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ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに
いつまでも入らない仏というのが

大乗仏教になるとかなりでてきます。
ゴータマもそうです。

この、

できるけど、しない。理由は何ですか?

その思想的な根拠はありますか?

A 回答 (48件中1~10件)

 かざみどりさん ねむりねこさん お早うございます。



 ねこさん ご説明をありがとうございます。

 そんな面倒なこと――方便法身にかんしてです――になっているとは つゆ知らず。・・・・


 ▲ 【親鸞聖人の二種法身】 ~~~~
 「法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」(唯信鈔文意)
 ~~~~~~~~~~

 まづこの《法身》が 《非経験の場》の説明だという見方をしています。
 ▲ こころもおよばれず、ことばもたえたり。
 ☆ これは 神――この場合 アミターバ――の定義としてよいと考えます。
 ▲ 法身はいろもなし、かたちもましまさず。
 ☆ これは 属性ですかね。定義から派生します。


 
 ▲ ~~~~~~~
 一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。(一念多念文意)
 ~~~~~~~~
 ☆ これは 物語です。定義した神――アミターバ――についてのお話です。人格化させて表現しており さらには 《法身》のありようを想像して 物語にしあげています。


 ▲ ~~~~~
  この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。」(一念多念文意)
 ~~~~~~~
 ☆ いろんな説明があるということだと思います。
 神を《ひかり》にたとえるわけです。

 光源が 父なる神。そこから出る発耀は 子なる神。《知恵》にも喩えられます。
 ▲ 智慧はひかりのかたちなり
 ☆ 人間にあっては 記憶からその情報などの知解が成ります。言いかえると 一つひとつの情報ではなく存在そのものの自覚 これも《記憶と知解》との能力行為です。いわば《精神(記憶)が精神する》といった存在の自己確認です。

 ただし 神にあっては 
 ▲ 智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。
 ☆ 《かたち無き》なる定義が有効です。つまり《霊》です。雲をつかむような話を それでも いろんな説明の方便として用いています。
 人間の知恵には かたちがあります。経験合理性において理解するというかたちです。神の知恵は むろんこの理解を超えています。

 同じくただし 神にあっては
 ▲ この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。
 ☆ すなわち 神の――霊としての――遍在を言います。経験世界を超えているということは 覆い包むということが生じるという見方です。これは 最初の定義から推理されたことがらです。

 よって 父なる神とそこかれ生まれる子なる神 そして両者から発出する聖霊なる神。この三つの位格が時空間を超えて一体である。と説明するのが 三位一体なる神です。
 聖霊なる神は つねに――あまねく有るというように――送られて来ていますが 子なる神は 歴史上ただ一度 ナザレのイエスという男の肉にそのまま――部分的にではなく全体として――やどった。この男は イエスという名のまったくふつうの人間であると同時に キリストと呼ばれる・神の子でありみづからも神である。という説明です。

 ○ 方便法身と法性法身 これは アミターバについて説明するためのお話である。

 こう考えます。


 われわれ人間は 遍在する霊につつまれている。あるいは たも(網)で――からだが浮くかのように――掬われている。
 これだけでよいわけです。あとは それぞれの実存があります。どう生きるかは それぞれにまかされています。しかも 神が普遍なら 一人ひとりは 互いに同朋であるということだと見ます。

 雲をつかむ話ですから 自由意志というように 誰でもこの物語から自由に離れて行くこともあります。
 ぎゃくに みづからの実存が確立されて来るなら そして互いに同朋であることが実現してくるなら もうキリストだとかアミターバだとかの語も要らなくなるかも知れません。聖霊がなくなるわけではありません。

 このような・霊に裏打ちされた実存にとって 灰身滅智というような意味でのニルワーナは要りません。またニルワーナにこだわるようなブッダも ご無用です。
 同朋であるというのを ボディサトワと言ってよいと思いますが そしてまたそのことに目覚めた状態をブッダと言ってもよいのでしょうが わざわざこの上ないさとりを得たと自称したりもてはやしたりするようなブッダやその意味でのブッダ・イズムは 金輪際要りません。
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方便法身と法性法身、つまり親鸞の二種法身の考え方については、


真宗さんの公式なホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~YI9H-URYU/tera/bodh/ …
や、方便法身
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%B9%E …
法性法身
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E …
