昔(江戸時代?)は一日2食だったのに3食になった理由はなぜでしょうか?
2食の時代の方が体動かすことが多かったと思うのですが。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

元々は日本も外国も1~2食の場合が多かったと言われています。



そして、2食が3食になったきっかけは、発明家で有名なエジソンが、
1日3食を強く勧めてた事が大きく影響したとされています。

その根底には、エジソンが発電から送電まで事業化した事が主になるのですが、
それと同時に、パンを焼くトースターの発明をした事をきっかけとし、
トースターを売る為と、電気の需要を高める為に、「1日3食」を宣伝したとされています。

実際にはエジソンだけの功績ではなく、
政治の問題や人々の暮らしが豊かになってきた事&生活が安定・変わってきた事が重なって、
1日3食という文化も自然に受け入れられ、今に至るのだと思われます。

日本の場合も元々は1~2食が主だったようですが、
その理由は、基本的に貧しかったからだと思われます。

江戸時代でも将軍や大奥では1日3食の食事を摂っていたという記述が残っているので、
当時の人でも「腹が減ったら食う」とすると3食だったのだと思います。

しかし、一般的な人達は生活に余裕がなかったので、
1日、1~2食で我慢するしかなかったのだと思います。

その間、海外では生活の向上に伴い1日3食の文化が浸透し、
その後、日本でも経済文化の向上と海外の文化や海外の食生活に触れ、
1日3食というスタイルも一般化したと思われます。

基本的には、人も1日〇食とはせず、「腹が減ったら食う」ということで良いと思うのですが、
それでは食事時間も皆バラバラになってしまいますし、
人が集まって何かに取り組む際には、纏まりが無くなってしまいます。

したがって、休憩時間や食事時間を決めて統一する方が好ましいという事で、
現在に至るのだと思われますがどうでしょうか?
    • good
    • 7
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/04 20:22

>昔(江戸時代?)は一日2食だったのに3食になった理由はなぜでしょうか?



 2食や3食だったのは、貴族とか上級武士とか僧侶とかの上流階級だけで、人口の多くを占める肉体労働者(農民)の食事は4~6食とるのが普通です。

 岩手県のある農村ではアサナラス(午前4時)とアシヤエ(午前7時)の朝食、コビリ(午前10時)とオヒル(午後1時)、アトコビリ(午後4時)、そしてユーハン(午後8時)と1日に6回の食事をとっていたという記録(瀬川氏・食生活の歴史)があります。
 (肉体労働者に間食用の手当てを支給していた例は洋の東西を問わず有りますし…。)

 今でも大工に仕事を依頼した時に、10時や15時くらいにちょっとした間食を依頼主が振舞うのはその名残ですね。
 (まあ、今でも農繁期の農家だと3食じゃ体持ちません…。)

 あと、一日2食で済ましていたら、江戸時代の江戸(江戸町民には商人などの軽労働者も多かった筈ですが…。)での寿司や蕎麦や茶屋での団子および屋台で一杯といった間食文化が発展した事の理由が説明できません。

 日本で1日3食が一般的に成ったのって学校での教育(明治から一部では給食が配られています。)や欧米型のオフィスでの執務時間を採用しだした明治以降だと思います。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/04 20:22

ロウソクが普及して、仕事の時間が長くなったからだと言われています


欧米でも、同じだそうです

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20 …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/04 20:22

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q食事マナーで恋人を決めるのは心が狭い?

相談させてください。

私はどうしても食事のマナーで人を判断していまいます。
恋人も例外ではなく、食事に行ってマナーができてない人はどんなに好きでも恋人関係にまでいくことはありません。

食事のマナーと言っても、フルコースのテーブルマナーや魚を綺麗に食べる等の高度なものではありません。
お箸を正確に持つ・犬食いをしない・肘をつかないと言った基本的なマナーです。

これを女友達と男友達にそれぞれ質問したところ、どちらからも「細かいな~」と言われてしまいました。
ちなみに、男友達は箸もまともに持てない人だったので正直イラッとしました。
食事マナーが出来ない人は「誰にも迷惑かけてない!」と怒りますが、一緒に食べてるこちらは不快です。箸すらまともに持てない人は他のマナー違反も平気でしますし、しかも全く自覚がない人が大半です。

そこで質問なんですが、食事マナーで恋人を決めるのは心が狭いのでしょうか?
私の考えは厳しすぎますか?

