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高宗とかいう王(多分日本が廃位させた)の武具が展示されて話題になっています。
その記事を見てからずっと晴れない疑問なのですが、王が軍装する場面(儀式でも)あったんでしょうか?
日本の天皇だと相当古い時代から文官支配で鎌倉以来の「将軍」でも形式的には公家の下の方だと思う。
明治以降、統帥権とやらで天皇(大元帥)の軍装があるようですが、鎧兜ということはないようで。
今韓国で行われてる観光用のイベントでも近衛兵的な人はせいぜい検非違使的なひとで王が指揮をとることはない、と思う。
識者の方、よろしくご教示ください。

A 回答 (2件)

こんにちは。


朝鮮国王の軍装する場面は狩猟の時だと思います。「朝鮮王 狩猟」で検索をかけると例がいくつか出てきます。高宗(26代国王)が属する李氏朝鮮国王もその例の中に入ります。今年、韓国に行った時に、水原古城に観光に出掛けたのですが、その中の華城行宮の北側に、華寧殿(雲漢閣)があります。その中に、李氏朝鮮22代国王の正租の軍装図(模写だと思います)が掲げられていました。その時はあまり気にも留めなかったのですが、思い出したので、ネットでその画像を見つけ、下記にURLをコピーしておきました。朝鮮では国王の狩猟等の仏教的なタブーは少なかったようで、日本の天皇の行動様式とは大分違うようです。明治時代までの日本の天皇は、例外を除けば、内裏から外に出ることは稀になり、狩猟による殺生戒などの、神道・仏教などの多くの宗教的なタブーや、慣習などに囲まれて生活していて、朝鮮国王とは大いに違っています。
なお、李氏朝鮮に多大な影響を与えた中国清朝は、第6代の乾隆帝までは親征しています。
ところで、日本の天皇について蛇足を。
1、後鳥羽上皇について、「古今著聞集」に、上皇が盗賊捕縛に武士を率いて出動し、船上から櫂で指揮を執った話が出てきます。
2、南朝の後村上天皇が、観応の擾乱のどさくさに男山まで進出(先陣は京都突入)した後、足利幕府軍の反撃にあい、撤退に際して鎧兜を着用したとされます。『太平記』の「南帝八幡御退失事」に「主上は軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官が進せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛なる馬にめされたるを」とありますし、当時の北朝側の公家の日記に、後村上天皇が男山から落去の時に鎧兜を着し、馬に乗り、南(吉野方面)を指して落ちて行ったとあります。その馬の首に何かが下げられていたが、それが三種の神器らしいと書いた記述があります。
後村上天皇の時代は南北朝の戦乱時代ですし、後鳥羽天皇は、安徳天皇の入水と共に、三種の神器の内の剣が失われたことによる喪失感・コンプレックスを持ち、剣的、軍事的なものに対するあこがれ・コンプレックスを持っていた(マルチな才能を持っていた)ともされますが、ともかくも天皇・上皇としては破格な存在ですが、例としてはあります。
いま、海外で、「古今著聞集」や公家の記録の原典を上げることができませんが、内容的には間違は無いと思います。

http://imagex.navi.com/images/communi/seoul/09/3 …

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

出典をあげてご説明いただきありがとうございます。
鎌倉に皇子(親王?)が軍装した像がありますが兜はつけてないようです。
天皇が逃げる時には「おいたわしや」という枕詞がふさわしいようで女装もあったような。

お礼日時:2013/10/26 07:22

似合わぬピッケルハウベに日本で作った大礼服と日本で作ったサーベル


勲章は日本の勲章のコピーデザイン

近代軍は日本で要らなくなったスナイドル銃を貰った
尚、装備は売買されたが、明治16年大山巌の残した公文書に
「装備の代金、何時になったら払うのか?」
と、書き残されています
「朝鮮王の武具」の回答画像1
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
写真の印象はそのまま言うのが憚られるようなきがします。二国間で日本と金銭的なやり取りがあったというのは知りませんでした。
さきほど入力できなかったのですがプラウザの問題でした。

お礼日時:2013/10/26 07:28

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