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Wikipediaの「関が原の戦い戦後処理」に三好房一は東軍で減封を受けた一人として書いてあり、西軍挙兵により失領、戦後に新領を充てられるが石高は大きく減ったとありました。1万石が2千3百石になったらしいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6% …

でも同じWikipediaの「三好房一」には、河内国に2千3百石を加増され、とあって旧領に加増を受けたように受け取れます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD% …

西軍挙兵で失領しても東軍が勝ったからには失った領地も取り戻せたと思うんですが、どうなってるんでしょうか。三好房一って加増になったんでしょうか?減封になったんでしょうか?
知ってる方お教えください。お願いします。

A 回答 (2件)

酒井忠勝原撰 坂本徳一訳 「関ヶ原合戦始末記」


  教育社 p268 に
 三好丹後守(房一)、1万石、所領没収とあり、
東軍として戦わなかったので、1万石は没収されたが
西軍に周囲を取り巻かれていた情状を酌量して、のち
に2千3百石を与えられたということと思います。

家康の温情主義はほかでも見られ、これが江戸幕府
が260年持った理由の一つです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/29 00:10

両方加増だと認識すべきだと思います。



つまり、
豊臣秀吉の直臣として1万石を加増されますが、家康に与した時点で失業し、旧領を失うのです。
再就職で家康の直臣となり、2千3百石の加増となります。


>西軍挙兵で失領しても東軍が勝ったからには失った領地も取り戻せたと思うんですが

豊臣家は関が原の戦いで大きく領地を失いますが、大名に預けた領地を失うのです。
摂津国、河内国、和泉国の直轄地65万石の大名となった訳です。

この時点で三好房一は秀頼の家臣では無いので失業確定です。

録の大きさに疑問があるとは思いますが、秀吉の直臣から家康の直臣になるのは相当運が良いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/29 00:11

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