Aベストアンサー

 
べつに、それで良いと思います

好き嫌いは人それぞれです
結婚まで考えるなら日常の行動で我慢できない事は避けるのが良いと思います
 

Q将軍が無能でも江戸時代が平和だった理由

江戸時代、有能と言われた将軍は数えるほどで、多くの将軍は凡庸な能力しかなかったと思いますが、全般的に平和な時代だったと言われています。
例えば中国の皇帝であれば、皇帝に能力が無ければ国の乱れに直結しますから、平和な時代を築き上げればそれだけで名君と呼ばれていたはずです。だとしたら歴代の徳川将軍は稀に見る名君揃いだったとも言えるわけです。

将軍が無能でも平和を謳歌できた理由として考えられるのは、
①日本は大陸から離れた島国であり、外敵から襲われる機会も少なく、また国民も大方が平和を望んでおり、将軍に取って変わろうという者も少なかった。

②徳川将軍は権威を持つだけで実務は老中以下の臣下が行っており、第二の天皇化していた。そのため誰が行っても実際のところ問題がなかった。

③歴代の将軍のほとんどが世界的に見ればそれなりに有能だったが、家康や吉宗などの能力が飛び抜けていたため霞んで見えるだけ。海外の評判の悪い皇帝や王は苛政や殺戮を行ったが、徳川将軍の中には暴君として知られる者はいない。

理由として考えられるのはこの辺りだと思いますが、どうでしょうか。

江戸時代、有能と言われた将軍は数えるほどで、多くの将軍は凡庸な能力しかなかったと思いますが、全般的に平和な時代だったと言われています。
例えば中国の皇帝であれば、皇帝に能力が無ければ国の乱れに直結しますから、平和な時代を築き上げればそれだけで名君と呼ばれていたはずです。だとしたら歴代の徳川将軍は稀に見る名君揃いだったとも言えるわけです。

将軍が無能でも平和を謳歌できた理由として考えられるのは、
①日本は大陸から離れた島国であり、外敵から襲われる機会も少なく、また国民も大方...続きを読む

Aベストアンサー

反乱を起こしにくい道徳的支配体制と制度的支配体制が両輪と
なって存在していたことが最大の理由でしょう。

中国の場合、皇帝が有能か無能かに関係なく、天変地異、飢饉
などをきっかけに農民反乱、宗教反乱などが一旦起こると、
反乱が地方全体を巻き込んで大勢力となって、やがて国の存亡
に関わる危険性が常に存在していました。領土の広大さと統治
人口の多さは、それ自体が支配統治にとって障害となるのです。

更に中国では儒教が形骸化していたため、ヨーロッパのキリスト
教道徳のような精神道徳的支配というものが存在しておらず、
下層民にモラルの通用しない人たちが非常に多かっただけでなく、
臣下に寝首をかかれる危険が常に存在していたことが統治を更に
困難なものとしていました。地方官僚の汚職や地方将軍・武官の
謀反の危険などは、まさに中国の伝統です。従って、中国の場合、
皇帝に最も必要な能力は、危機管理能力と、臣下が信頼できるか
どうかを見抜く目でした。この二つを兼ね備えていれば、名君と
して君臨できたのです。

日本でも幕藩体制初期には、島原の乱に代表される反乱の危機
を迎えますし、慶安の変のような幕府転覆計画も起こりました。
しかし、日本の場合、中国と違って領土が広大ではなく、監視
の目が行き届くコンパクトな領土であったことから、この時期
に起こった事件を教訓として策定された浪人や農民一揆への対策、
諸藩への統制が非常にしっかりと根付き、行われ続けました。
また、モラル的には儒教的道徳観、武士道がしっかりと根付いて
いたために、赤穂浪士が人気となるような世情となります。こう
いう社会では反乱は心理的にも非常に起こしにくいものです。
ですから、一揆などを起こす場合でも、責任者、首謀者が分から
ないような唐傘連判状のようなものができるのです。つまり、
一揆を起こす側が自分たちの行動に後ろめたさを持つような社会
だったのです。これは世界的に見て異例なことでした。

