忘れられない激○○料理

見辛いは漢字変換できたのですが皆さんは使う表現ですか。
~づらいは会話に限るべきでしょうか。公式にはダメなんですかね。難いであって辛いじゃないだろという意味合いから。

まさか「みにくい」は醜いから忌避されてですかね。とりあえず東日本の発音としては「みにくい」は相対的に言いづらい(すっきりしない、しゃべった気がしない)と思うのですがその他の地域の人はどうですか。

たとえば関東人の発音法では難しい音の並びというのは言語学的に正しい用語で表現するとどうなりますか。

文書の場合は言いづらくなる障壁がありませんから言いにくいと書くような使い分けがなされていませんかね。
発音習慣?の地域差と発音原理?をご解説の中心にして深く、分かりやくご教授して頂きたいです。宜しくお願いします。

A 回答 (7件)

#5です。



>づらいはウェットなのですね。

そういう側面では、「にくい」がドライだといった感覚も近頃の若者にはあるようです。
「さて、近年、若い人は「にくい」よりも「づらい」を多用する傾向にあるといわれます。若い人に尋ねると「にくい」は人を責めているような感じがするため、自分の感覚をいう「づらい」の方が使いやすいのだそうです。」(NHK「言葉の宝船」より)
http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/89122.html
「「にくい」から「づらい」へ移行しているとも言えます。」(NHK「ことばウラ・オモテ」)
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraom …

もう少しうがった見方をすれば、客観的課題に向かうのが面倒で「やりにくい」からといって、自分がそのような行動を起こすことが億劫なので「やりづらい」と言ってしまう風潮がしからしめるのかもしれません。

閑話休題。
漱石の「草枕」の出だしは、立て続けに「住みにくい」が9回も繰り返されます。
その後も「読みにくい」なども幾度も続きます。ところがその中で唯一、次の文章が現れます。
「日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。」
「とかくに人の世は住みにくい。」を繰り返した主人公の、この終盤に至ってのさりげない一言「生きづらかろう」が際立ちます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_1 …

「良人に別れただけでなく、世人すべてから冷眼視されている美しいこの公卿後家が、いかに生きづらいかなど、訊かなくても彼にも分る。」(吉川英治「私本太平記 帝獄帖」)
この文脈においては「生きにくい」とは決してならないでしょう。

自身の作品において「読みにくい」を連発した漱石ですが、「『土』に就て」という「長塚節著『土』序」という推奨文においては「読みづらい」が連発されます。ここで漱石の本意はいかなるものか、それが堂々と「読みづらい」と言明することで伝わって来ます。この場合、「読みにくい」では断じてありません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2668_ …

>自動詞の接尾語にづらいはダメですか。…ひょっとして組み合わせのルールがあるんでしょうか。

意志的な動詞との相性について、また組み合わせについては、例えばこのような辞書記載もあります。
http://kotobank.jp/word/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81 …
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/14570/m0u/

これまで、「○見づらい、×見えづらい」に関して、自他動詞の差異として触れてきましたが、これを接尾語「…づらい」一般としての用例の適合性の是非として捉える場合には、さらに込み入った見方が求められるでしょうが、そのような明解なルールまでは不明です。

>そのちょっとした面倒・不利が、言葉進化論的に辛いの継代を減らし、難いが言語界の勝者になるという傾向ですかね。

確かに簡便なのは「…つらい」ですね。それなのに近頃の若者が「…づらい」を使い出しているとしたらどうしてでしょう。自分の望まないことはしたくない事情をを婉曲的に表すのに便利だからでしょうか。勘ぐれば自己責任を逃れる言い方にもなりますし。

>にくいは難いという漢字になるという認識のもと結局はがたいとは訓読みの古風さが違うだけの同じ言葉と扱われていませんか。

「…難(がた)い」には、漢文の「難言」が読み下しでは「言い難し」となることからも分かるように和訓の「難(にく)い」より一層硬い表現で、したがって困難でもより一層不能・不可に近いニュアンスが感じられます。
「故郷忘じ難し」は「がたし」であって、「にくし」ではトーンが足りない感じです。

