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青春時代の頃までは辛いなら辛いなりに、楽しいなら勿論の事、生きている実感があり、「生」を感じていたのですが。大人を過ぎ、中年になった今では、何をやっても、なんだかな~と生きている感じがしてきません。

昔はあんなにも無条件で集中できていたものが今では、ふ~んというかんじになってしまいました

もしかしたら次に熱中できるものが見つけられてないのか、好きなものに本当に取り組んでいないからなのかな、とも思ったのですが、自分ではいまいち理由がハッキリとしません

同じ感じから抜け出たという方や、きっとこれが答えなんじゃないのかな?

と、言う方、なにかありましたらアドバイスお願いします

人生相談カテよりここの皆さんの意見の方が真理に近いと思ってますので、こちらで質問させていただきます

A 回答 (6件)

生きる原動力は、生物としての生きる意志であり、本来、


お金や出世といったアメ(馬車馬の目の前のエサ)や、
法規やモラルといったムチ(外的権威)によって他律的に
操られる事によるものでありません。
その精神的充足量の、人生を通算した最大化こそ、真の
生きる目的なのです。

それは基本的に、自律的意志の発現=精神的充足の
追及であり、一般的に目的化しがちなお金や物質的豊か
さはその過程上の二次的目的に過ぎません。
その生の社会性(交配、共同、分業)の発達において、
自己の生命性の拡張をフォロー(自覚化=自律的社会行動
=助け合いとしての労働)する認識の発達を省略し、自己
中心的な意識のまま他律的に社会行動をとらせるために
アメ(お金、出世)やムチ(法規、モラル)を発達させたのです。
しかしそれは、本来、死による幸・不幸0の状態から、充足
量の増進を目指して生きているはずが、いつの間にか苦痛
(マイナス)から逃げる事によって結果的に生かされる、
±0の死人に等しい生に陥っている事です。

しかし、そうした外的価値は、自覚的な充足追求行動と対立
したり、外的価値同士で矛盾したりして、「人生を通算した
精神的充足量の最大化」に反するだけでなく、認識の低下に
おいて、その達成を感受すべき意識の希薄化として、根源的
に充足量の最大化に反するのです。
そうした外的価値(正義、善、お金、権力)を排し、社会全体を
1つの生命として意識した、自律的生=愛により助け合う社会
の実現において、個の成果は全てに共有され、全ての人が
最大限の充足を得ると同時に、その総和において(最高効率
の社会性において)最長の充足量も実現、さらにそうして自己
の肉体を超越(他我)した意識において、自己の死を超えた
永遠の未来における意志の達成も(他への信頼の限り)得ら
れるのです。
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何を食べても美味しくて、性欲もビンビンで、ぐっすり眠れて、あれこれに興味がもてることを生きている実感と言うんでしょうか。

それは過ぎ去っていいんじゃありませんか。

だんだんとこだわりがなくなって落ち着いて、いずれご隠居さんになる。

なにかに熱中したいならしたいときにすればいいし、興味がないならやらなくていい。
昔は熱中できたのに今はできないってことに悩むのはおかしい。

体調が悪いとか、精神的に病的とか勃起しないとかなら治療してください。
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>熱中できるものが見つけられてないのか、好きなものに本当に取り組んでいないからなのかな、とも思ったのですが、



そうだと思います。加えて、死の恐怖を知らないことも一因かも知れません。

>同じ感じから抜け出たという方や、きっとこれが答えなんじゃないのかな?

一度、出血多量で死線をさまよって、運よく輸血が間に合って一命をとりとめました。
その後、生きている実感があり、「生」を感じていますよ。

会食、快眠、快便、それだけで生きている幸せを感じます。
もちろん、現代日本で保障されている安全保障と思想信条の自由があっての上ですけど。

会食、快眠、快便に恵まれれば、あとは日がな一日思索にふけっても良いし、人様の役に立つ事で額に汗を流しても良い。今は本当に生きている実感があり、「生」を感じていますよ。
やがて来る今生の終わりが名残惜しくてしょうがないですね。
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若いころは虚しさを避けるために いろんなことに手をだし(サッカー、ブラスバンド、ハイキング、ジョギング。