幕末期に密貿易により薩摩・長州などが力を持つようになるまで、
つまり外国の影響が内政に及ぶまでは、この両輪の統治支配体制
がうまくいっていたので、将軍に特別な能力は不要だったのです。
官僚体制に関していえば日本も中国も似たようなものでした。
官僚体制がモラルで支えられているかどうかが大きな違いだった
のです。

反乱を起こしにくい道徳的支配体制と制度的支配体制が両輪と
なって存在していたことが最大の理由でしょう。

中国の場合、皇帝が有能か無能かに関係なく、天変地異、飢饉
などをきっかけに農民反乱、宗教反乱などが一旦起こると、
反乱が地方全体を巻き込んで大勢力となって、やがて国の存亡
に関わる危険性が常に存在していました。領土の広大さと統治
人口の多さは、それ自体が支配統治にとって障害となるのです。

更に中国では儒教が形骸化していたため、ヨーロッパのキリスト
教道徳のような精神...続きを読む

Q食事のマナーについて

食事のマナーについてお尋ねします。
箸の持ち方が悪いのは、まだ許せるのですが(グルメ番組で箸をちゃんともてない芸能人が、薀蓄をたれるのは我慢できないですが・・)、肘を突いて食事をするのが許せません。私(40代)が子供の時にはひじをついて食事すると、親からこっぴどくしかられました。ところが、結構なお年(団塊世代?)のご夫婦が、二人そろってひじをついて食事をしている姿をよく見かけます。これでは多分彼らの子供もマナーどころじゃあないですよね。
日本では、ひじをついて食事しないのは当然のマナーですよね?なんだか最近不安になってきました。皆さんはどう思いますか。

Aベストアンサー

私も同感です。
姿勢、箸の持ち方、肘を突く、膝を立てる、左手を添えない、口を開けてクチャクチャ
あぁ!同じ食卓を囲みたくない!近くに来ないで!と思ってしまうタイプです。

私は30代後半ですが、micklutaさんと同じく、そりゃーもぅ厳しく躾けられましたよ。

マナーというか作法が出来ないうちは、外食も出来ませんでした。
(両親が、恥をかくから、連れて行かない・・と。私、小1でフルコースOKでした)

うちは、うちの家族だけじゃなく、うちの一族みな、そういう風に躾けられました。
従兄弟など「食事のマナーが汚いから、彼女を家に連れて行けない」と悩むほど。

なぜ日本古来のマナーや作法が崩れたか・・

1、共働き・核家族が増え教える機会がなくなった。
2、食卓が座卓ではなくダイニングテーブルになった。
3、ファストフードが増えた。・・・・・・ってなトコでしょうか・・。

確かにハンバーガーやフライドポテトを、姿勢正しく左手を添えて・・って食べないですよね
あ、あと団塊世代は、何につけてもマナー悪いですよ。

Q日本の全ての時代で江戸時代が最も栄養状態が悪い理由

平和で、しかも国民の8割が農業または漁業に従事していたのに「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」と書かれている。江戸時代の日本人の栄養状態が戦国時代や平安時代より悪かったのはなぜでしょうか。
過去質問によると江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか。
何割までと定めたルールは現実には守られず、武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大しています。
栄養状態が悪い状況下で長期間に渡って人口が増加するということは考えにくいのではないのでしょうか。

頭蓋骨の形も上から見て丸くなったり楕円型に長くなっているそうです。
人骨や烏帽子などから鎌倉時代の人達は、楕円型に長かったようです。
このようなことからすると、鎌倉時代の人達は欧米人に近い体型だったようです。
江戸時代は丸かったそうです。
小柄で丸顔で鼻ぺちゃが江戸っ子の平均的な人相だったようです。
面長な花魁がもてるわけです。

このように時代によってサイクル的に変化する理由については未だに定説がありません。

江戸時代の農村は決して貧しくはありませんでした。
貧農史観というのは、明治政府が自己の正当化のために江戸時代を卑下中傷した結果です。
さらに、第二次世界大戦後の左翼系思想家が自虐的史観のなかで喧伝しました。
明治時代の方が農村は疲弊していました。
江戸時代の年貢の税率が一見高かったのは、帳簿上の数値の上でだけの話で、実行税率は低下しています。
困窮していたのは武家層です。
武家の財政は幕府、大名のみならず御家人にいたるまで破綻していました。
貧農史観のように農村が貧しかったというのは、郷土芸能が盛んになり伝承されてきた事実と辻褄があいません。
食うや食わずの人達が踊りや民謡にせいを出すとお考えでしょうか。
祭りの行事などを金をかけて200年も300年も伝承できたとお考えでしょうか。
武家が盆踊りをしたり村芝居をしたなどという話は寡聞にして知りません。
下記サイトをご参照ください。

