親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

 太平洋戦争以前は、兵隊は、職業軍人と徴兵された兵隊の2種類があったと聞いています。そこで質問ですが、(1)徴兵された兵隊に給与が支給されたのですか?(2)給与が支給されていた場合、a.職業軍人と徴兵された兵隊は階級が同じであれば金額に差異はあったのですか?b.さらに兵隊が外地に出兵していた時はだれに支払われたのですか?
 マイナーな質問ですが、よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

こんばんは



資料を持っていたのですが現在行方不明なので記憶で書いています。多少あやふやですが参考にしてください。
昭和10年頃のようすです。
まず志願と徴兵に給料の差はありません。
二等兵の月給は4円50銭。民間サラリーマンの初任給が20円前後だったのでずいぶん少ないですね。しかし数字で見るほどひどいものではなかったんです。
兵隊の衣食住は全て支給ですから生活費は全く必要ありません。衣服(軍装)はフンドシ以外は全て支給、食事は味は別として”肉体労働”ですから栄養も量も配慮されていました。住居は兵舎。個人スペースは寝台(ベッド)のみなので何とも狭い。
さらに特殊勤務手当てがありました。これは不寝番や門衛などをした場合に支給される手当てで、ずいぶん数多くあったようです。当番制で強制的にやらされるものもありそれだけでも2円程度になったとか。もし目一杯志願すれば本給より多かったそうです。余談ですが不寝番をすると翌日は一日中寝ていてよいので人気があったとか。
当時は不況の時代でしたから大学を出た人でも就職できず入隊する者も多かったんです。

エリート軍人の第一歩は少尉からスタートしますが少尉の月給は20円ほどと記憶しています。軍装は自前でしたが少尉任官時に支度金が出ました。確か100円ぐらいだったと思いますが多くはその数倍の金を使って立派な軍装を作りました。ピストルと軍刀も自前でした。先祖伝来の日本刀を軍刀に仕立てることも多かったとか。
営内居住では食と住は無料です。少尉以上は営外居住もできました。この場合住宅手当、食事手当が支給されます。寒冷地勤務ではその手当てもありました。

netに旧日本軍人の給与を書いたものがありました。1943年(昭和18年)のものです。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120315/p1
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この回答へのお礼

 詳しい説明をありがとうございました。大変よく理解できました。

お礼日時:2013/09/07 08:35

>(1)徴兵された兵隊に給与が支給されたのですか?


当然支給されています。

>a.職業軍人と徴兵された兵隊は階級が同じであれば金額に差異はあったのですか?
これは、微妙です。
と言いますのは、徴兵された兵士の場合、徴兵される前の給与により、支給額が変化したためです。
徴兵される前の給与がよければ、差額分の一部が補填されていたため、職業兵士よりも給与がよくなる場合がありました。

>b.さらに兵隊が外地に出兵していた時はだれに支払われたのですか?
兵士への給与は、兵士本人に支払われる部分と、留守宅給料といって、家族に支払われる部分がありました。
兵士に支払われる金額は、階級により固定されており、2等兵の場合6円から9円、1等兵の場合9円、上等兵で10円(昭和18年陸軍)でした。

留守宅給料は、a.で述べた差額、兵士の手当、賞与などが支給されました。

海軍に応召された片山さんという人の資料が、「女性たちの太平洋戦争」という本にあります。
それによりますと、応召前の平均給与が90円でした。
(90円は、当時の師範学校の教師の平均給与60円からしたら高額です)
「昭和18年3月勅令309号」の規定により、この片山さんの留守宅給料は、
「90円(応召前の平均給与)-60円(昭和18年3月勅令309号による2/3減額)-6円(本人への直接支給)=14円(留守宅給料)となります。

14円に各種手当がつき、片山さんの留守宅給料は、36.3円となっており、そこに年2回の賞与(1回20円程度)がついています。
片山さんの年収は、435.8円(留守宅給料)+41.1円(賞与)+6円x12回=548.9円となります。

「女性たちの太平洋戦争」
別冊歴史読本特別増刊号
新人物往来社
より。
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この回答へのお礼

 詳しい説明をありがとうございました。大変よく理解できました。

お礼日時:2013/09/07 08:36

リンクも貼らずに引用とか記述とか、


他の質問サイトの回答=正解でもありませんし、身内の証言=事実とも限りません。
(どこまでが、引用で、身内の証言で、自分の意見なのかもはっきりしませんし)

>(1)徴兵された兵隊に給与が支給されたのですか?
>(2)給与が支給されていた場合、
>a.職業軍人と徴兵された兵隊は階級が同じであれば金額に差異はあったのですか?
>b.さらに兵隊が外地に出兵していた時はだれに支払われたのですか?

