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その理由。
第1の理由として、日本語が中国化すること。
第2の理由として、文字種に制限を設けないと実務上マイナスであること。
第3の理由として、文字種が多すぎると日本語を学ぶ意欲が損なわれること。
第4の理由として、文字種が多すぎても文学表現的にプラスとはならないこと。
・・・・・その他
・・・・・いろいろあります。

つまりあまりに多くの漢字は日本の文化経済にとって良くないということです。
従って、第1水準漢字(約3000種)程度に納めるべきだと思うのですが、皆さんはどう思いますか。
 

A 回答 (26件中11~20件)

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(多くの漢字を使用することで)日本語が中国化する



あなたがいかに幼稚で単細胞かは、この発言だけでじゅうぶん知れます。
おそらく何を言っても無駄でしょう。

「日本語に文法ってあるの」だって同じ。
たぶんあなたは何にもわかっちゃいない。
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>第1の理由


これはあり得ないと思います。
現在は外来語をカタカナで表記することが広まりました。明治維新の頃は「人民」「共和国」なとどいう学術用語が和製漢語が造語されました。現在の国名の「中華」以外の部分は日本語からの逆輸入です。

>第2の理由
一部賛成です。
人名で特殊な文字を使うことがあります。たとえば「
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ゆとりは可哀想だないと思いました。

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この回答へのお礼

 
ゆとりなきところに芸術は芽生えません、だね。
 

お礼日時:2013/11/02 22:44

多くの漢字は日本語を豊かにしてますよね



季節の挨拶で11月だけで、
晩秋の候
深秋の候
暮秋の候
霜秋の候
向寒の候
冷雨の候
霜寒の候
とこれだけあり、細やかな季節の表現ができ、
和色の表現も漢字を見ただけで色の雰囲気が伝わります。
http://irononamae.web.fc2.com/colorlist/wa.html

漢字による表現を実務上マイナスとういうだけで制限するのは、日本文化を制限することになるとおもます。
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この回答へのお礼

 
こんなものいくら並べられても、面白くもなんともない。
ただのコピペであり、こんなもんからは何らの感動も生まれません。
ハートを感じないし、サウンドもない。
こんなもん全部捨てちまえ。
それしか言えん。
 

お礼日時:2013/11/02 18:31

 「芥川賞受賞作品だから、これが日本文学の理想的な形である」との根拠はどこにもありません。

もしそれが妥当であるならば、平野啓一郎氏の『日蝕』に見られる文体は明らかに森鷗外のそれであり、その後に発表された『一月物語(いちげつものがたり)』は明らかに泉鏡花のそれを意識しての文体です。
 これを逆手にとれば、明治から大正期の文学が「理想の日本文学」となってしまうことになります。「理想の文学」との一見堅牢に見える言葉はヨーロッパ中世の錬金術やヘーゲルの考え方と全く同じ発想で、それ以上のものは他に「絶対的にありえない」との独断と同じと考えることになります 爆!
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 先ず論理が逆ですね。

「漢字イコール中国語」と定義する限りならば、なぜ仮名文字が派生したかを説明する殊ができないことになります。
 >日本語が中国語化する
 >実務上マイナスである
 >日本語を学ぶ意欲が損なわれること
 >文学的表現にプラスにはならないこと
等々色々な口実を見つけているようですが、その一つ一つに合理的な理由と裏付けがあるでしょうか?。僕は疑問です。
 『abさんご』も読んでみましたが、正直「読みづらかった」との第一印象が残った作品でした。逆に『日蝕』を読んでいて安心感を持ったのも、文章としてのパラパラ感がないとの部分に違いがあるのかもしれません。小学校の一年生が書く文章は平かなと片カナだけですから、読みにくい、そのまま読んでいると何か記号の羅列としか見えてこない違和感もあります。
 一つ一つの漢字には「意味がある」。それは漢字が表意文字として本質的な特性を有するからであって、それも元を辿れば、甲骨文字に端を発するといった文化的特質に起因するともいえます。
 同じ「はかる」であっても「度量衡」との言葉が示すのは、「何をどの様にしてはかり、そして知ることができるのか」との「使い方により生ずる意味の違い」があっての理解になることもおわかりでしょう。
 さきほどの「文体の問題」に戻れば、ハ行転呼音の問題を見ても藤原定家や契沖が「日本語」を発音と表記の両側面でどの様に分化させあるいは統合性を持たせるかとの問題に行き着くことになり、表記された作品群に優劣を求めたり、経済的合理性を求めるなどの野卑な発想とは隔たりもあります。
 三点目の「日本語を学ぶ意欲」の問題ですが、小学生の好奇心を見たなら一目瞭然です。篇と旁で形作られた「漢字」を学ぶ上で、木篇に黄と書いて「横」とはなるが、横は樹木の種類ではない、では「なぜ木篇が付いているのか」との疑問を持って「調べる」との動機付けに至りもします。
 そして「漢字イコール中国語」とは必ずしも断定できない背景を考えてみると、「音訓両方の読み方」があって、「暑い」も「厚い」も共に「あつい」と読みますが、使い方はまるで異なりもします。この点が日本語と中国語で事情も異なります。
 別に『abさんご』を貶すわけではありませんが、同じ「今の言葉」を使った作品ならば、僕はいとうせいこうさんの『想像ラジオ』の文章に魅力を感じ、安部公房や丸谷才一そして健三郎や由紀夫、龍之介や漱石の言葉を目にすると「言の葉としての言葉」と同時に「音としてのリズム感」も感じます。
 残念ながら『abさんご』にはそれがなかった、身辺雑記としての評価ならそこらに山とある女子中学生や女子高生の書いた日記と突出して変わる部分がなければ受賞にも至らなかったはずで、逆にそれら全てが受賞しまうことにもなります。
 「かくありし時過ぎて」で始まる『蜻蛉日記』などを読むと、質問者様は面食らうかも知れません。そしてこのタイトルも読み方によっては『かげろふ日記』ともなれば『トンボ日記』ともなり、作品のイメージに大きな違いを生じさせもします。
 結論からすれば、僕はもっと「漢字を多く使った方が良い」とも考えます。読み方は人それぞれ、その時の気分によって「様々なルビを振る」ことも許容される。
 もしこれを現代の中国語の様に「この読み方はコレ」と枠を嵌めてしまうならば、言葉の持つ広がりや可能性を全て一元化する危惧を持つ可能性も多分にある、との理由です。
 経済合理性を第一に求めた太平洋の向こう側にある国では、文学の言葉がすっかりと輝きを失ってもしまったことを考えるとこの様な結論に辿り着くことになりました。寛容さや多様性の上に成り立っている「言葉の役割」こそが同時に「自由を守る最後の砦」としての命綱といえますから。
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この回答へのお礼