石高 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/石高

江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?
www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm

百姓の年貢負担は重くはなかった
www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-19.htm

下記のような書籍も出版されています。

貧農史観を見直す  佐藤常雄/大石慎三郎    講談社現代新書

農民一揆も左翼思想家がいう階級闘争ではありませんでした。
農村の内部というのはピラミッド構造をしていて農民どうしで経済力に著しい差がありました。
年貢徴収の実務は、富裕層の農民からなる名主(庄屋)を頂点とした自治組織が担っていました。
年貢も個人単位ではなく、村落単位で課税されていました。
低所得者層は年貢納入の義務からは外されていました。
むしろ富裕層の農民に対する低所得者層の農民の不満が蓄積された結果のものの方が多数を占めています。
なかには、なれあい一揆もありました。
下記サイトをご参照下さい

本百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/本百姓

水呑百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/水呑百姓

一揆の実態については下記のような書籍があります。

一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで 呉座勇一 洋泉社

こんなコメントがある書籍です。
一揆からイメージされる、権力(悪代官)に立ち向かう民衆(正義)という単純な勧善懲悪的なものではなくけん制、戦略、取引、なれ合い、デモンストレーション、平等性の演出とか、一揆の中にそういう生身の人間の様子が感じられたのは興味深かったです。

>江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか

馬車
車輪を使った移動手段は平安時代までは牛車がありました。市中専用でした。
車輪を使った移動方法というのは、大陸のように固い平坦地が続く地形では有効です。
山岳と起伏に富み、急峻な河川と沼沢地に囲まれた日本列島の地形では恐ろしく効率の悪い移動手段です。
日本中に隣の村落へ行くのに川を渡らずに行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
橋は台風などで年中行事のように流されます。水量の増減が激しいのが日本の河川の特徴です。
コンクリートのダムなど無い時代です。
同じように峠を越えることなく隣国へ行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
石の無い砂地だけの河原を持った河川がどれだけありますか。
馬車をひかせるよりも、背中に乗せた方がはるかに移動が自由です。
アスファルト道路も高速道路もない時代です。


軍船以外には特に規制はありませんでした。
下記に述べる理由により、交易船の難破沈没が多かったことから、リスク分散の観点と経済効率から700石~800石程度が主流で最大でも3000石のものが数隻あっただけです。
理由
(1)日本の沿岸海域は潮流が複雑であることは世界的にも有数のものです。
詳しくは下記サイトをご覧下さい

黒潮の組織的渦構造と沿岸水域環境との間の乱流論的プロセス
library.jsce.or.jp/jsce/open/00008/1996/43-0411.pdf

海洋スケールの渦現象
www.nagare.or.jp/download/noauth.html?dd=assets/files/downlo...

一たび黒潮の外へ流されればあとは太平洋があるだけです。
生きて帰れる保証はありません。まして積荷の保証は不可能です。

夏季には南方海上で発生した台風が来襲します。
季節の変わり目には長期間にわたって前線が停滞します。(梅雨前線、秋雨前線)
天気予報技術が未発達な状態で、天候の急変、風向きの急変、突風などの予測は人間の勘以外に頼るものがありません。

(2)海外への渡航が制限されていた結果、大型外洋船の需要がありませんでした。
(3)港湾設備が未発達であったことから、喫水の深い船は接岸できませんでした。
これらの理由により下記のような独特の構造の船が発達しました。
洋式帆船と和船の違いは下記のサイトをご覧下さい

洋船と和船のちがい - 日本財団 図書館
nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/003.htm

大きな船を作る技術が無かったわけではありません。作れなかったのではなく作る必要がなかったためです。
伊達政宗が1613年に派遣した慶長遣欧使節団が太平洋を渡るのに使った洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号は日本人の船大工が作ったものです。伊達藩での使用が終了した後はヨーロッパへ回航されて長く現地で使われていました。