>早い時期に希薄化したとはどういう文意ですか。辛いでは物足りなくて辛労という増強表現が日常語になったということでしょうか。

マアそんなところです。くたびれることはやりたくないといった方向転換かのしれません。
「シンドイ(形容詞) シンロウ(辛労)にイを付けて形容詞化したもの。この種の形容詞には四角い・ひどい(非道い)・めんどい(面倒い)・じょうぶい(丈夫い)などの例がある。 越谷秀真編「物類称呼」に「くたびれといふことを、畿内にて、しんどと云ふ。しんろの転語にや。しんろは、辛労なり」(牧村史陽編「大阪ことば事典」)として、その出典を室町末期頃の「狂言記」にまで遡っています。
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この回答へのお礼

ご指導ありがとうございます。

づらいは困難さを感じるさま。にくいは抵抗を感じるさま。
どちらも感じると感情表現なのですか。
抵抗があることにならなければ科学用語としての客観的とはならないと思います。
ひょっとして、がたいのみを客観的とするのが最適の解説なのでは?

漱石の「土」では、最終的に「読み苦しい」と表現しますね。読みづらい=読み苦しい。
づらいは意味的に接尾語じゃないかも。読んで辛い、見て辛いという辛さの表明。その応用例が見にくいと並ぶ。

勉強のためにお聞きしたいです。回答者さんが本をたくさん買われる人なのは知っていますが、今回の小説引用は、パソコンで探索して頂いた結果ですか。

全く閑話ではございません。重要な情報ありがとうございます。
づらいは絶滅危機どころか、若者の使用が増えているのですね。その日本人の成り行きを自戒する意識が下卑た関東弁という認識につながったのかもしれません。

起源が18世紀といっても大昔ですが言葉遣いは中世は9世紀頃に起源があれば一般的な公式用語の域まで浸透するからでしょうか。ようやく、現代も最近になって、づらいが増えてきているというのは、にくいに押されっぱなしだったわけですよね。
NHKの話がいつどんな調査をしたのか知りませんが、昔の関東人(夏目漱石)は、日常会話でも、小説草枕同様の割合だったかですよね。渋谷の若者が言葉と取材に本音を出すようになったという気取らなさ・だらしなさではありませかね。
NHKによれば、づらいの方が誰も非難せずに済むとのことですし、いわば私にとってやはりコペルニクス的に「上品」になりますが、結論として公式の文言に、づらいは避けた方が無難という感じ、心理です。まさにその無難さが日本文化の傾向であり若者は日本の傾向の最後尾にいるだけ。

づらいの公式使用をどう思われますか。論説ではなく、伝達や掲示などにおいて。見苦しいは別の意味になりますよね。でも読み苦しいは結構いけるんじゃないですかね。


関西のスラングかと思っていましたがしんどいの歴史は古いのですね。江戸時代より前は上方が圧倒的に文化的で、門前の小僧文化から辛労いになった気がします。
関東では、面倒いはなく、面倒臭いですね。しんどいパターンは下らなかったとか。


個々の回答者さんに完全性を要求していませんのでお気楽にお付き合いください。
見習いたくなる人です。
国語趣味に引き込まれそうです。

お礼日時:2013/01/30 00:57

#6です。



#5の「確かに簡便なのは「…つらい」ですね。それなのに近頃の若者が「…づらい」」の、
これは「確かに簡便なのは「…にくい」ですね。」の間違いです。訂正します。

>づらいは困難さを感じるさま。にくいは抵抗を感じるさま。どちらも感じると感情表現なのですか。

これは「「‐づらい」は有情の自他の困難さを感情的に抱いたさま。「‐にくい」は有情のみならず無情の抵抗をも受けたさま。」と言い表してはいかがでしょう。

>ひょっとして、がたいのみを客観的とするのが最適の解説なのでは?

