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日本の戦国時代に関する質問です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に加え、毛利元就・武田信玄・上杉謙信など強力な武将がたくさんいましたが、軍隊の統率力やカリスマ性は抜きにして、彼ら個人の強さはいかほどでしょうか?
(ここに挙げられている以外の戦国武将でも構いません。著名な武将を挙げただけですので)

騎馬でも槍を持った一騎打ちでも構いませんが、戦国武将が一人で戦った場合の強さです。

例えば、上杉謙信は戦争の腕前はいうまでもなく、自身で馬に乗って戦場に出ているあたり、個人としてもなかなかの実力はあったと思われます。

また、家康や今川義元には「東海一の弓取り」などと個人の武名がありますが、秀吉や信長については聞いたことがありません(秀吉には「人たらし」がありますが、これはあだ名であって武名ではないですよね)。

A 回答 (13件中1~10件)

失礼な表現、記載、誤記等ありましたらご容赦ください。



>軍隊の統率力やカリスマ性は抜きにして、彼ら個人の強さはいかほどでしょうか?

他の人の意見の同じで数値化出来る訳でもなく、すこし、答えようのない質問です。
でも興味があるのであえて答えます。
史実は史実で学者の先生に任せて…

信長・秀吉・家康
個人レベルの武芸はそれ程でも無かったと思います。
謙信と信玄は微妙で良くわかりませんが逸話含め考えると、おそらくそれなりに有ったような気がします。

剣豪と言う意味で名を残している人は強いのでは…
その辺は除外して
大名やその息子あるいは、大名となった祖など限定的に名の上がっていないところで

「真田幸村(信繁)」は大阪の陣で家康の陣までたどり着いたとか言われています。
真田家は兄の血筋ですが…
「島津義弘」は関ヶ原の戦いで意に添わず西軍につき少数で福島正則の軍やら軍馬で中央突破して、家康に一泡吹かせるています。

ともにそれなりの馬術や武芸がかなり有ったかと思います。

上杉謙信は晩年を除き土地を部下に分け与えるとかしていなかったと思います。
小田原城まで行って北条に一泡吹かせた。
関東圏は勢力下にしたかもしれませんが支配下にはしていなかったと記憶しています。
利害関係だけで考えるのも疑問ですが覇者になれなかったのはその辺が原因かもしれません。
最終的には分け与える訳ですが…
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訂正  常山紀山→常山紀談




ゲーム等にある、
武力値56 とか統率力48
とかの数字も、信憑性の低い「軍記物」や「家譜」を元にした推測が多いです。
特に、カリスマだの統率なんてのはええ加減。
武士は、教科書にあるように、
「御恩と奉公」で働きます。
これは、
「土地をやるからオレのために戦え。」
「はい、あなたのために戦います。」
という主従関係です。
ですから、土地と無関係には、
「カリスマ」だの「統率」だの客観的には存在しません。
仮に、家康が土地が無ければ、関ヶ原で徳川家に従う大名はいない、ということです。
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A「逸話から考えて○○という人物が強い。


B「そんな記録はありません。」

大まかに分けて、まったく逆の2種類の意見があります。
どちらが正しいのか説明します。

戦国時代については、残念ながら正確な記録は少ししかありません。
しかし、江戸時代になって、大名の先祖自慢として「家譜」や、歴史エンターテイメント「軍記物」が書かれました。当然、「家譜」や「軍記物」には創作が多く、また、それらが、数少ない「正確な記録」よりもずっとヒットしました。
例えば、比較的正確な一級史料である「信長公記」は、つまらないので埋もれていき、創作物の「信長記」は大ヒット。桶狭間の奇襲とかの信長伝説の元ネタを提供しました。
戦国武将の逸話の多くは、江戸時代の創作、江戸末期の「名将言行録」や江戸中期の「常山紀山」などからであり、信憑性は低いんです。
しかし、古い文書の真偽を確かめる「史料批判」という正確な歴史研究の第一歩は、十数年前まで歴史学者の奥義であり、「家譜」や「軍記物」由来の信憑性の低い逸話に満ちた書物が未だに本屋さんにはいっぱいです。司馬遼太郎先生は大量の古文書を買って調べた事が有名ですが、かなり「偽物」をつかんだようですね。

☆「史料批判」とか「実証主義」とかの言葉の意味を多少とも理解できれば、
Bの「そんな記録はありません。」が真実に使い事がわかりますね。
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この人物が、全生涯で殺害した人数は知りません。