車両にせよ船にせよ国防上の理由などというものは何処にもありません。

>農業・魚業には何か制限や制約はありましたか
特別なものはありません。
当時の海も川も池も沼も清潔でした。農薬だのなんだのと化学薬品が混じることはありませんでえした。
江戸だろうが大阪だろうが街の傍の海へ入れば魚介類はいくらでもとれました。
時には江戸湾(現東京湾)でクジラが採れることもありました。
潮干狩りは子女の季節の楽しみの一つでした。
内陸の池や川にはどじょうもたにしも潤沢にいました。子供でも採れます。
ただし、クール宅急便がありませんし、家に冷蔵庫もなかったので、内陸部で海の魚の刺身を食べるのは難しかったです。
ただし、干物は潤沢に出回っていました。
川魚はどこでもいくらでも採れました。

大阪と松前を往復していた北前船の主要な荷物は身欠きにしんでした。
食べるだけではなく綿の肥料にも使われていました。
現在でも関西ではぼうだら(干だら)は正月には欠かせない食材です。
関西料理の出汁は昆布です。昆布も鱈も鰊も大阪湾では取れません。
物流の発達した江戸時代が、それ以前の時代よりも食材が不足していたなどという史実は寡聞にして知りません。

>武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
このようなバカ侍は希少価値がありました。
武家というのは米がすべての生活の基本です。
武家は米を金に換えて生活していました。
自分の生活を支えている農民を虐待する意味はどこにもありません。
農民が自領から逃散(逃亡)されてしまえば、翌日から飢え死にするのを待つだけになります。
この逃散という手段は結構つかわれました。
逃げ込んだ隣の大名は労働力が増加して新田の開発が促進できることから喜んで迎え入れました。
下記書籍に詳し書かれています。

逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦  宮崎 克則  (中公新書) [新書]

以上がざっとした説明です。
なにかご質問があれば、補足をお願いします。、

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大して...続きを読む

Q食事マナーは育ちが出る、って言いますが

食事マナーは育ちが出る、って言いますが
食事マナーが悪い人の親ってどんな雰囲気なのでしょうか。


私の友達(男子)の食事マナーは最悪です。
一人っ子なので甘やかして育てられたのかな・・・なんて思うのですが
高学歴なのでそれなりにしっかりしたお母さんなのだろうとは思います。
部屋もぐちゃぐちゃで身だしなみも大して気にせず、という感じです。

「少しは気にした方がいいんじゃない?」
と言ったら
「勉強が忙しくて片づける暇がない」
と言われました。

人間として最低限のマナーのような気がするのですが
こういうのも許されてきたのかな?と思うと疑問です。

こういう家庭の母親ってどんな感じなのだと思いますか。

Aベストアンサー

すいませんねー、私の部屋もとっちらかっています。母親ですか?そりゃーお小言はもう星の数ほどいただきましたよ。子供のときは、散らかしたものを勝手に捨てるという強硬手段をされたこともあります。でも結局治らないですねー。
ただ、社会人になってからは、職場だけはきれいに片付けるようにはなりました。だけどプライベートはどうも苦手ですね。片付けの本を読んで箱などに収めたら、部屋中箱だらけで収拾がつかなくなりました・笑。今私の部屋は箱だらけです。もっと捨てなきゃいかんのですよね。時々まとめて捨てているのですが、それで部屋がスッキリしても、三ヶ月も経つとまた新しく買ってきたものが・・・
どうも空いたスペースがあると何か買ってしまうようです。大抵本とか趣味のものとかですけど。
父親に至っては、殴る投げ飛ばすの力技で教育しようとしました。まあその情熱はある程度は評価しますが、それは残念ながら失敗に終りました。
笑い話がありましてね、ある日父はあまりに部屋を散らかすので私自身を私の部屋から出入り禁止にしたのです。つまり自分の部屋に逆に入らせなかったんですね。自分のプライベートを異常なまでに大事にし、基本引きこもり傾向の我が父は息子がプライバシーを失ったら泣いて許しを請うと思っていたのですが、子供の頃の私はちっともプライバシーを気にしない性質だったのでどこ吹く風。むしろ部屋が散らかっていると怒られることがないので、とうとう「お父さん、僕自分の部屋いらない」といったそうです(←本人は覚えていない)。で、どうなったかって?四六時中居間やらどこやらを息子がうろちょろして父親の方が落ち着かなくなった(夜は居間で息子が寝ているので落ち着いてテレビも見られなくなった)ので父親の方が耐えられなくなって部屋に戻るよう命じました。

