日英国公使であるラザフォード・オールコックの日本滞在記録は『大君の都』(原題:The Capital of The Tycoon)と示されているように「統治組織としての日本」つまり「国家としての日本」とその「最高権力者」が誰だったのかを端的に示しています。
 外交交渉においての交渉相手に誰を指名するかによって結果が左右されます。イギリスが相手に選んだのは「大君」つまり天皇を擁する開国派であり、フランスは対極に位置する幕府だった、ただそれだけのことです。
 イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ロシアなどの列強が興味を寄せていたのは日本そのものではなく地理的条件として日本に近い中国でありインドやインドシナ半島です。そこには「地下資源」と豊富な労働力があり同時に巨大な市場として経済搾取が可能です。端に「人口が多い」だけでは「交渉相手」とはなりません。
 19世紀のヨーロッパは前世紀の産業革命を受ける形で経済活動もピークに近い段階にありました。それは同時に「より多くの富」を必要とするために「より多くの市場と原材料の調達」が必要であり、尚且つ「エネルギー供給地」としての補給ポイントを必要とします。幕末期の貿易産品として日本の主力が何だったと思いますか?。原材料として輸出していたモノは「生糸」です。ヨーロッパからみれば「この程度か」の認識にしかなりません。もしこの頃に鉱工業品としての石炭があったならば、認識も変わったかもしれません。
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