回答(1):支給されています。
(只働きだったと考える方がどうかしていると思いますが)

回答(2)a:差異はありません。
徴兵が「職業軍人」と同じだけの年数を勤められたり、その結果として能力を身につけて、それだけの階級に成れればですが。
そもそも、職業軍人とは、最低でも下士官以上(伍長とか)を意味します。
そこまでの階級に、徴兵の二等兵から短期に昇格するのは難しいと思います
志願兵は期間を限っての採用で、その間に試験や功績によって昇進しなければ退役となります。
普通の士官(少尉以上)は、士官学校を卒業した時点で少尉となり、部隊に配属されます。
全くの二等兵から、叩き上げで少尉にまでなるのはほぼ不可能です。
理由は、士官と下士官・兵卒は、仕事や求められる能力が違う為に、戦いが上手くてもそれだけで昇進させることはできないからです。
戦場の功績で昇進した人もいますが、それは「戦時待遇」に過ぎず、戦後はそれなりの階級に戻ります。

回答(2)b:本人に支給されています。
でないと、現地で休暇中に何もできません。

月給の額については質問されていませんが、↓のようになっています。

総理大臣:800円(東条英機)
陸軍大将:550円
曹長:32~75円
軍曹:23~32円
伍長:20円
兵長:13,5円
上等兵:10,5円
一等兵:9円
二等兵:6~9円
(大東亜戦争陸軍給与令によれば、戦地手当がつくので↑の約2倍になります。)

当時の大卒の初任給は40円~100円で、1000円あれば一戸建てが買えました。

↑の兵士(「職業軍人」ではなく)の給料が高いか安いかですが、世界では今も昔も末端の兵隊については失業対策としての性格があります。
実際、当時の日本(というか世界)は、不況の最中で、戦前から貧しい農家の子弟が多く軍隊に入っています。
そんなものが他の仕事より高給だった場合、世論から非難を受けるでしょう。


この類の質問では給料が「軍票が支払われていたようである」と言う意見が出ますが、
(しかも伝聞ですか)
軍票は占領地で現地人との取引に使用されていましたが、軍や軍属間では日本円が流通しています。

送金についてですが、
戦地には「野戦郵便局」があり、
その中には軍人専用の「軍事郵便貯金」(貯蓄増強運動の一環として軍人、軍属を対象した貯金)がありました。
口座は現金として記載される筈なので、これから送金した場合、受け取り先で軍票が渡される事はありえません。
(何かの偶然で、手に入れた軍票を郵送で送ってしまうような、うっかりさんがいたかもしれませんが)
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この回答へのお礼

 詳しい説明をありがとうございました。大変よく理解できました。

お礼日時:2013/09/07 08:36

知恵袋からの引用ですが、私が祖母から聞いた話と一致しますのでご一読を。


現在ではまったく理解不能でしょうが、これが現実であった。

1945年の100円は現在の189809 円、
つまり1945年当時の1円は現在の1898円というのを目安とします。


日本陸軍で「兵」と定義されているのは、
二等兵、一等兵、上等兵ですが、給与と呼べない金額です。
()内は上記の目安で換算した現在の金額です。
2等兵・・6.5円~9円(12337円~17082円)
1等兵・・・9円(17082円)
上等兵・・・10.5円(19929円)

が、外地では少ない上に現金ではなく、経済的な裏付けのない
軍票が支払われていたようで、収入が無いのも同じでした。

徴兵される兵士の多くが悩んでいたのは、自分の生命の危険と共に、
残された家族の経済的貧困だったという記述が数多く見られます。
>それでも残された家族のためにと半額以上を送金するのですが、価値のない軍票ですからね。

将官の最高位の大将400~600円 月給は現在値で100万くらい(意外に少ないですね)
しかし現代で月給2万で暮らせますか?妻子もいたりしてたら。
 
とにかく貧しいからと戦争をするとその国はより貧しくなると言う計算が成り立ちます。
(-)+(-)=(-)
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この回答へのお礼