 
> 経済合理性を第一に求めた太平洋の向こう側にある国では、文学の言葉がすっかりと輝きを失ってもしまったことを考えるとこの様な結論に辿り着くことになりました。

私は全く別の解釈をします。
アルファベット26文字しか持たない彼らは、言葉に何を求めたのか。
彼らは言葉にサウンドを求めたのである。
彼らはビジュアルよりサウンドを大切にしたのである。
だから彼らは全身を使ってサウンドを発し、言葉は生むのである。
一方日本語は漢字を使ったビジュアルを選んだ。
しかしその日本語とてサウンドを求めることは可能である。
そのためには漢字を制限しなければならない。
これからは日本語もサウンドを求めて良いと思っている。
これからの日本語はサウンド的に豊かになり、パワーを持つようになる。
エグザイルがそれを証明しつつある。
 

お礼日時:2013/11/02 19:02

今時の芥川賞受賞作品が正しい日本語の基準になるという考え方が笑止千万。


中上健治を読んでみなさい。故中上先生は、決して、正しい日本語で小説を書こうなどという馬鹿なことを考えていなかった。
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この回答へのお礼

 
中上健治?
「小して路地に出る」とか言ってたやつかな。
 

お礼日時:2013/11/02 18:34

 逆の考えです。



 日本語は漢字があるがために専門用語で書かれていても意味を推察して読むことができるという大きな特徴があるのです。

(例)

 英語でセトロジー(Cetology)という言葉があります。実は、英語圏の人でもこの単語を知っている人はほとんどいません。

 日本語のカナ書きにしてみます。「げいるいがく」。これで判る人も少ないでしょう。


 漢字で書けば一発で分かります。「鯨類学」これなら小学生でも判ります。

 つまり、漢字はその単語そのものを知らなくても字面を見れば意味が推察できるという点で、発音しかない文字よりもはるかに優れているのです。
 漢字の特徴のおかげで、一般紙でも専門記事を記載することができます。欧米ではそんな記事を載せたところでほとんどの人が理解不能になってしまうので、誰でも読めるようなゴシップ記事や三面記事しか載せることができません。
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この回答へのお礼

 
>「鯨類学」これなら小学生でも判ります。

1つ問題があります。
発音したときに「げいるいがく」では何のことかすぐには分からない。
「クジラ類学」、これくらいが一番よろしい。
「クジラ類学」とすることにより、見てもすぐに分かるし、聞いてもすぐに分かる。
サウンドも大切にしなければなりません。
ビジュアル的でもあり、オーディオ的でもある。
「クジラ類学」が一番よろしい。
 

お礼日時:2013/11/02 15:50

全く逆の意見です。


漢字を中途半端に平仮名表記にするものだから、意味が伝わりにくいケースが増えていると感じます。
手書きの機会が減っているのですから、わかりやすい漢字表記の方が誤解が少なくてすむと思います。

「ら致」「と畜」等の表記を「拉致」「屠畜」に戻して欲しいです。
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この回答へのお礼

 
>漢字を中途半端に平仮名表記にするものだから、意味が伝わりにくいケースが増えていると感じます。

黒田夏子さんの「abさんご」に日本語の新潮流を感じます。
つまりこの作品の表現スタイルが最も理想的な漢字の使い方なのです。
使っている漢字はごく平易なものに限られていますが、決して漢字を中途半端に平仮名表記にしてはいません。
これで芥川賞受賞したのだから間違いありません。
新しい日本語表現の基準にして良いと思う。
 

 

お礼日時:2013/11/02 14:49

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