ただ、食事のマナーは、ね。それは母親だけの問題じゃなくて両親の問題だと思います。ただ、あくまで個人的経験ですが、食事のマナーがいただけない方は、大概一家揃って食事のマナーがいただけないです・笑。例えばクチャクチャいわしながらご飯を食べる人は、大抵お父さんもクチャクチャ、お母さんもクチャクチャ、兄弟もクチャクチャ、みんな揃ってクチャクチャだからそういう家族と食事を共にすると非常にメシがまずくなるという・笑。

すいませんねー、私の部屋もとっちらかっています。母親ですか?そりゃーお小言はもう星の数ほどいただきましたよ。子供のときは、散らかしたものを勝手に捨てるという強硬手段をされたこともあります。でも結局治らないですねー。
ただ、社会人になってからは、職場だけはきれいに片付けるようにはなりました。だけどプライベートはどうも苦手ですね。片付けの本を読んで箱などに収めたら、部屋中箱だらけで収拾がつかなくなりました・笑。今私の部屋は箱だらけです。もっと捨てなきゃいかんのですよね。時々まと...続きを読む

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q食事のマナー

食事のマナーで、よく言われるのはひじをついて食べてはいけないということですが、今回パリに行って思ったのは、かなり社会的ステイタスの高い方もひじをついて食べているし、パンをカフェオレに浸してびちゃびちゃさせながら食べていたので、昨今あまりマナーにはうるさくないのがかえってマナーなのかなと思ったりします。食事中に「こうするべき、ああするべき」といちいち意識していたらリラックスできないし、その人その人が楽だと思える姿勢で食事するのが一番楽しいのではと思いますが、マナーにについてどのように思われますか?

Aベストアンサー

マナーというのは人を不快にさせないというのは、当たり前のように聞こえますが、昔はマナーを守らないのは切実な問題でした。

マナー・作法というのはどこの国・文化でも、もともと敵同士が和解や戦争中止の会談や会食をするときに、相手を傷つけないということを保証するために発達してきたものです。

ひじをつかないというのは、懐や食器の下などに凶器を隠し持った場合、すばやい動作で相手を傷つけることができるため、そのような誤解を招かないように、常に手を相手の見えるところに出しておくことから来ています。

片ひざを立てるのも同様で、相手が正座していた場合、片ひざのほうが間合いをつめ、斬り付けるのが早くなります。
ですから、相手に無用な誤解や不快感を与えないようにマナーは出来てきているのです。
そしてこのように切実なものを背負った作法がそのうちに相手を尊敬するという意味合いの動作に変わって、武器を持っていない現代でもマナーは大事といわれるのです。

もちろん、場所や文化によってマナーや流儀はかわります。それを全部覚えることはできません。
しかし、ひとつでも作法を覚えることによって、相手を敬う気持ちを養うのは悪い事ではないと思います。

マナーというのは人を不快にさせないというのは、当たり前のように聞こえますが、昔はマナーを守らないのは切実な問題でした。

マナー・作法というのはどこの国・文化でも、もともと敵同士が和解や戦争中止の会談や会食をするときに、相手を傷つけないということを保証するために発達してきたものです。

ひじをつかないというのは、懐や食器の下などに凶器を隠し持った場合、すばやい動作で相手を傷つけることができるため、そのような誤解を招かないように、常に手を相手の見えるところに出しておくことか...続きを読む

Q江戸時代の食生活について

とある本を読んでいた所、江戸時代では「おやつ」に果物を食していたと書いてありました。

果物は主に「ブワ、林檎、桃、ミカン、柿」で果肉が肉や血を連想させる事から野蛮な食べ物とされ上流階級や女性はあまり食べなかったと書いてありました。

そこで、疑問に思ったのですが、「肉や血を連想させる」と言う事は江戸時代には肉は食べていなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

仏教では動物(特に四足歩行動物)の殺生を禁じていたため動物肉は都市部、海岸部では食べる習慣は無かったと思います。山間居住地域には猪、鹿、ウサギ等肉食の習慣はあったのではないでしょうか。
因みに、鳥類は二足なので卵を含め食用であったと考えています。