 詳しい説明をありがとうございました。大変よく理解できました。

お礼日時:2013/09/07 08:35

給与は支払われました。


階級は同じで経験年数が同じなら同一。
外地でも本人に支払われた。
以上。
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この回答へのお礼

早速で且つシンプルで分かり易い解答をありがとうございました。

お礼日時:2013/09/07 08:28

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Q戦争に行った兵士の給与

第二次世界大戦での一般兵士の月の給与を教えて下さい。
例えば戦艦ヤマトの乗組員や、戦闘機パイロットなど。
硫黄島に出撃した一般兵士など。
階級のある軍人(少尉~とか少佐~とか少将とか)はかなり貰ってそうですね。。。

Aベストアンサー

 当時の陸海軍人給与ということですが、昭和18年当時のものを月の給与で書き出します。

      陸軍      海軍
大将   550円    550円(以下省略)
中将   483     483
少将   416     416
大佐   370     345
中佐   310     268
少佐   220     194
大尉   155     158
中尉    94      94
少尉    70      70
准尉   110 兵曹長 101
曹長    75 上等兵曹 55
軍曹    30 一等兵曹 28
伍長    20 二等兵曹 23
兵長    13      16
上等兵   10      13
一等兵    9      11
二等兵    6       6

 あと特務士官などがありますが、これは省略させてもらいます。また給与は端数がありますが、それも切り捨てています。また航空機搭乗員・パイロットや大和勤務兵であっても給与の差はほとんど無く、パイロットがその任務上いくつかの特別手当があり、また勤務の特性上栄養を多く取る必要性から、増加食と呼ばれる特別食があるくらいだと考えてもよいかと思います。

 またこれらの給与が当時どのくらいの価値があったかといえば、当時のはがきが1枚2銭、銭湯が大人一人8銭、米10キロ3円36銭、巡査(警察官)の初任給が45円という対照比が手元の資料に付いていますのでこれらをご参考に。
    

 当時の陸海軍人給与ということですが、昭和18年当時のものを月の給与で書き出します。

      陸軍      海軍
大将   550円    550円(以下省略)
中将   483     483
少将   416     416
大佐   370     345
中佐   310     268
少佐   220     194
大尉   155     158
中尉    94      94
少尉    70      70
准尉   110 兵曹長 101
...続きを読む

Q昭和17年頃でいう5円は今で言うとどの位の価値なのでしょうか?

昭和17年頃でいう5円は今で言うとどの位の価値なのでしょうか?

Aベストアンサー

昭和15年春に私の両親は見合い結婚をしました。
母親(90)に聞いた話ですが、当時の結納金は200円だったそうです。
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また、母親が嫁ぐ前に鉄工所の事務員をしてたそうですが、月給35円だったそうです。
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Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q終戦後の、旧日本軍の軍人

旧日本軍の軍人

志願して採用され、職業軍人となった人
令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人

大きく分けて、この二種類でOKですか?

また、太平洋戦争以前からの職業軍人の人達は、ずっと軍からの給料で生計を立てていたと思いますが、終戦後の処遇はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

ズサンすぎると思います。質問者ならびに他の回答者の認識が。

まず質問者が、軍人とは「志願して採用され、職業軍人となった人」「令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人」に二分してOKかとの問いに、誰も訂正をしていない。ひどいもんです。旧日本軍の場合、一般社会から軍人になるのは「志願・徴集・召集」です。多くの人が漠然と考えている徴兵制とは「生まれてからずっと軍隊とはまったく無縁に暮らしていたら、ある日突然“アカガミ”によって“召集”されて兵隊になって戦地まで行ってしまう」とでもいうものでしょうかね。それって、ちょっと問題があります。

軍隊のことをウンヌンする場合には、たとえ戦争中の話題であっても、まず戦争のない平時の仕組みから知っておかないと大抵は結果として大きな間違いになる、と私は断言します。古今東西、どこの軍隊も基本は平時です。その基本のうえに戦時・有事という応用が問われるのです。これから長々と書いていきます。

