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か?
科学者なら感覚としてあるかもしれませんが、

それを知ってる者はこの世界で私一人だけだ、

大袈裟に言えば、こんな『考え』を世界に具現化させたのは人類はじまって以来

私がはじめてだ、

という境地に至るには知の不足をかなり埋めないと至れません。

科学の分野だけにかぎらず、

ここで質問したいのは、

『知る』ということに対する全般の場合、

人類が現在に至るまで知ったすべての内容の集合体をAとする。

任意のaさんのある結論bはすぐさまAに還元されてしまう。

たとえば私が、『女たちや利己的な芸術家連中は、科学に対して嫉妬と感情の調合物のようなものを感じる』

となにか知的な意見cを述べたからといって、このcは集合Aに還元されてしまうだろう。

自分が考えたつもりでもじつはもうとっくにどこのどなたか知らないが他人がもうすでに

考えた結果であることは日常的によく知られている現象です。

ということは、少なくとも知的全般に関しては、大多数はもっぱら人生を自己の不足を

補うことに費やしてるわけですが、

この事実についてどう考えてますか?

A 回答 (4件)

私は質問者様が「知」というものに誤解をしている一面があるのじゃないかなと思います。

これは揚げ足を取るという意味じゃなく、質問者様の迷いを晴らして差し上げられるかもしれないので、投稿してみます。

>たとえば私が、『女たちや利己的な芸術家連中は、科学に対して嫉妬と感情の調合物のようなものを感じる』となにか知的な意見cを述べたからといって、このcは集合Aに還元されてしまうだろう。

このcは、「ちょっとそんな風に思った」という程度のひらめきではないですか。割合、誰でもいえてしまいます。「知」と呼ぶに値するものであれば、統計を作ったり、心理学的になぜ「女たち」なのかの裏付けをとったりなど、論証が必要です。女たちと利己的な芸術家が同じレヴェルになっている時点で、あまりきちんと考えた仮説ではないかもしれないな、と私などは思ってしまいます。

私が言いたいのは次のことです。結局、ひらめき程度のものだったら、既に他の誰かがひらめいている可能性があります。膨大なネットのどこかに、そんな見解が転がっているかもしれません。しかし「論証」した人はいないかもしれません。また論証するのであっても、従来とは異なる方法で出来るかもしれません(※数学の別解みたいなもの)。そして論証してみると、実は最初の仮説を修正することになるかもしれません。議論の精度にこだわっていくと、知の刷新が出来るのではないでしょうか。
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人の生きる目的が、人に勝つためや、それによって多く


の物を得るためならば、そうかも知れない。
しかし、それ自体が、認識の浅さによって、目先の損得
や短絡的感情に流された結果に過ぎない。

生きる目的が、人生を通算した精神的充足量の最大化
であれば、その「意志の強さXその達成度X感受性Xその
認識力」が直接的な関数であり、さらに「意志の強さの
基底となる環境認識の深さ」や「充足感を人生を通算し
て最大になるように設定する認識力」、「達成度を高める
認識力」など、その関数のそれぞれにも認識性が先入し
ており、『充足量の最大化』において、認識の深まりは
必須である。

それは他人との比較において自尊心を満足させたり、
それを利用して人より多くの物を得るためではない。
充足量を決定するのは意志と、それに基づく行動
(=生きる事=社会生命としては助け合い)であって
お金をもらう(=儲けて自分は働かなくて済む)ために
働くのではなく、より良く働くためにお金をもらうのだ。

「知る」という事の本質は、聞かれた時に答える言葉を
記憶する事ではなく、普段の環境認識において常に
感じるものとして習熟する事であり、その点において
誰もが永遠の修行者であって、「全ての内容を知って
いる」などというのは、その入り口に過ぎない。
(もっとも現代社会は、その「入り口」からどんどん
遠ざかっているが)
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その昔。

。。
「知」は口伝にて伝えられていたとのことです。
まさに、「生き字引」がいた世界ですね。

紙などの発明により、「書物」の形で伝えられるようになり、「辞書」が編纂されました。
他者が知っていて、自分が知らないことは、「書いておけば・書いてあれば」、理解し、知ることができる時代になったわけです。

そうして、コンピュータとインターネットが広まり、「書物」は必然的に電子化されています。
まさに、雪隠の落書から高尚な知恵まで、ありとあらゆる「知」が、ネット検索で利用できるようになりつつあります。

人間が一生かけて「知る」ことのできる「知」には、限りがあります。

医療関係の大学では、10数年前から「知識の取得」の限界を「知り」、PBL(problem based learning、問題に基づいた学習)という方針へと大きく舵を切っているようです。

すなわち、必要最低限の知識を「脳内に蓄積」し、何か「知らない」問題にぶつかったとき、脳内の「知」+外部の「知」にて適切に対処する訓練を積むという学習です。

「脳内知識の量」よりも「外部の知識を含めて、どれだけ有効に活用するか」ということへとシフトしてきたということです。早い話、辞書持込可の試験を、実地訓練の場で、さらに効率よく、確実に行えるように学習するということです。

ただし、問題はあるでしょう。

ネット検索で「常に正しい情報」が得られればいいのですが、現状、望むべくも無い状況ですから、一定の基準を設定している情報源や一定の基準以上の書籍を検索できるような「学習」も同時に行われているようです。

まぁ、大学受験までの間に、多くの知識を得て思考能力を鍛えて来た人達だからこそ、成り立ちうる方法なのかもしれません。。。

「ゆとり教育」の揺り戻しが数年前から始まっています。

「どの程度」知識習得し、「どの程度」思考能力を高めておけば、玉石混交の情報源に接していながらも「不足を補うだけの人生」を送らずに過ごすことのできる状況になるのでしょうかねぇ。。。
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>少なくとも知的全般に関しては、大多数はもっぱら人生を自己の不足を補うことに費やしてるわけですが、この事実についてどう考えてますか?



そう考えるのは謙虚な態度ではないでしょうか。
ただし、初めて考えた人間は過去の存在となり、現在に影響力を発揮できないのですから
先人の知恵をどう現在に活かすかが大切になります。

科学で言えば、科学法則の工学・工業的応用、商業的な普及への努力でしょうか。

それらも知的活動と言えますし、それらと科学は支えあっているのですから価値あることでしょうね。
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