Q姑の食事マナーが気になります。

同居の姑の食事のマナーについてです。あまり厳しくしつけられなかった家庭に育ったのか
口いっぱいに頬張って喋る、クチャクチャ言わして食べる、お箸と反対側の手は当然のようにテーブルの下、
お皿に口を持っていって食べる犬食い、何でも刺して食べる、肘を付いて食べる等です。
私も人の事を偉そうに言える程、食事のマナーが良いとは思いませんが
上記のような事だけは絶対にしないようにしています。
物凄く気になってたまに「口の中が無くなってから話して」と言いますが
殆んど聞いて貰えてません。姑は自分は食事のマナーは良い方だと思っているみたいです。
その姑に育てられた娘(義妹)は、姑ほど酷くはありませんがお箸の持ち方が
とんでもなかったり、食事中に下な話も平気でします。
私はそう言った食事中にすべきでない話題については物凄く嫌悪感を感じるのですが
私だけなのでしょうか。私には今年娘が生まれましたがこの先、姑と同じ
テーブルで食事をさせるのがイヤでたまりません。まだまだ先の話ですが
娘に食事マナーを注意していたら姑のマナーは直ったりしないでしょうか・・・
長年培ってきたモノなので諦めるべきなのでしょうか・・・。

同居の姑の食事のマナーについてです。あまり厳しくしつけられなかった家庭に育ったのか
口いっぱいに頬張って喋る、クチャクチャ言わして食べる、お箸と反対側の手は当然のようにテーブルの下、
お皿に口を持っていって食べる犬食い、何でも刺して食べる、肘を付いて食べる等です。
私も人の事を偉そうに言える程、食事のマナーが良いとは思いませんが
上記のような事だけは絶対にしないようにしています。
物凄く気になってたまに「口の中が無くなってから話して」と言いますが
殆んど聞いて貰えてません...続きを読む

Aベストアンサー

同居嫁です。horsypals様と同じように感じておりました。
姑は洗うのが面倒だと言い、取り皿を一切使わずすべてご飯の上にのせていました。
時々そのご飯茶碗さえ置いたままで、つつくようにして食べたり犬食いをしていました。
イヤでイヤでたまりませんでした。
「私が洗うのだから取り皿を使って下さい」というと、お刺身もサラダも煮物も全部ごちゃ混ぜにしてしまい、料理を作った側としては悲しい思いをしました。
(味覚オンチでどういう味でも、たくさん食べられれば良かったようです。)
主人もイヤだったようですが、注意すると「あんたに言われる筋はない」と逆ギレされるので、諦めていました。

子どものしつけですが、子どもに注意をすると少しは影響がありましたよ。
自分自身は大変に厳しくしつけられて、食事時がイヤになるくらいでしたので、子どもに対しては1つか2つポイントを絞って言うことにしていました。
嫌味を言ってしまうと雰囲気が悪くなるので、「お箸はどうやって持つのかな」とか「ちゃんとお皿を持とうね」というくらいにして、出来たらほめてました。

子どもはおっとりタイプでしたので、マナーの悪い姑を注意するようなことはありませんでしたが、子どもが注意されている時だけは、その部分だけは良かったです。

ただし、長年の習慣に基づくものですから、子どもが一通り出来るようになってからは元通りでした。
高校生になった子どもはその点は理解していて注意することはありませんが、「あれは最低のマナー」と反面教師にしているらしいです。

姑のマナーについては、家族はみな諦めていて見てみないフリ状態です。
私も図太くなり、自分がおいしくいただけるように心がけています。
(盛り付けカタを変えるとか、犬食いしにくいような小鉢を使うとかです。)
さすがに、トンカツをとろろに入れて食べようとした時は、「やめて!」と叫んでしまいましたが。

同居嫁です。horsypals様と同じように感じておりました。
姑は洗うのが面倒だと言い、取り皿を一切使わずすべてご飯の上にのせていました。
時々そのご飯茶碗さえ置いたままで、つつくようにして食べたり犬食いをしていました。
イヤでイヤでたまりませんでした。
「私が洗うのだから取り皿を使って下さい」というと、お刺身もサラダも煮物も全部ごちゃ混ぜにしてしまい、料理を作った側としては悲しい思いをしました。
(味覚オンチでどういう味でも、たくさん食べられれば良かったようです。)
主人もイヤ...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報