“徴兵検査”ぐらいは聞いたことがあるでしょう。原則として前年12月1日から当年11月30日までに満20歳になる男子が、春から夏にかけての時期に身体検査(簡単な知能の検査もあるらしいが、この点は私もまだ不勉強)により甲乙丙などと判定されるわけです。その判定とさらにクジで順番が決められて、それによって“現役”、“補充兵役”などに分けられ、“現役”の者が数ヶ月後に予定どおり(強制的といえるでしょう)軍隊に入ります。これを“徴集”といいます。これが兵隊の基本中の基本なんです。“召集”じゃありません。この“徴集”はアカガミなんか一切関係ありません。明治時代に徴兵制が始まってから昭和20(1945)年に軍隊が無くなるまで、平時も戦時もこの“徴集”はありました(末期には年齢が19歳に下がり、身体検査の時期も変わることがありました)。

少し前の文で“現役”と書きました。この“現役”というのは非常に重要なキーワードです。軍隊について無知な人(つまり現代日本人の大多数、あなたも私も)が漠然とイメージする「軍人」とはこの“現役”の軍人だろうと思います。ところが“現役”でない者も結構いるんです。まず軍隊の下っ端である兵隊は何年も“現役”をやっていられません。上で書いた“徴集”で入った兵隊は何年かすれば除隊といって軍隊からシャバに出られます。そうして“予備役”になります。乱暴に今流の表現をすると「軍人OB」とでもいうようなもの。

志願で入った兵隊はふつう“現役”ですが、たとえ軍隊が好きで志願したとしても数年しか兵隊はできません。どうしても軍隊にいたいなら、“現役”下士官を志願して教育を受け採用されれば下士官になります。下士官からは「武官」で、本物の軍人はここからといって良いでしょう。

ところが日本軍の場合、下士官もいつまでも無条件で“現役”でいられるわけでもないのです。数年ごとに再志願というのをして、軍隊の予算とか本人の勤務評定などをクリアして受け入れられれば“現役”の下士官を続けていられます。下手すれば再志願が通らず「お疲れさん」で軍隊を出てシャバで仕事を探すことになります。“予備役”です。ですから「職業軍人」を考える場合に、日本軍の場合はやや不安定な立場の下士官を含めるかどうか議論の余地のあるところです。

将校の場合(軍医なども含めます)、陸軍士官学校などで学んだ“現役”将校なら、まさに
「職業軍人」です。ですが、将校においてさえ“現役”(すなわち「職業軍人」)であり続けることは今の我々が考えるほど容易ではなかっただろう、というのが私の見解です。昔の栄養・衛生事情は悪く、結核をはじめ身体を壊したりするリスクは現代よりはるかに高い、なのに軍隊が求める健康な身体は一般社会よりもレベルが上でしょう。それに将校だって勤務評定を受けます。エライ人に昇進する枠は少ないのです、のんべんだらりと低い階級のまま軍隊にいてもらっては困るのです。将校だっていつ「お疲れさん」と軍隊を出され“予備役”になるかわからない、ということです。“予備役”将校はもう「職業軍人」ではありません。

話は変わりますが“召集”というのは、有事に軍人の数を増やしたい場合やその他(教育のため等々)により“予備役”や、ときとして“補充兵役”の者を軍隊に入れる事です。本当は“現役”のほうが質が高いのだけれど、戦争などでは贅沢を言ってられませんから「臨時」に“予備役”などの人を使うのが“召集”です(あまりにも多くの人が“召集”をすでに述べた“徴集”と混同しています。それが腹立たしいので私はわざわざこんな長文を書いています)。それから既回答の中に「幹部候補生志願して、職業軍人となり・・」というのは、普通ありません。幹部候補生は”予備役”の将校・下士官コースですから「職業軍人」にはなりません(さらに教育を受け転役すれば“現役”ですが、極めて稀な事)。太平洋戦争のような大きな戦争では兵隊も多いし、下士官も増え、将校だって何千人にもなったでしょうが、実は「職業軍人」というのは思ったほど多くはないのです。このへんの事は私が執筆したWikipediaの『幹部候補生 (日本軍)』というのを読んでみてください。

ところで、軍人の定年というのは一般社会より早いものです。運良く健康でクビにならずにいても、エラい階級にならないかぎり早ければ40代から定年がやって来ます。

以上の事を総合すると、たとえ「職業軍人」といっても人生の中で第二、第三の商売をする覚悟を持っているのが普通であったでしょう。これが平時の基本の話です。それを十分に理解してから、初めて「戦争でどうだった」「終戦になってどうした」ということをウンヌンしなければおかしいということです。

