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織田信長と徳川家康が直接対決したならばどちらが強いのでしょう?
両者の兵力と部隊数は同じとした場合で、野戦という設定です

A 回答 (8件)

難しいですね。


兵の質を考えると、領主に対する忠誠心が強い三河武士の方が強いでしょう。

しかし、徳川家康は以下の事情がありながら織田信長に従順であったのは
「どうやっても勝てない」何かを感じていたのでしょう。
・幾多の戦いにほぼ無償で参戦させられた
・長男を殺すことを強いられた
・最強の武田信玄との戦いが避けられなくなった

特に最後の条件は自分の命がかかっています。
これらの条件を呑んででも織田信長についたのは、やはり信長が「戦いの天才」
であることを見抜いたからでしょう。
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この回答へのお礼

確かに 信長に勝てない何かを感じていた という点は興味深いですね
ただ武田信玄には負けたものの兵は全員武田側を向いて死んでいた
つまり一人も逃げることなく戦った気概という点では最初から信玄との戦いを避けていた信長よりは評価できるかと思われます

お礼日時:2012/09/25 16:57

こんにちは。



織田信長でしょうか?
勝敗数では徳川家康に軍配が上がりますが、
織田信長に黒星をつける要因は美濃攻めの時に連敗しています。
家臣では柴田勝家・前田利家・佐々成政といった猛者や、
火縄銃を使わせたら上手い滝川一益、
明智光秀・羽柴秀吉・竹中半兵衛などの知略の持ち主がおります。
一方徳川家康には本多忠勝に榊原康政くらいしかピンとこない。
金ヶ崎の戦い(信長の負け戦)でも判断力の早さで、
被害を最小限に抑えています。
以上を踏まえて織田信長に軍配が上がると思います。
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この回答へのお礼

確かに信長配下には有名武将がそろっていますが
徳川家康にも本多忠勝 榊原康政 井伊直政 服部半蔵 酒井忠勝 大久保忠正 夏目正吉といった采配に長けた武将も多いです

お礼日時:2012/09/25 17:46

織田信長と徳川家康が生きている時代に対決したならば



信長の勝ち

理由:信長のほうが逃げるのが上手かったから、家康のほうが戦場で死ぬ確認が高い
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この回答へのお礼

逃げたら負けでは?

お礼日時:2012/09/25 17:46

信長を持つ人が多いのでびっくりしました。

互角の条件なら絶対に家康だと思うのですが。
姉川の合戦ひとつを見ても、信長が戦上手だったとはとても思えません。

韓信が劉邦に言った言葉ではありませんが、信長は、「兵に将たる器」ではなく「将に将たる器」だったから家康も恐れたのではないでしょうか。単に兵士の統率力だけの勝負なら、家康の敵ではないと思います。

(秀吉が信長の下に付いていると言う前提なら、また話は変わってきますが。しかし小牧長久手の合戦でも総合得点では家康に軍配が挙がっていると思うので、それでも私は家康に乗ります。)
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この回答へのお礼

単純に二人の采配力だけとれば信長ですが
軍の統率なら家康のほうが上かなと思います

お礼日時:2012/09/25 17:48

同時期に兵力部隊数が同じと仮定すると、信長のほうが圧倒的に火力武装で勝りそうです。


信長は経済力をつけそれによる武装・傭兵の確保・常備軍化といった金に任せた手段でのし上がった大名です。

一方兵の質まで同等に見ると、私は家康に分がありと見ます。
戦術を見ると、信長は要地に強引に拠点を作る・拠点を構える・奪う、あと敵の隙を見てとり徹頭徹尾そこを押すといったいささか強引な攻めくちです。
家康は固く優位な高地をとり、優位なポジションを取り、そこから攻める形です。
両者が五分の状況下で将棋のように戦うなら、家康が後の先を取り勝つような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
みなさん意外に冷静に分析してくれて参考になります

お礼日時:2012/09/25 20:39

毎度どうも。



同兵力で家臣や兵士も尾張兵と三河兵になるんでしょ?そんなら、断然家康でしょうねえ。家康は野戦の鬼ですからねえ。

信長の偉大さはその戦略眼ですよ。だからもし信長ならそもそも同兵力で家康とやりあわなければならないような間抜けな事態をまねくようなことは絶対にないでしょうね。信玄相手の信長包囲網も乗り切った人ですからね。並みの名将じゃあ乗り切れないと思いますよ。だって、相手はあの武田信玄だもん。
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この回答へのお礼

たとえばの話です

お礼日時:2012/09/28 09:12

信長でしょう。


晩年こそ戦場の表舞台に立つことはありませんでしたが、自軍の危機には真っ先に前線に立って督戦しており、劣勢を覆しています。その軍事カリスマは絶大です。
それに比して家康はそのような類いの逸話を聞きません。
尾張武士が弱く三河武士が強いというのも徳川史観によるものですから、純粋に大将の軍勢指揮力でいえば、信長に軍配が上がるかと。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2012/09/28 09:12

信長でしょう。




家康は小牧長久手の戦いは局地戦に勝ったようなものだし、まともな会戦で勝利した戦いは関ヶ原(戦術的には敗北)くらいしかないです。

逆に信長は天王寺の戦いや刀根坂の戦い、そして田楽狭間の戦いに見られるような、日本史上まれに見る戦術眼をもっています。


尾張兵は弱兵と通説のようになっていますが、その弱い尾張兵が今川傘下の強い三河兵や強兵の美濃兵と互角以上に戦っているため信憑性が薄いですし、信長は常日頃から馬回りという名の親衛隊を鍛え上げ、相撲大会などを開催し身体能力に優れた兵を常に補充しています。


例として天王寺の戦いの概略を書きますと

雑賀衆を組み込んだ本願寺が反撃、織田方の主将塙直政が痛撃をうけ戦死。敗退します。
明智光秀は残兵をまとめ天王寺砦に篭り京都に滞在していた信長に援軍を要請。
天王寺砦はろくな防御施設を持っていないため、もって3~5日と信長に伝えます。

これを聞いた信長は諸国に動員令を出し、100人の兵を率いて河内若江城に入った。
しかし、「人足以下中々相続かず、首々ばかり着陣候」とある様に、佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄等の主だった武将は招集できたが、その手足となる兵があつまりません。
あまりにも急な動員だったため兵が集まらなかったのです。


信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決めます。

信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃。信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取りました。
雑賀衆を加えた本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、発砲と発砲の間隙をぬって織田軍はこれに突っ込み、敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負います。

明智光秀率いる守備隊と無事合流を果たした信長。
しかし、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。
信長はそこへ再度攻撃かける事を決める。諸将たちは多勢に無勢であるとしたが、諸将の反対を押し切り
「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更に追撃に次ぐ追撃をかけ2700余りの敵を討ち取った。
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この回答へのお礼

やっぱり信長ですかね

お礼日時:2012/09/28 09:12

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