。。) 出来るものは何でもトライしました。
でも虚しさや寂しさ、得体のしれない苦しさはゼロにはなりませんでした。

人生は良いことばかりでは無いのはすでにご存じの事と思います。 山あり谷あり、山のあなたの空遠く幸いすむと人の言う。。。 先人が言った言葉には全て真実が含まれています。
いろは歌の 「無常」 の意味がなんとなく分かるようになりました。
ばかなことを繰り返して少しは賢くなったのかもしれません。

人生とはその様なものでは無いでしょうか。(自分のまだ分かっていないのですが)
自分がいつもお勧めしているのは 手塚治虫 の 「ブッダ」 という漫画です。 かなり分かりやすくてつい 涙が出てしまった場面もありました。 漫画ですが内容があってばかにできないものですので図書館にいって探して見て下さい。
ではお元気で。。。
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たしかに



哲学カテゴリーに

真実に関することに興味のある方が多く集われているということには同感です。

しかし、こと 幸せについては、政治的・社会的背景が

強く「個人の幸せ」に働きかけてくる

というのも事実でしょう。

結論から書きますと、幸せ感の減衰は、騙されたという実感的事実に端を発します。

騙されたと自覚した時から、「幸せへの動機づけ」が、蝕ばまれてくるのです。

時系列からして「若いころ」は、騙されてもいいという自分を突き放した「自由な自覚」があり、つらさや苦しさは、時を経れば変化するという確信を持っているものです。そうでない若者もいますが、それは別の話(若さの抜け殻=精神の老人/奴隷)です。

生きている実感というのは、個の利己主義から離れたところで=主体的ではない、きっかけが紡がれた複雑な構造の中で、いろいろな場所で・いろいろな事物を経験するということ自体に存在します。

大きな違いは、中年以降の性向として、余り状況を変えたくないという無意識の行動(行動反復・イベントの慣習化)と、それとは逆に、自分は具体的には何もしないが、なにかの夢物語を信じ、それを現実のものと思い込んで とんでもない行動に出てしまうという中年特有の愚かさ(慣習に反対する「無価値な主観」を自分だと勘違いしてしまう)を身に着けます。

つまり根拠のない/現実とはかけ離れた夢物語の「2ch哲学」を哲学と信じ込んでしまうということです。

以下にその一例をあげます。

Q権力とは何か?
A和を重んじることである。

Qでは 自由とは何か?
A 分別にとらわれず、権力を嫌うことである。

問題は、和に「内容定義」は、「ない」ということです。

それでもそのことについて議論しないではいられない。

人間の心理を 学的に知ろうとすると、結局、「感情」と「言葉」のはざまに はまりこみ動けなくなってしまいます。

「自分は無責任な男であり糞尿である」という自覚と
「きれいごとを並べたて他人を納得させるという「行動」の深淵です。

ねらー民主主義にとらわれ、自分が正義を行っていると信じ込んで、それによって
徹底的なまでに騙されて、そえれでも何が悪かったのか納得がいかない、

というのが 無気力の原因です。
一枚の紙切れに権力があるという勘違いが原因で
その勘違いを認めたくないという「かたくなさ」が
その不幸の直接的原因です。
「社会」とか「政治」とかから 離れた自分を見つけることです。

それだけが「自分の幸せ」を再構築する手段です。
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こんばんは。


私は、人生とは形作られねばならないものであると思っています。
いろんな条件によってその形は良くも悪くも影響を受け、整合のとれたものから歪なものにまでなるのですが、少なくともこの程度の形は保って居なければならない、というボーダーラインが存在すると思います。
つまりそれは、人としての振る舞い、態度、生活、嗜好というものがあって、それは厳しいものでもぬるいものでもないですが、人格を守るセオリーとして機能するもので、人を人として規定する一定の範囲を示すものであると考えられます。
それは道徳や倫理と言ったものに近いと思います。
私は今よりももっと若い頃、このライン際がわからず踏み抜いてしまい、道を外した発言や行為に酔って、それを楽しいと思い為し、自らで自らの人格を蔑んでしまった時期がありました。その頃に比べれば、今は確かにエネルギーなどは低下したけれど、ずいぶん人間らしくなったのではないかと思います。
子供の楽しみと大人の楽しみに違いが存在するように、それぞれのライフステージに適った生き方というものが存在するのだろうと思います。
年老いても心は若く、しかも賢く生きたいものですね。
合掌
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