最後の最後に質問に対する私の答えとして、「職業軍人」の終戦後の処遇は一般的にいって決して優遇はされなかっただろうと思います。「公職追放」というものもありました。ただ、戦争犯罪人でもなければ、投獄されたりするようなことはないので「職業軍人」ではなかった圧倒的多数の元兵隊や、予備役からの人と同じような普通の厳しい人生だったのではないでしょうか。

終戦からいくらか経ちますが自衛隊(最初は警察予備隊)ができてからは、「公職追放」が解除された元「職業軍人」の中には、適正もあったし、もともと嫌いな道ではなかったでしょうから自衛隊に入隊した人もかなりいます。初期の自衛隊のエライ人は大部分が陸軍士官学校、海軍兵学校など出身の元「職業軍人」といえます。もし本当に興味があったら、比留間弘さんという方の著作を探して読んでみると面白いですよ。もうお亡くなりになっているようですが、陸軍士官学校を出た現役将校でビルマ戦線で苦労したあと終戦になり、戦後はヤミ同然の商売から雑貨屋を始め、公職追放解除後に陸上自衛隊に入った人生を非常に楽しい文章で何冊かの著作にされています。検索すればamazonなどでもザクザク出てきますし、運が良ければ図書館にあります。

参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/幹部候補生_(日本軍)

ズサンすぎると思います。質問者ならびに他の回答者の認識が。

まず質問者が、軍人とは「志願して採用され、職業軍人となった人」「令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人」に二分してOKかとの問いに、誰も訂正をしていない。ひどいもんです。旧日本軍の場合、一般社会から軍人になるのは「志願・徴集・召集」です。多くの人が漠然と考えている徴兵制とは「生まれてからずっと軍隊とはまったく無縁に暮らしていたら、ある日突然“アカガミ”によって“召集”されて兵隊になって戦地まで行ってしまう」とでも...続きを読む

Q「慰安婦」の給料は高給だったのですか?

ネットでは慰安婦(従軍慰安婦)は給料貰っていた、すごい高給だったという掲示板をよく見かけますが本当なのでしょうか?出てくるリンク先を読んでもどうも納得できませんでした。政府は慰安婦はひどい目に遭わされた人で、安倍首相も謝罪したのでしょう?どうも矛盾している気がします。

・ひどいめに遭っていた人(奴隷)がそもそもお金を貰っていたのですか?
・どのくらいのお金だったのか、それは高いものなのか?
・慰安婦は何万人もいたのでしょう、みんな高給取りなのですか?
・日本軍は資料をたくさん燃やしたと聞きます、何を元に考えたらいいのですか?
・研究者(専門家)はなんと言っているのですか?
などの点からも、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

給料の点について回答されている方が多いので、まず、そこからはじめます。
ネットなどでは、「月給300円以上で慰安婦を募集する」という募集広告を根拠に何か言っている人が時々いますが、そもそも、水商売の募集広告に書いてある金額を信じるなんて、あまりに無邪気すぎるんで、これは論外。

次に、いわゆる元慰安婦が約26千円の郵便貯金の払い戻しを求めて裁判を起こした件ですが、これ以外に5千円を家に送ったらしいので、単純に月平均にすると1400円ぐらいになります。本人がそういっているのですから、積極的に疑う理由はないでしょう。また、本人が、軍人からもらったチップを貯めた、と言っているのも、積極的に疑う理由もないでしょう。ですから、給料を推測する資料にはなりませんが、とにかく名目上だろうがなんだろうが、現金もしくはそれに相当するもので、かなりの額を手に入れていた人がいた、というのは、事実と考えてよいと思います。
因みに、ビルマなどの前線でいかにインフレがひどかったか、といった点については、↓のサイトをご覧下さい。(26千円の方は信用するのに、チップの方は「チップでそんな金額になるはずがない」なんて乱暴な主張を平気でする人が時々いるもんで…)
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10030549652.html

公式文書としては、軍事郵便貯金等特別処理法もあります。↓
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29HO108.html

高額貯金の換算率(法律での「丙」)が、朝鮮&台湾が1.5であるのに対し、華中&華南及びマライ&ビルマでは432なのは、前線に行けば行くほど、インフレがひどかった事の表れです。(よって、日本軍将校の給与と比べるのは全くナンセンスです。戦争中の物資不足の中で、高級軍人&その家族の生活が相対的に楽だったのは、給料のせいじゃない、というのは、「火垂るの墓」を見た人は知っているでしょう。っていうか、そんなの常識だよな…。まして、戦地で紙幣を持っていたってねぇ…)