「-がたい」はもはや古語化して「得難い」「ありがたい」など特定の慣用表現以外では、困難や抵抗よりもっと歴然とした否定表現「なしがたい」「起こりがたい」などに収まりつつあると感じられます。

ちょっと意表外に思われるかもしれませんが、私の場合は言葉遣いに迷った際に行う方法がありますので、ご参考までに実際にその例をお見せします。
特許検索(「ワード」検索)
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
「見づらい」
検索結果…113件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
一覧表記
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_list.cgi?S …
簡易表示(個別例)
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/BE_DETAIL_MAI …
「見辛い」…7件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
「見ずらい」…26件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
「見にくい」…182件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
「見難い」…94件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi
「見がたい」…0件
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_search.cgi

これは出願者たちの言語能力をめぐるお遊び程度ですが、例えば「方言」などと引くと、警報機の説得力(標準語ではぴんと来にくい)や音声応答・認識などには重要なファクターであることが分かります。
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/BE_DETAIL_MAI …

>づらいは意味的に接尾語じゃないかも。読んで辛い、見て辛いという辛さの表明。

その通りでしょう。たかだかこの百年そこそこでは用言「見る」と相言「辛い」という語基同士のゆるい繋がりの連語(複合語)であって、その一部がようやく語基と「‐づらい」という接尾語(接辞)との派生語となりつつある段階で、まだ熟語となるほど熟(こな)れていないという見方ができます。

>今回の小説引用は、パソコンで探索して頂いた結果ですか。

そうです。
たとえば青空文庫の中での語彙はグーグル上で「“づらい”site:aozora.gr.jp」で検索しています。
そこで、出てきた作品を開き、そこで更に「Ctrl+F」を入力してワード検索機能を付加し、そこで改めて「づらい」を入力します。検索で4件がヒットし、その検索バーの「次へ」でその黄色いマーク箇所に飛んでいくことができます。
このような手順で、さまざまな語彙が、どの作家のどの作品にどのように使われているかが学べます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2668_ …

また、「近代デジタルライブラリー」でも同様に検索ができます。
http://kindai.ndl.go.jp/
「にくい」と入れて検索をかけると、45件がヒットします。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID= …
そこから項目ごとの「→」マークをチェックすると、例えば、
「第17 言ひにくい言葉」が閲覧できます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102549/129
このようにして、半世紀以前の日本語の遣い方の代表的範例のチェックを行います。
もちろん日本を代表とする国語辞典などの閲覧も可能です。

>国語趣味に引き込まれそうです。

ぜひぜひ。ネットで手軽に分かる知識ではなく、より一層学ぶための疑問を深めるための国語趣味ワールドにようこそ(^_^;)。
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この回答へのお礼

大変参考になります。いつも具体的に検索のコツを教えてくれる人がいないものかと思っていました。URLの紹介されただけで目的の検索を達成できる質問者ならば最初から一人で出来ているのです。このような回答をしてくださる会員は以外にも稀有でして感動しています。が、小生の携帯ではすべてアクセスし難い結果でした。必ずや後見致します。

高価故に所有しがたい、あの何とか国語大辞典をひくこともできるのですか。ではなくて検索すればたまに国語大辞典からの引用がヒットするということですか。
辞書屋も商売ですから分かるのですがネットの辞書検索は使いにくいです。何をひいて得た知識なのか私の頭の中で整理されませんし。


回答者さんの解説文のとおりならいいのですが、にくいの意味はご紹介のNHKのページによると、日本国語大辞典をひいて、その動作に抵抗を感じるさま、なわけです。づらいと対句になるようすり合わせて編纂されたかのようですが結果、大辞典はどちらも感じを表す単語という認識に終始します。動作に抵抗が有るさまと記載すれば簡単だし感じではなく有ると書いて始めて科学的客観性の意味を伴えると思います。つまり対句的にしている日本国語大辞典は、にくいもづらいと同等に主観の域をでない言葉であり、その差異はないと明示する典籍になります。主観ではなく物理的困難さを表現するのに、辞書の意味が感じるさまでは反対に不適当になりませんか。
和語では無理なのでしょうか。辞書屋のレッテルでしょうか。漢語表現を勧める既出回答者さんの流れを辞書に垣間見るのは世の常になっているからでしょうか。
和語でも自然の物理的困難さの記述が可能だし、にくいにその立場を与えていいと思うのですが。


杵さんのプロフィールにある俳句を例文に季語などの俳句の要求性が俳句を敬遠させるという長年の私の疑問をいずれ質問しようと思っていますが、その節は句や回答者さんへの反意や否定ではない事をご理解ください。プロフィール自体が大変勉強になりました。その句も気に入りました。ただ私の性格は句以上に、家元主義が象徴するような是非の格式化とその迎合者の呑気さに対して批判的なのです。俳句にもそれを見るのです。