また「戦国武将」という定義も、人によってはそれぞれでしょう。

ただ、武田信玄の父親よりは遅く生まれていること、それでも
武田信虎は戦国武将のひとりとして認められていること、
支城とはいえ、城主であったことから、「武将」の定義に
かなう人物として、上野長野氏の武将で大胡城主であった人物を挙げます。

言うまでもなく、

上泉信綱
新陰流の祖、

です。


細かなエピソードや、石舟齋との絡み、門弟たちの活躍は
ご存知でしょう。
剣、槍の技に秀で、抜きんでた強さを有していたのは
おそらくこの人物だと思います。



塚原卜伝もきわめて強かったと思いますし、無刀どりを会得した
石舟齋は信綱よりもさらに強くなったのかもしれんせんが、
「武将」という点で問題があるでしょう。

あとNo5の方が挙げられた人物、家康、北畠具教、足利義輝、
立花宗茂は、大名ではあっても優れた武芸を会得していたと
思います。大名だから政治や経営、戦略、人心収攬などに
しか秀でていなかったと考えるのは早計というものであり、その意見には
賛成できません。当時は現代のような安全な時代ではありません。
食うか、食われるかの時代です。文字通り、生きるか、死ぬか、です。
したがって武芸の鍛錬は抜かりなく、怠ることなく行っていたはず
ですので、固定観念にとらわれないようにと申し添えておきます。
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信長や秀吉は個人の武勇としては並みです


組織の長だったから優秀でしたけど


個人なら

後藤又兵衛基次
島左近清興
可児才蔵長吉
土屋昌恒
塙団右衛門直之
前田慶次郎利益
足利義輝

個人で強いのは彼らです
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鬼武蔵こと森 長可を推します



逸話が多すぎて全て書ききれません。
初陣は信忠が長島の一揆衆をみてつぶやいたのをきいて、単独で敵陣にわたり27人殺して武勇を見せつけます。

その後は関所破りで名を馳せます。
もめる→すぐ殺す→遺体放置→大騒動→信長が笑って許す(おかしい)というパターンを何度も繰り返すなどが有名ですね。

とにかく数ある逸話が尽くひどいですね
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織田信長・徳川家康、毛利元就・武田信玄・上杉謙信は、大名の息子なので指揮官からのデビューですよね。


 戦場で直接戦闘の経験はないと推察します。豊臣秀吉は、足軽からのデビューなので戦闘経験はあったかもしれませんが、武勇の逸話が残っていないところを見るとあまり強くなかったと思いますね。
 一方、加藤清正、福島正則、前田利家、山内一豊などは、一兵卒から槍働きで大名まで出世したのだから、かなり強かったと推察します。
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 一つ申し上げます。

戦闘能力や武力に優れていたからといって、それが戦国大名の資質を決定する要素とはなり得ません。
 戦国大名が領国支配で優れていたかどうかを判断する基準としては、
(1)領国支配を貫徹しうるだけの法的システムを持ち得ていたかどうか(戦国法・分国法の有無)
(2)経済システム(領国からの年貢徴収等のルールおよび手工業・商業者による流通システムに対する統制)の構築
(3)寺社に対するスタンス(独立空間としてのアジールに対する関与方法のあり方)
(4)家臣団の組織編成能力(法的ルールおよび経済強制)
等です。
 ですから物語としての英雄論など全く意味を持ちません。
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戦場では圧倒的に槍が優位ですので戦場での武勇という面では的外れかもしれませんが、


戦国大名の中にも高名な剣客から剣術を伝授された人は何人もおりますね。
例えば 塚原卜伝からの足利義輝や北畠具教
     奥山休賀斎からの徳川家康
     丸目蔵人佐からの立花宗茂
など
この方々であれば剣を取っての戦闘ではそれなりの強さを発揮したのではないでしょうか?
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実際のところ、大名クラスで個人戦の信用できる史料はほとんどありません。



上杉謙信の場合は、自ら太刀打ちに及んだことが確認できますが、それほどの激戦であったと言うだけで、その結果敵を倒したと書かれているわけではありませんから、個人の武勇は不明としか言いようがありません。
結果的に敗死しましたが、桶狭間の今川義元はかなり奮戦していますね。
自ら前線に積極的に赴いて鉄炮を撃つなどしていた信長も個人の技量もかなり高かったと思われます。
大名クラスともなれば、基本的に武士の嗜みとしてある程度の技量は持っていたのではないでしょうか。
なお、「海道一の弓取り」は武勇ではなく武略を賞賛したものかと。
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