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只今沖縄の大学4年次の者です。

質問の内容は 「今私が在籍している学科とは違う専攻の大学院に進学したい場合どうすればいいのか?卒論はその進学希望先の専攻に合わせた方がよいのか?」です。


具体的に説明しますと、私は国際関係学科という名の学科所属しております。
この学科で私は、中南米への沖縄県からの移民やその歴史(沖縄の歴史含む)、世界の国際情勢、紛争、国際貢献などについて幅広く学んでいます。


私が進学したい大学院の専攻は沖縄の戦争と歴史、博物館等への就職をめざしている専攻であります。

これまで大学在学中に沖縄の戦争等についてそれほど学んでいません、少し異なる専攻への進学は難しいでしょうか?

こういった珍しい進学例を何か知っていることがあれば教えていただきたいです。


まだ卒業論文は書いておりません。今からできることは何かあるでしょうか?

またアドバイス等ありましたらお願いします。

A 回答 (2件)

 こんにちは、少しばかり大学教育それも歴史学と歴史教育に携わる者です。


同じ「歴史学」といっても文学部の歴史学科と他学部での「歴史学」に対するスタンスは少しばかり異なりもします。この部分は質問者様が想定されている部分とほぼ重なる部分です。
 「文学部の歴史学科」での「歴史」の扱いがともすれば「史料学的スタンス」いってみれば考証学的な姿勢を色濃く継承していることも確かです。学問領域の一つである「歴史学」といえども「証拠」がなければ論としての合理性も科学性もないことは確かですが、かといって「それが全て」というスタンスにも問題はあります。
 「史料」を読釈することはできても、「そこから読み取れる事象」をその時代全体の中にどう位置付け、他の事象との連関をどう説明するか、といった問題も同時に問われる。これが「歴史学も近代科学の一領域に属する」と説明される部分です。
 幸いなことに質問者様には、そうしたベース部分が既に備わってもいます。国際関係の中(空間軸)でオキナワをどうとらえるか。そして同時に時間軸の中でとの問題意識形成されています。もっとも重要な部分でもある「ナナメ軸」は自身とは全く無関係である「他者が加わることでその対象がどう変化し、その変化が全体にどういった変化を生ぜせしめるか」の萌芽も朧気ではありますが見られます(専門とするならばまだまだ薄いのですが、なよりは遙かにマシです)。
 具体的に提案させていただくなら、
(1)「歴史教育と歴史経験」…テキストとしての「歴史叙述」とオーラル・ヒストリーとしての「歴史の聞き取り」
 この問題は「戦争記憶の継承」との問題につながります。その事例として「ドイツの歴史教科書」の先行事例があり、ドイツの歴史教科書はフランスやポーランドとの共同編集部分もあります。
 しかしながら、後者の「オーラル・ヒストリー」には多分に注意も必要で、ともすれば日本人の歴史意識からすれば、自らが被害者であるとの意識も強すぎるキライも多分にあります。そして年かさの高い人ほど、それも実際に戦地へと赴かず、自らは学童として何の事実も知らずに「戦争を経験してきた」と豪語する人ほどやっかいな存在もありません。自らの経験と歴史の経験の分別を付けることもできず、戦後世代を批判する。これほど学問的に無意味で無責任な発言をする階層も珍しい。同時に「自らの従軍経験を殊更に美化する」これはサンプリングからは除外しても構いません。先の自らの経験と歴史としての経験の違いを理解していないことによる。

(2)「戦争の定義」を再定義する…幸いなことに質問者様は国際関係論の領域に籍を置かれているとのことですので、既に「国家」「帝国」「戦争」といった概念が現在は「再定義される過程にある」との事実もご存知でしょう。
 あの「イラン・イラク戦争」に始まり、「イラク・アフガン戦争」「9.11」「アラブの春」といった事象を説明するならば、過去に定義されたこれらの概念では十分に説明することも不可能です。
 1980年代に始まる冷戦構造の崩壊と「その後の世界の枠組み」を説明するならば、経済体制に依存するこれら過去の定義ではどうしても説明不可能な部分が表に出てもきます。
 こうした現象を歴史学の立場から積極的に説明し直そうと試みたのが、「アナール学派」やそれを継承しつつ独自の視点を提起したブローデルそしてジョバンニ・アリギそしてトニー・ジャットといった先学達です。そしてその原点には例の『EMPIRE』(邦題『帝国』アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著)がある。これらも先学であるマルクスなりヴェーバーの「歴史認識としての世界史」を主題として扱っています。
 こうした点で、質問者様が卒論に「オキナワを歴史認識の対象として、学校教育にどう位置付けるか」を課題として採り上げても差し支えはありません。それはとりもなおさず、「9.11以後の歴史の枠組み」を歴史教育はどう受け止めるかとの問題でもあるとの認識になります。

 No.1の方が「経済学部に属しながら、憲法9条を採り上げる」との例示は、ある意味社会科学をバカにした言辞であり、卒論とはいえどもタイトルに対するサブタイトルで「その論考の意味を示す」ことであれば許容もされます。社会科学や歴史学をあまり舐めんじゃねえよ。
 学部の卒論からいえば、「オキナワ」というフィルターを通して眺めた日本の姿をアメリカから見たらどうなるか、などは既にある程度の蓄積もあります。
 アメリカは少なくとも「日本での成功体験(アメリカが主導した戦後一連の改革)」から何も学ばず、ベトナムや中東で泥沼状態に陥った。もし日本での経験が「あれは『日本という特殊な事例』だったから成功した」と理解していたなら、あの様な状態に陥ってしまってもいなかったはずです。

※僕の実例として、学部では経済を専攻した経済屋です。しかし「経済」とはいっても間口は広く、僕の専攻領域は日本経済史、しかも構造としての日本中世社会でした。卒論を仕上げる過程で、日本の史的展開にしばしば顔を覗かせる「公(オオヤケ)」なるものの定義の仕方に興味が移り、卒業後に勤務しつつ三年間の後に「社会人枠」で別の大学の歴史学科に学士編入で入学しそのまま院でマスター・ドクターを終えました。今では勤務と大学教育に携わる二足草鞋の形です。その意味では経済屋であり歴史屋であり、システム構築屋といった、捻れた人生でもある。
 個人的な意見として、質問者様には是非「歴史学と歴史教育」の双方に携わっていただきたいとも考えてもいます。
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門外漢ですが、



>卒論はその進学希望先の専攻に合わせた方がよいのか?

そんなことをすれば、卒業できないでしょうね。普通。

極端なことを言えば「経済学部で学んでいる人が『憲法9条の歴史的背景』の卒論を出す」ようなものです。

これが「憲法9条が日本経済に及ぼす効果」などならばOKでしょう。

ご参考までに。
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