そして、3つ目が、米軍の捕虜尋問記録です。(↓)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/52405
(但し、この産K新聞の記者は、原文に1ヶ月の売上げと書いてあるのに、どういうわけか2ヶ月の売上げにしている、という摩訶不思議な間違いはしています。誤植かな?↓)
http://d.hatena.ne.jp/pr3/20070522/1179822891
ネット上で、300円~1500円とかいった数字が出てきたら、まず間違いなくこれが元ネタです。例えば↓なんかがそうです。(但し、売上と給料をごっちゃにしているところが、ちゃんと資料を見ていないで、コピペしているだけである事の証拠ではあるが…)
http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/jugun.html
(引用すると、「慰安婦たちの給料は300円から1500円であり、これは当時の日本陸軍の大尉の月給が110円であったことを考えれば法外に高い…」)

じゃ、給料がどうだったかというと、同じ慰安所経営者を尋問した記録(↓)から推測できます。
http://www.geocities.com/theaterapo689/
これによれば、売上げの50~60%を経営者が取るので、売上げが月1500円だったら、慰安婦の給料は、50%をとられるのであれば、月750円という事になります。(同じ対象の尋問記録に、300~1500円とあるのだから、750円は一番高い方って事になる。)で、その一番高い給料である月750円でリッチな生活を送っていたかというと、その尋問記録が書いています。『Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.』…と。
つまり、経営者が食料などを高い値段で売りつけて、慰安婦達の生活を「very difficult」にしたって事ですね。但し、↓の学生さんのレポートによれば、『この資料に出てくるデータで女性たちの売り上げを計算してみると、平均で、上記の300円を多少上回る程度です。(一日当たりの利用人数と料金を22人の女性で平均してみたものです) 』とあります。私は元ネタを確認していませんが、もしこの学生さんの言うとおりならば、300円~1500円という売上げ自体、そのまま信用しない方がいいのかも知れません。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/shiraisi.html


まぁ、給与に関してはこんなものです。みんなが高級取りかだったかどうかは、わかりようがありません。

>日本軍は資料をたくさん燃やしたと聞きます、何を元に考えたらいいのですか?
731部隊などについては、燃やしたという話がありますが、慰安婦に関する資料を燃やした、という話は私はあまり聞いた事がありません。しかし、資料が現に無いものは無いので、「資料が無い」という事実は動かしようがありません。

ところで「当時は、売春は合法でしたから問題ない」と結構大胆に言い切る人がネットでは多いんですが、ポイントをはずしています。確かに、売春は合法でしたが、「強制売春」は非合法です。『娼妓取締規則』(明治33年10月内務省令44号)の13条の6に『本人の意に反して強て娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請を為さしめたる者』は罰金又は重禁固、ってちゃんと書いてあります。人身売買も言うまでも無く非合法です。(いくら戦前の日本でも、人身売買や強制売春を合法にしてしまうほど、無茶苦茶な国じゃありません。)
つまり、慰安婦が金をもらっていたから合法、よって、日本は悪くない、なんて事は全然無い訳です。
この問題については、ネット上で自分の論文がまるっきり逆の意味に使われてびっくりした、ある現代史の学者が、個人を相手にしてあげた例がありますので、ご覧下さい。↓
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/1
もうひとつ、よく見られる『ボケ』は、強制連行or強制徴用はない(厳密に言えば、強制連行などに、日本軍や官憲などが直接関与した事を示す文書はない、というべきだが…)と言うだけで、話が済んだと思い込んでいるものです。これは、上にあげた産K新聞の記事を書いたF森氏のブログでも見られます。↓
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/171421/allcmt

このブログ&記事は、そもそも、学生ですら知っていて、ネットでは以前からしょっちゅう引用されてきた資料を、「米陸軍の調査報告書があることがわかった」などと、さも新しい事実であるかのように書いているところからして、読む方が恥ずかしくなるような代物ですが、とにかく、F森氏が、(無知な自分としてはやっと見つけた?)資料が、「日本軍が女性たちを組織的に強制徴用して性的奴隷化した」というような米国議会の決議案の解釈や表現とはまったく異なる事情を伝えている。」んだそうです。