お礼日時:2013/01/31 00:42

#4です。



>づらいは下卑ているから遠慮してきたのですが逆でしたか。

「見にくい」は、その当事者がいかがなものかについてではなく、その見るべき対象がいかがであるか、あるいはその間を媒介する環境がいかがかという、いわば客観的事情についての見ることの困難さに焦点があたっているのに対し、「見づらい」は、その当事者自身における、見ようとする思いがありながらの見ることの困難さに焦点が合わされて、その心理的事情である心情葛藤面において、発話者自身であれば告白として、また相手の人ならばその思いを慮(おもんばか)る形での推定表明になるのだとみてはいかがでしょう。
その、いわば客観性を帯びた「見にくい」の方が、距離を置いた第三者的付き合いを当然とする今日的事情に馴染みやすいのに対し、「見づらい」が、発話者自身においては「自己チュー」的意識として、相手に対しては「余計なお世話」的であるとして、いわば「下卑ている」と感じられる傾きが募って来つつあるということではないでしょうか。

>繰り返し自動詞他動詞を付記されますが私目にはピンと来ていません。本件の説明にどう役立っているのですか。言葉が違うという区別ですか。

他動詞「見る」は「を」格でその対象を明らかにするが、「見える」は自動詞なので「が」格だけで済むという動詞の特性の差が、形容詞化しても、客観性と主観性というニュアンス上の残渣となっているかようです。

「字<を>見た→字<が>見にくい」
他動詞連用形に屈折語尾「にくい」のついた場合では、「が」格だけでは表明対象が任意なままで意味が不分明となりやすい。
・対象物…黒板の字を見た→字が見にくい=字が細かすぎる/字が汚い。
・周囲環境…ボールを見た→ボールが見にくい=暗くなった/バッターの頭が邪魔。
・当事者…彼が字を見た→彼は字が見にくい=老眼が進んだ/眼鏡の度が合わない。
・発話者=当事者…字を見た→字が見にくい=老眼が進んだ/眼鏡の度が合わない。

「字<が>見えた→字<が>見えにくい」
自動詞では「が」格で発話者の側に焦点が合う。
・発話者=当事者…字が見えた→字が見えにくい=老眼が進んだ/眼鏡の度が合わない。
他の当事者や、周囲や対象物に触れる場合は「だろう」という推定判断のモダリティが求められるでしょう。

>私の新品同様の古語辞典に「辛し」とだけありますが「辛し」「酷し」の二通りがあるのでしょうか。

「辛(つら)い」の漢字本来形は「艱(つら)い」であり、また「酸(つら)い」でもあるでしょう。「艱難辛苦(カンナンシンク)」で、「つらく・きびしく」しかも「からく・にがい」とか。
「ツラシ 他ニ対シテ酷(ムゴ)シ。ナサケナシ。酷シトモ。」
「ニクシ 憎シ・悪シ (熟語ニ用イル際)難シトモ。」
(共に「言海」ちくま学芸文庫版)
なお、作家たちの表現では「愁い/痛い/怨襟/憂い/厭苦い/虐い」などもあります。

そして「つらし」の古語形の方も「わびし/からし/いたし」などの言い方と関わっています。
「からし【辛し・酷し】 (1)塩気が強い、(3)残酷だ、ひどい、(4)つらい、苦しい、…「何ぞ痛きことの酷(から)き」(日本書紀・欽明16年2月)」(「古語大辞典」小学館)

この「古語大辞典」の語誌では次のような記載になっています。
「「つらし」は自分、または、相手からの能動的意志的な働きかけによって生じる非友好的な人間関係のありようを形容する語。…「つらし」の表す情意が方向性を持つのに対して、「うし」は自分自身への恨みの情を表す語で、自己完結的である。…しかし、後世、「うし」が衰退するとともに、「つらし」が「うし」の意味領域をも兼ね表すようになる。」