などが参考になるのでは。
あるいは、
http://shingikensho.blog12.fc2.com/?no=269


親鸞によると、
「一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。」
これが方便法身・報身仏の定義となるらしい。そして、
この報身仏・阿弥陀如来から応身や化身仏が生まれるということらしいね。
でも、眠り猫的には、親鸞の説く方便法身と法性法身は、報身の他受用身と自受用身を述べているだけにしか思えない。これでは足りないね。阿弥陀仏(の本体)が何故、法身なのか、まったく説明ができていない。もっとも、報身の自受用身と法身とはほとんど似たようなものなのだけれども。
親鸞の方便・法性法身は、余計な概念だね。話をいたずらに混乱させるだけだと思います。
阿弥陀仏と法身・毘廬舎那仏は不一不二でことが足りるんじゃないのかな。見え方と名前の違いだけでいいんじゃないかな。
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 みなさん こんばんは。




 なんとなく回答に出て来ました。

 まづは 疑問が挙げられています。
 ★(No.43お礼欄) ~~~
 浄土真宗への疑問というか、驚きは
 阿弥陀仏が方便法身なら実在しないって認めてるの?
 それなのに信じるとか、念仏とか言ってるの?
 ってこと。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ しょうじきよく分かりません。問いの意味が理解できないのです。
 方便法身ということは 肉として存在しているということですよね?

 だから――つまり この世における仮りの姿でしかないから―― 《実在しない》ということになる。という意味ですか?

 すみません。放っておいたのもいけなかったのですが 問いの内容をおしえてもらえませんか?




 それから アミターバもマハーワイロ―チャナも わたしの場合は 《非経験の場》であるなら 広義の一般概念としての《神》であるとして すべて同じひとつの存在だと見ています。
 名前が違うだけであると。

 肩すかしなんかではなく もともとの基本的な立ち場です。
 その神と人間との関係としては 同じく一般概念としての・類型化したかたちの《梵我一如》だという見方です。梵我一如において わが心に《非思考の庭》が成る。というものです。


 《復活》は 基本的に言って 将来する(将来にそのような現象が起こるようになる)ものとして臨むのがただしい。という見方です。

 それだけでは愛想がないですので ひとつ添えれば いまのヒトが 平均寿命として二百歳になれば それもひとつの人間の復活ではないかと考えています。
 トラやライオンと子どもらがたわむれているという姿も イザヤ書にうたわれています。 
 何でしたっけ?
 ▲ (イザヤ書 / 65章 20節 ) ~~~~~
 そこには、もはや若死にする者も
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 お茶を濁したかっこうですが ゆるされたし。
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空海の《留身入定》信仰についてくわしく書いたホームページを見つけたので、紹介します。


http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat37/post …

このホームページの《万燈万華会》の願文にある
 虚空尽き 衆生尽き
 涅槃尽きなば 我が願いも尽きん
この文章は、大師の入定信仰とセットで重視される有名な文章です。
この世の中から救済される有情(生き物すべて)がいなくなるまで、空海は生きつづける。そして、真言の教えを受ける人たちは、空海のこの遺志を果たすべく、この世で頑張らないといけない。
現代的に言えば、
そうした空海の遺志を受け継ぐ人がいるかぎり、その人の心の中で空海は生きつづけるといったところですかね。

ここからは与太話。
留身入定と弥勒仏の下生には、実は、深い関係があるのよ。
弥勒仏がこの世に現れるとき、ゴータマの十大弟子のひとりである大迦葉が復活する(?)といったような伝説が仏典の中にあるらしい(仏説弥勒下生経etc)。では、何故、迦葉はその時まで生きつづけられるのか。たぶん、滅尽定に入り、生体活動を停止しているため……。
空海の入定留身伝説も、この伝説の延長上に成立しているんだろうね。
そして、イエズス会の宣教師は、イエスの復活と空海の入定留身伝説の間に似たようなものを感じ取り、バチカンに空海のこの伝説についての書簡を送ったりもしている。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ニルヴァーナに話を戻しますが

死/不死 
滅/不滅

仏典ではニルヴァーナが
反対の意味で使用されていることもあるのが
不思議です。

不死の境地とか不滅だとか・・・
諸行無常に反するだろうに
なぜこんな言葉の使いかたをするのか謎です。

お礼日時:2012/12/01 05:54

NO43のお礼欄にある質問に、でしゃばって答えます。




空海の兜卒天往生というのは、大師の入定信仰という奴だね。
でも、基本的な認識が間違っています。
空海は兜卒天往生したのではなく、現在、滅尽定をしていて身心ともにこの世に残っていてる。そして、はるか未来の弥勒下生の際に、その滅尽定から覚めて、弥勒仏の布教のお手伝いをする。
これが大師入定信仰というやつです。なので、空海は兜卒天に往生していません。
