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長篠の戦いの経緯って、よくわからないです。

学校の宿題で・・・

A 回答 (6件)

織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の戦い。


簡単に言えば、武田勝頼率いる騎馬軍団と、織田信長の組織的鉄砲兵団の戦い。勝頼軍は、信長軍が火縄銃を使ってくることは事前にわかっていたが、一発目だけ気を付ければ、二発目の準備をしている間に攻め込めるだろうと考えていた。ところが、信長軍は三段構えの陣を取り、射撃した人は、後ろの列に回って、自分の順番が来るまでに火縄銃の準備をする、という作戦を取ったため、銃が鳴りやむことなく、勝頼軍は惨敗した…というのが通説。この作戦は、雑賀孫市の作戦を参考にしたといわれる。

しかし、より重要なことは、信長がこの作戦を取るのに必要な鉄砲を集めることができたということ、そして、強い騎馬武者を使わなくても戦には勝てる、ということにある。実際、信長の軍ほど弱いのはなかった、と言われる。

詳しくは、以下サイト。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/08/13 22:58

さっきの質問に書いたぞよ

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こんばんは。



azuki-7さんも私も回答したでしょう?
何を読んだの?
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武田軍は遠江と三河侵略を狙い、遠江の高天神城を


奪ったが、三河侵略の拠点の長篠城を徳川家康に
奪われてしまった。
武田勝頼はこれを奪い返すため、大軍を率いて長篠城を
囲んだ。
家康は援軍を計画したが、兵が少なく織田信長に助力を
頼んだ。
信長は当時四方に兵を出し多忙であったが、東方の脅威
を除くのがだいじと、自ら大軍を率いて徳川軍と合流し
長篠の設楽が原に出陣した。
勝頼は背後を攻められれば負けるので、武田軍の主力を
ひきいて設楽が原に向かい対陣した。
織田徳川連合軍は武田軍の倍以上の兵力があったが
武田軍の強さを恐れ、堀と柵で陣を固め迎え撃つ戦法を
とった。
そのため一部の軍を別道から長篠城救援に向かわせた。
これを知った武田軍の主力は背後から攻められては
負けるので退却か前進して連合軍と戦うかの選択を
迫られた。
重臣の多くは退却であったが勝頼は前進ときめ、連合軍
に突撃したが鉄砲を多く備えた連合軍に敗れ、多くの兵と
ともに多くの重臣を失い国力が低下し滅亡に向かった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/08/14 11:01

こんばんは。



ものすご~く簡単に説明すると、
武田勝頼の家臣だった奥平貞昌が徳川家に離反して、
裏切り者の奥平貞昌を撃つのがきっかけ。

これで分かったかな?
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武田勝頼が三河に侵攻し、重要拠点である長篠城を攻めました。


家康は信長に援軍を求めました。
援軍として到着した織田軍がまだ揃っていないと見た勝頼は、織田に大打撃を与えるチャンスと思い合戦を挑みました。
兵力を隠し、迎撃の準備をしていた信長が勝ちます。
多くの家臣を失った勝頼は、体制の立て直しや信長との和睦などを模索しますが、結局7年後に滅ぼされます。
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