その伝でいけば、今や「後世、「見づらい」が衰退するとともに、「見にくい」がその意味領域をも兼ねる、もしくはその意味領域そのものの用法さえも衰退していったようになる。」とでも記されるナンテことも…。
その意味では「にくい」に物理・技術面だけでなく心理的側面さえ加味した当世風の、次のような説明に納得も行きます。
「「辛い」は自分の行為に対して、また、「にくい」は自分の行為だけでなく、相手の行為や者に対しても用いられる。」(「使い方の分かる類語例解辞典」小学館)
これに今回の場合は「見る」には自動詞形もあるため、一層分かりにくくなっていると言えます。

ともあれ、「見る」に限定しない場合においての、動詞の連用形に付いて困難さを表す接尾語「…にくい」と「…づらい」については、次のような説明ができるようです。

「―にくい」は、「歩きにくい」など意志動詞だけでなく、「壊れにくい」など「事象そのものの性質を表す無意志性の動詞」にも付くように、客観的困難さを表す。「客観的ということは、対象側に困難を生み出す原因・理由がある場合が多い」ので、「取れにくいネジ」は加工上からはマイナス評価だが、物を止めておくという使用上でもメリットをも表し得ます。

その点、「―づらい」の方は、「そのほか「―あぐねる」「―なやむ」などもある。これらは「―にくい」と違って、自然現象や無意志性の動詞には続かない。人間がある行為をしようとする時に、対象・主体・周囲のいずれかがもつ条件によって、困難さを覚える状態に用いる。」(森田良行「基礎日本語」角川書店)、そんな当事者にとっての心理的「もどかしさ」を伴うマイナス評価のみなのだと。

そして、それを逆手に遣うことがまた、待遇表現に重宝だったのだが、タメ口主流の昨今においてはそんな敬語的「手口」は遣い方が<見えにくい>だけの余計者であり、野卑な「関東方言」であって、何とも「聞きづらい」ものなのでしょう。
ちなみに、関西弁の「シンドイ」は「辛労辛苦」の形容詞化「辛労(しんろう)い」に由来すると見ると、そもそも「つらい」という表現自体が早いタイミングで希薄化しているという、地域特有の事情も根底にあるのかもしれません。

この回答への補足

頂戴したご解説を温めています。もったいないです。

づらいはウェットなのですね。ウェット→不謹慎の流れに感じます。おっしゃられる共感はいやらしいのですね。タメ口というより個人商店が消え団地暮らし核家族サラリーマン世帯塾通いの体勢かも。他人と親近感、意味わかんない。江戸っ子は親切だが東京人は非人情みたいな。

私は自動詞他動詞の区別がつかないので間違っているかもしれませんが。
自動詞の接尾語にづらいはダメですか。
取れづらいネジのように。
他動詞づらいは取りづらいですか。
ひょっとして組み合わせのルールがあるんでしょうか。
そのちょっとした面倒・不利が、言葉進化論的に辛いの継代を減らし、難いが言語界の勝者になるという傾向ですかね。

にくいは難いという漢字になるという認識のもと結局はがたいとは訓読みの古風さが違うだけの同じ言葉と扱われていませんか。
ご説明の部分について安直な私は、にくい→難い→がたい→困難という翻訳で対応してきました。

しんどいのしんは辛でしたか。早い時期に希薄化したとはどういう文意ですか。辛いでは物足りなくて辛労という増強表現が日常語になったということでしょうか。どぎつくせなおもろないで。角や牙が無駄に大きくなるような本能的要求。

補足日時:2013/01/27 20:24
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この回答へのお礼

ご指導ありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします。

お礼日時:2013/02/01 21:36

#3です。


更に角度を変えて続けてみます。

他動詞「見る」由来の形容詞「みにくい」は自己表現としてはまだしも、聞き手への印象として、その言い方「見難(にく)い」の中にも、好悪の意識「見悪(にく)い」が、さらには忌避や嫌悪の意図「見憎(にく)い」が、遂には「醜(みにくい)」にと、負の連鎖が忍んでいるきらいがあります。

ここから、聞き手を意識した婉曲表現として、自動詞「見える」由来の形容詞「みえにくい」が、一般的に文章的表現として見受けられます。
・話者が当事者…齢のせいか、近頃細かい文字が見えにくくなった。
・聞き手が当事者…万一見えにくいようでしたら仰ってください。
・周囲環境…暗くなってボールが見えにくくなりましたので薄暮ドローと致します。
・対象…印刷不鮮明などで文字に見えにくいものがございましたらお申し出ください。