だっけ、四国のお遍路さんは、空海と一緒にいる、《同行二人》なのよ。
聞いた話によると、お遍路の歩き行をすると、時々、空海の存在を感じるらしいよ。ひとりで歩いているのに、空海がそばにいるような感覚に陥ったりするらしいよ。

http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/taishi …

しかし、実際のところ、空海は火葬されたらしいね。続日本紀などにそのことが書いてあるらしい。時の天皇が、空海のお葬式のお手伝いをなにも出来なかったことを詫びた手紙を、高野山にいる空海の高弟に送ったということが、国の正式な歴史書に書かれているらしいよ。

信仰なんて、そんなものよ。
真言宗の敬虔な檀信徒は、空海は、今も生前と変わらない姿で、《奥の院》にいる、と信じている。それがどんなに荒唐無稽な話かは頭で分かっていても、実際に奥の院の前に立ったり、奥の院の映像をテレビなんかで見たりすると、有難くって自然と涙がこぼれたりする。「お大師さまは今もいらっしゃる」と、その実在を実感できる。空海の肉体がそこになければ、空海は今、人々を救うために全国を行脚していると思う、そう感じる。そして、そこに大乗の利他行や菩薩行の真の姿をみるってわけ。

真言宗に阿弥陀信仰を持ち込んだということで、
覚鑁(かくばん)こと興教大師の評判は悪いね~。
この《教えて》でも、真言宗徒の方の《覚鑁》批判を読んだ記憶があります。
まぁ、無理もないか、覚鑁は高野山から追放されちゃうし(笑い)。
でもさぁ~、真言密教において、阿弥陀仏は《五智如来》の一仏でとっても大切な存在。阿弥陀仏信仰が真言宗内部から起きるのは、言ってみれば当たり前の話。
現に真言宗のお坊さんは、お葬式では阿弥陀如来根本陀羅尼(十甘露呪》を唱える。亡くなった人が阿弥陀浄土に往けるようにと、《十甘露呪》を唱える。
阿弥陀如来根本陀羅尼と現代語訳は
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/amidadarani.htm
阿弥陀如来根本陀羅尼は、真言三大陀羅尼といって、とっても大切な呪文で~す。

ちなみにbragelonneさん御紹介の《密厳院発露文》の全文と現代語訳は
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/mitsugon.htm
この《懺悔文》を見ると、平安時代末期の仏教界の乱れ具合が理解できるよね。
そして、みずからの罪の自覚という観点からすると、この有名な懺悔文には、親鸞の思想にどこか近いものがあるのよね~。
でも、そこは《大乗+密教》の真言宗。自力と六波羅蜜の大切さを説くことは忘れていない(笑い)。

浄土思想と真言密教の関係について言うと、
《高野聖・こうやひじり》と呼ばれる人たちは(阿弥陀)浄土信仰を持っていた人たちである、とか何とか言われているみたいだね。
だから、彼らはみずからを半俗半聖の《聖(ひじり)》と呼び、高野山のお坊さんたちよりもみずからを低くおいたと言われています。
この辺のところはよく分かっていないらしいけれど、高野聖といわれる人たちは覚鑁系の思想を持った高野山のお坊さんだったのかもしれないね。
そして、空海の最晩年の思想、つまり、「真言密教においては《慈悲》と《利他》こそが最も大切だ」という考え方を実践した名もなき聖人だったのかも知れないね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

間違っていましたか。すみません。
やっぱり、まだまだ私は勉強不足だな。

たぶんこれに似たような文章を昔どこかで読んで
勘違いしてしまったんだと思います。



>空海大師は若い時から弥勒信仰を持っていたといわれています。ことに空海が兜卒願生の信仰を持って入定したと考えられています。
>「御遺告」に吾れ閉眼ののち、必ず兜卒陀天に生じ、弥勒菩薩の御前に侍るべし。五十六億よののち必ず慈尊の御供して下生しまい祇り候。

>空海大師入滅後、兜卒天(弥勒菩薩の浄土)に生まれて一切衆生を見守り、五十六億七千万年の後に弥勒菩薩と共に下生して衆生を救うとの誓願を立てたのです。

http://www.koukenji.com/7.html

お礼日時:2012/11/27 18:35

 ★(No.42お礼欄) 真言宗と浄土真宗に交流はあったのでしょうかね。



 ☆ よく分かりませんが:

 ▲ ヰキぺ:覚鑁 ~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81

 (かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))

 § まえがき

 平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した。即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であるとした。

 真言宗の教典中でも有名な『密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)』、空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として著名。


 § 1 経歴
  
 36歳の覚鑁は、真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が跋扈する有り様であり、真言宗が腐敗衰退した現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
 ・・・・
 ~~~~~~~~