この手のボケは、結構笑える結果をもたらしています。例えば「自虐史観を批判する方々」の親玉であるF岡信勝のブログをご覧下さい。
http://blog.so-net.ne.jp/fujioka-nobukatsu/2007-03-28

ここに入っているある人のコメントにあるのは、
1.(米下院慰安婦決議案)は、素直に読めば、「若い女性たちを、性奉仕奴隷として、(働くことを)日本軍が強制した」ということであり、「性奴隷として、強制連行した」とは読めない
2.日本軍の為の慰安婦の人身売買(Trafficking)は決して起こっていないなどとは、日本の誰も言っていないわけで、むしろ 「あれは、人身売買に過ぎない」と云っている
の2点です。
そして、F岡信勝の返事は『決議案では、(軍、官憲の)「強制連行」をあまり強調していないというのは、その通り』(強調も何も、そんな事書いてないダローが!)『Trafficking にすぎない、という論点も全くご指摘のとおり』というものです。何の事は無い、『決議案に書いてある事実に関して、議論する余地は無い』って事じゃないですか。

まぁ、産K新聞のF森記者が何を書こうが、それを信じてしまうのは、読む本人の問題だし、F岡信勝も同じレベルですが、一国の首相たるものが、この決議案に対して「狭義の強制連行はなかった」なんて文句をつけるのは、マンガでしかありません。ホント、恥ずかしい限りです。

実際に決議案に文句をつけるとしたら、「日本軍は、単なる客であって、ほとんど関与していない」と言うしかないのですが、下の参考URLに入れたように、日本軍の深い関与は、資料が焼却されていようがいまいが、既に判明している事なので、これを否定するのは難しいです。

参考URL:http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/guniansyo.html

給料の点について回答されている方が多いので、まず、そこからはじめます。
ネットなどでは、「月給300円以上で慰安婦を募集する」という募集広告を根拠に何か言っている人が時々いますが、そもそも、水商売の募集広告に書いてある金額を信じるなんて、あまりに無邪気すぎるんで、これは論外。

次に、いわゆる元慰安婦が約26千円の郵便貯金の払い戻しを求めて裁判を起こした件ですが、これ以外に5千円を家に送ったらしいので、単純に月平均にすると1400円ぐらいになります。本人がそういっているのですから、...続きを読む

Q軍人恩給(?)受給者が死亡した場合の遺族年金について

父(93歳)が軍人恩給(正確な表現は不明)を受給していましたが先日他界しました。今後、母(84歳)が遺族年金として何がしかのお金を得ることができるのでしょうか?
なお、子供は全て独立しています。
   父の受給額は年150万円くらいでした。
   母は現在、年金を年25万円くらいもらっています。 

Aベストアンサー

お父様の受給していた軍人恩給の正確な種別がわからないと確実なお答えはできませんが、
一般論としては、(軍人を含む)公務員としての勤務による恩給受給権者本人が死亡した場合には、その妻は再婚等しない限り、「扶助料」(遺族年金に相当するものです)を受ける権利が発生します。

正確には、お父様の受給していた恩給の証書の記号番号をご確認の上、総務省人事・恩給局にご確認されることをお勧めします。
(参考URLに、総務省の公表している恩給制度に関するQ&Aのwebページを示します)

参考URL:http://www.soumu.go.jp/jinji/onkyu_qa.htm#q9

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q第二次世界大戦の日本兵の死亡率

あの戦争で何人の日本兵が戦地に赴き、そのうち何パーセントぐらいが帰還したのでしょうか。ご存知の方、宜しくご教授ください。
(出典も教えて頂ければ幸いです〉

Aベストアンサー

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3万1358人のおよそ三分の一であった。戦死・行方不明は合わせて2万1138人、そのうち戦闘で死亡した兵士は5000人ほどと推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたのであった。
 
 精神論だけで勝とうとする日本軍の指導者について以下のように記載してあります。
 >またアルビン・クックス教授は、このノモンハン事件(死傷率70%)の失敗が太平洋戦争でも繰り返されたもう一つの大きな点は、事件の指導者(辻正信、服部卓四郎)が責任も取らずに再び太平洋戦争も指揮したことにあるとしている。

インパール作戦でも半数は補給作戦もなく、飢えと病で死んでいます。NHK取材班「責任なき戦場 インパール」(角川文庫)

 
 

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3...続きを読む

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

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「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む


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