一方、他動詞「由来」ですが、「見づらい」という表現には、その当事者に即した「辛(つら)さ」や「酷(つら)さ」という情意や情実に関わる側面が付加されているためか、自動詞的表現としての用法が可能となっています。換言すれば「みえる」という自動詞に付く形での「見えづらい」という言い方がほとんど遣われないことからも考えられます。
ここから、自己表現の「見にくい」や婉曲表現の「見えにくい」と比べて、相手の意思を慮る「見づらい」は、会話における待遇表現として遣われていると見られます。
・話者が当事者…齢のせいか、近頃細かい文字が見づらくなった。
・聞き手が当事者…どこか見づろうございましたら、お言い付けください。
・周囲環境…暗くなりました。ボールが見づらくはありませんか。
・対象…印刷不鮮明などで文字が見づろうございましたらお申し出ください。

動詞語尾を屈折して形容詞をつくる「…つらい」には、相手を配慮した待遇表現にと繋がる独特の意味合いが特徴なのですが、タメ口ばやりの昨今では、もはや消えざるを得ない用法ということでしょうか。
「酷(ツラ)シは『大言海』に強顔(ツレナ)シの約とあるが、それよりも連(ツ)ルから直接派生したと見る。連帯感から対他的感情に意味変化したものであるとするのが一番妥当である。」(吉田金彦「国語意味史序説」明治書院)
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございます。
コペルニクスです。
言葉遣いは、しづらいの方が上品だったという事ですか。
方言論についてはご容赦していただくとして、づらいは関東方言という選別が実在していると思います。づらいに関しては関東人の方が野卑でなかったという逆説になりますかね。づらいは下卑ているから遠慮してきたのですが逆したか。
風化する原因はタメ口ないし家庭言語の貧弱さかも知れませんが私のようにただの洗脳なのか留意と配慮によって「しづらい」の廃止運動がなされてもいませんか。だとすれば国語系の言論人には逸早く世間の勘違いを指摘してもらいたいです。国語遊びばかりではなく。

繰り返し自動詞他動詞を付記されますが私目にはピンと来ていません。本件の説明にどう役立っているのですか。言葉が違うという区別ですか。それは西洋由来の方便ですか。
私は意識してきませんでしたがこだわる効能をご教授していただきたいです。

今回も典拠をご紹介くださり非常に参考になります。サイトも面目躍如です。そこいらの国語教員ではそうはいかないでしょう。
私の新品同様の古語辞典に「辛し」とだけありますが「辛し」「酷し」の二通りがあるのでしょうか。「辛し」の方も語源研究家によると「連れ」の連帯感由来なのですか。連帯感ではなく顔がひきつれるという不快感なら解りますが吉田金彦さんには美化傾向がありますか。

回答者kineさんに高校時分こういった国語を教わっていたら進路が変わっていたかも知れません。金輪際、やっつけ国語教員をやっつけてしまいたいです。

お礼日時:2013/01/26 16:13

#1です。



もう一度関係リストを作り直してみました。

A.見る側の事情
1)視覚・視力
見る能力上、よく「見える」(自動詞)か?→(よくは)見えにくい(難い)。
2)補正(メガネなど)
どんな度数だと、ちゃんと「見える」(自動詞)か?→(まだ)見づらい(辛い)/見えにくい(悪い)。
3)修正(姿勢など)
どの位置だと、「見る」(他動詞)のがより楽か?→見づらい(辛い)/見にくい(難い)。
4)心理的
なんで、「見る」(他動詞)のを欲する(見たがる)(形容詞化)か?→見がたい(難い)

B.中間に入る媒介・障壁
1)物理的
暗くなった/曲がりや障壁がある/霧雨や雪など見通しが悪く、ちゃんと「見える」(自動詞)か?→見づらい(辛い)/見えにくい(悪い)。
2)心理的
周りの景色が綺麗/汚物が散乱しているなども見たいのか?→見がたい(難い)。