 くわしくまなんだり読んだりしたわけではありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

いたのですね。
まあ、親鸞論のブラジュロンヌさんと
空海論のねむりねこさんに
対話の余地を残そうかと話題にしてみましたが、
なんだか正直どうでもよくなってしまいました。

浄土真宗への疑問というか、驚きは
阿弥陀仏が方便法身なら実在しないって認めてるの?
それなのに信じるとか、念仏とか言ってるの?
ってこと。

それと、真言宗については即身成仏のはずなのに
なんで空海は兜率天往生なの?
弥勒菩薩より上なの?ってこと。

ニルヴァーナについて、パーリ語やサンスクリットまで
つかって、探求して今回の質問は収穫がありました。
しかもアンギラサまで登場して。

みなさんありがとうございました。

お礼日時:2012/11/26 11:22

 ほんのひとことです。




 シャクティ・イズムに――つまり イズムのほうに――ピンと来ないのですが その落としどころは 分かっているのです。

 アミターバのほうでもそういう見方が出されていたと思いますが 《ちから》を神の属性としてあつかうという立ち場です。

 わたくしも 《ちから》にかんしてはもともと言っていました。

  ☆☆ (回答No.34) (き‐2) 《場》というのは あたかも電磁場のごとく チカラのハタラキがあると見立てての用語である。

 というごとくです。ですから あとは イズムの問題を回避しようと思えば シャクティ=チカラを 神の属性とすれば 済みます。





 例の《加‐持》だって 神のチカラがわれわれ人間に対してはたらく《加》とそれを受け留める人間の側の《持》ですよね。




 けっきょく この《加持》も《シャクティ=ちから》もそして《空》も みな同じくひとしく 神のもとに捉え得れば すっきりするのですかね。
 なんとなく 引きずりました。(ということは まだ 成案が無い感じです)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

真言宗と浄土真宗
空海と親鸞

両方を結ぶ思想家がいれば
面白そうですが、

真言宗と浄土真宗に交流はあったのでしょうかね。

お礼日時:2012/11/25 16:34

こんばんはです。




~~~~~~
もしかして、
命が持つ生命力こそがニルヴァーナを
否定しているのではないでしょうか。
~~~~~~
ニルヴァーナをね。
仏教的いえば、無知ゆえに、ニルヴァーナ・寂滅を恐れるということになりますが。。。。。。

ゴータマ仏教に限らず、ウパニシャッドもジャイナ教も、この世の生は否定している。
この世は苦に満ちているから、この世にふたたび生まれ変わるのは嫌だ。
そのため、どうしても厭世・厭生的な雰囲気になってしまう。
そうした厭世思想のアンチテーゼなんじゃないのかな、
《六師外道》のプーラナの道徳否定論やアジタの唯物論
などは。
仏教国(?)の日本では評判が悪いけれど、プーラナの道徳否定論やアジタの唯物論などは、再評価されてしかるべき思想だと思うけれど。

