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大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。
有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。

豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか?
また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?

A 回答 (13件中11~13件)

>大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか?



すでに秀吉も知っていたはずですし、
築城の際には考慮されていたはずです。
というか、大阪城(旧石山本願寺)の立地自体がそうなのです。
日本では当時最も難攻不落の立地だったからそこに建てたのです。

>そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?

そうです。


というか、大筒の射程距離内まで敵に入り込まれるような
間抜けしか豊臣陣営には残っていなかったということです。

秀吉存命ならそういう事態自体が考えられないことです。

史実かどうかは知りませんが、各種の戦記ものでも
幸村が真田丸を作るのに随分と苦労した下りが書かれています。
つまり、城を防衛するのに必要最低限のことすら
させてもらえなかった。知らなかった。ということでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

難攻不落の立地で守りが堅かったというのはわかりました。
が、大砲のことをわかっていたのならもっと防げたような気がするのですが。

それと、なぜ小田原征伐の時に、大砲をバンバン使わなかったのでしょうか。
20万の兵で長期戦をしかけたり城を建てたりしなくても、20発ぐらい小田原城天守閣に向けて撃てばもっと早くに落ちたのではないでしょうか。

お礼日時:2012/06/20 10:27

おはようございます。


考えを改めました。

大阪城は大筒に考慮して造られていないと思います。
秀吉は天下を統一し、戦が無いと思っていたはずです。
従って大筒に対して考慮していないと考えられます。
400年以上昔の話ですからね。
分からない事もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
次の方の回答を見るとどうなんでしょうね。

お礼日時:2012/06/20 10:22

大砲(当時は大筒)を考慮して造られていると思います。


その為に二重の堀があったのです。
徳川家康と豊臣家の交渉で埋めてよいのは外堀のみだったのですが、
内堀も埋めてしまって裸同然の城になってしまったのです。
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この回答へのお礼

そのために2重の堀といっても、堀を埋める前から天守閣にバンバン大砲が撃ち込まれましたよね。

これで考慮してたと言えるのですか?

お礼日時:2012/06/20 07:13

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