C.見られる対象側の事情
1)物理・技術的
鮮明に見えるか?→見にくい(難い)
分かる程度には見えるか?→見づらい(辛い)
幾らかは見えるか?→見えにくい(悪い)
2)心理的
嫌悪で見るに堪えない気持ち→見がたい(難い)/見づらい(辛い)
その気がなくて見て見ない気分→見にくい(難い)/見えにくい(悪い)

この回答への補足

ご親切に深謝しております。
なるほど(笑)感心させられます。

やはりいちいち辛いという語義から演繹すべきでしょうか。基本かもしれませんがこの疑問に際しては頭の片隅にもありませんでした。初心忘るるの戒めでしたかね。

語根の語義が無視されている合成語などは多いと思いますが、見にくい見づらい、食いにくい食いづらいの語根でもある、にくい、つらいは一般的に意味が生きているのですか。
決定的な対比例が思い当たりませんが、日本語がテキトウだからですかね。ご指摘の選び方を皆さんされてますでしょうか。

~づらいが方言ないし野卑という遠慮・感覚は、辺境な偏見ですかあるいは一般的にそう言える時代の感傷ですか。

補足日時:2013/01/24 16:35
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この回答へのお礼

毎回、頭が下がります。
学の真価です。敬意を覚えます。

お礼日時:2013/01/27 20:39

「見辛い」も「見難い」も、大人の公式文書には不適切。

いずれも、漢字で書けば分かりにくくなり、かといって、ひらがな表記にすれば甚だ幼稚な表現となり、語彙力の無さとか、学識の低さを疑われます。従って、このような表記は避けるのが賢明。判別困難、判読不能、不鮮明、不明確、不明瞭、判然としない、渾然としている、漠然としている、などという語彙を状況に応じて遣い分けるのが宜しいと思われます。
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。
飛んできたボールが見にくい場合の公式文書はどんな感じになりますかね。一般的に使える語彙はありませんか。
にくい、づらいの公式語は不能というか困難ですか。他にありませんか。公式文書は漢熟語限定ですか。

例えば患者が記入する用紙の設問として、見づらいですか、より、見にくいですか、なのか。
他の例でも構いませんが、要は、○○づらいは、方言と認識して控えるべきかという質問です。

お礼日時:2013/01/23 23:26

「見辛(づら)い」…見る側の行為に関わる。


「見難(がた)い」…見る側と対象の両方にわたる心理的抵抗について。
「見難(にく)い」…見る側、対象、その間の事情など、すべての物理的・技術的に困難な言い回しにはオールラウンドに遣える。
「醜(みにく)い」…心理的に「見難(にく)い」意識とその表象。

大雑把に下のような相関表を作ってみました。

                     見難(にく)い 見辛(づら)い 見難(がた)い      
見る側の事情
1)物理的(眼鏡の度が合わない)    ◎       ○         
2)技術的(目が疲れている)                ◎
3)心理的(見たくない)                   ○       ◎

その間の事情
1)物理的(障壁がある)          ◎      
2)技術的(照明が弱い)          ◎      

見られる側の事情
1)物理的(震動している)         ◎
2)技術的(印刷が不鮮明)        ◎
3)心理的(嫌悪・悲惨心を誘発)                     ◎
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この回答へのお礼

いつもご指導ありがとうございます。
せっかくの表ですが位置がずれて見にくい状態です。「◎」〈○〉のように対応があると間違いないと思います。
位置の確認ですが、見る側の技術問題では「見にくい」に丸がない表ですよね?

本来「見づらい」は「見る能力」にのみ言及する言葉ということでしょうか。目から鱗でした。見づらい、食いづらい、などと、会話では、づらい一辺倒になっている関東人は多いと思いますが、使い分けていくのが国語として望ましいのですか。

おそらく関東では「しづらい」「やりにくい」の組み合わせで会話していると思いますが、音の並びではありませんかね。しにくいは「死に行く」みたいだし、やりづらいは、舌が回りづらいです。対応表の応用として、外国語などで、自分の発音能力が原因の時、舌が回りにくいは間違いになるのでしょうか。見る側の事情で「にくい」に丸がないのが気になります。

お礼日時:2013/01/23 23:08

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