六師外道
http://enjoy.pial.jp/~esmusssein/butu_gedou.html

ここに書いてあるのは、
中村元 原始仏教 NHKブックス
からの抜粋みたいだけれど、よくまとめられていると思います。



~~~~~~
なんとしてでも生きたいという衝動が
生物を生へと駆り立てる。

そして、死であるニルヴァーナと対立する。
~~~~~~
仏教やジャイナ教などで否定される《煩悩》とは、本能や生への意志といったものでしょう。
なので、完全な死滅・止滅であるニルヴァーナと対立しますよね。
これは、仏教やジャイナ教などの出発点がそうなのだから、どうしようもないと思います。
なのですが、果たしてゴータマの思想の終着点がそのようなものであったのか。
個人的には、違うのではないかという気がします。
小乗の涅槃経などでは、ゴータマさんは
「この世は、なんて美しいんだ。このまま死滅するのは、ちょっと嫌かも」
みたいなことをおっしゃっている(笑い)。
曇りなき眼(まなこ)で見ると、この世は美しく見えるんじゃない。
そして、《この世に生きとし生けるもの全てが、どうしようもなく愛しく思える》んじゃないのかしら。
さらに、こうした考え方は、のちの大乗仏教において、仏国土(娑婆世界も仏国土の一つよ)の清浄や、菩薩の無限の慈悲へとつながります。

空海流にいえば、この娑婆世界は《密厳浄土》。
この世が薄汚れて見えるのは、(人間の)心が汚れているからだ。
この世は、な~んも否定されるべきものはない。
なんで、わざわざこの娑婆世界を捨てて、阿弥陀さんのいる極楽浄土などに往かねばなんねぇんだ。
まして、涅槃やニルヴァーナなど真っ平ゴメンだ。
オラ~、ゾンビのごとく、何度でもこの娑婆世界に生まれ変わってやる。
などなど考えております。
輪廻など信じておりませんが(笑い)。

密厳浄土については、
http://www.taimadera.org/purpose/1/2/index.html
の「お大師さまの現世浄土」が分かりやすいかな。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

生の哲学によって
ニルヴァーナを否定しつつ、
それでも仏教に何かを探すなら

どうやら往生の思想になりそうですね。

お礼日時:2012/11/25 16:30

 おぎないです。



 ○ ni : down, back, in, into, within;

( always prefixed either to verbs or to nouns;
in the latter case it has also the meaning of negation or privation 〔 cf. ' down-hearted ' = ' heart-less ' 〕;
  sometimes wrong reading for ' nis ')

it may also express ' kshepa, daana, upa-rama, aa-sraya, moksha &c.

( cf. Zd. ni; Gk. ε-νι (e-ni); Slav. ni-zu; German. ni-dar, ni-der, nieder; Angl.Sax. ni-ther; Eng. ne-ther, be-neath )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ○ nis- = nih- = nir- : out, forth, away




 ○ √ rudh : to obstruct ,check, arrest, stop, restrain, prevent, keep back, withhould;
2. to avert , keep off, repel;
3. to shut, lock up, confine;
4. to besiege, blockade, invest;
5. to close, block up ( a path );
6. to cover, conceal, veil, obscure;
7. to stop up, fill;
8. to lay ( dust );
9. to touch, move ( the heart );
10. to torment, harass;
11. to lose, be deprived of;
12. to tear, rend asunder;
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 こんにちは。

ねむりねこさん。かざみどりさん。

 シャクティ=ちから これについてまだピンと来ておらず 思案中です。

 とりあえず ニローダの辞典情報です。


 ○ ni-√rudh : to hold back, stop, hinder, shut up, confine, restrain, check, suppress, destroy;
2. to keep away, ward off, remove;
3. to surround, or invest ( a place );
4. to close ( literally ' a door ' or figuratively ' heart , mind ' etc.
5. to catch or overtake

 ○ ni-rodha : confinement, locking up, imprisonment;
2. investment, siege;
3. enclosing, covering up;
4. restraint, check, control, suppression, destruction
5. ( in drama ) disappointment, frustration of hope;
6. ( with Buddhism ) suppression or annihilation of pain ( one of the 4 principles );
7. a particular process in which minerals ( especially quicksilver ) are subjected;
8. hurting, injuring;
9. aversion, disfavor, dislike
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