「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

よろしくお願いします。

僕は予備校に通う浪人生です。
最近進路について考えることが多くなってきて、とりあえず何かしてみようと思って本を読んだり、国境なき医師団に寄付してみたり、近くの献血ルームに献血しに行ったりしているんです。
そこで質問があるのですが、なぜ人はほかの人の役に立つと気持ちいいとか、うれしいと思うのでしょうか?
僕自身の経験だと
(1)自分自身に自信が持てるようになる(自己肯定感)
(2)前向きな気持ちになる
(3)よく分からないけれどもなんかハッピー
のような気持ちになります。

人間は社会的な生き物だからでしょうか?
与えることで与えられるとも言われています。
寄付をすることでお金の運のようなものが回ってくるとほかのサイトなどにあって、ちょっといやだなと思ったので質問させてもらいました。

A 回答 (5件)

ボランティアと賃金労働は、対立するもののように考えられが


ちですが、賃金労働も実質的には助け合いに他なりません。
人の意識が、『働きたくないけど、お金をもらうために仕方なく
働いている』か、『社会貢献の喜びを最大限に感じるために、
手段としてお金をもらう』かの、内面的な違いであって。

生命にとって生きる事が目的であり、社会生命である人類
にとって、それは働く事であるはずです。
ところが社会性(分業化・組織化)の発達において、そう
した自己の生命性の拡張(助け合い)を把握できる認識の
深まりを怠り、自己チューな意識のままお金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”によって、他律的に社会性の
コースを走らせる方法論をとったのです。

あなたの身の回りの物は衣食住全て、世界中の人々の営為
によっており、実態として助け合っているのです。
ところが、生命として生きる事そのもの=喜びであるはずの
労働を、お金をもらうためにイヤイヤ働くものにしてしまっ
たために、お金をもうけて自分は働かなくて済むようになる
ために働くという、矛盾と苦痛に満ちたものになったのです。
その結果、助け合い喜びに充ちたはずの社会は、競い合い
奪い合う弱肉強食のジャングルにしてしまったのです。

生物的に根源的な、あなたの生きる意志において、他人
との助け合いは必須となっており、その自己存在の本質
に根差した意志は、自己の存続のための必然との一致
(=生きる事自体による喜び)だけでなく、そうした深い認識
に基づく精神的充足(一過的な短絡的ではない持続的な
幸福感)として、同じ結果でもより大きな精神的充足につな
がるのです。
また、その他我=他人の喜びを自らの喜びにする事で、
その自分の喜びを他人が喜びとする相乗効果に於ても、
個体としての「人生を通算した精神的充足量の最大化」
だけでなく、「全人類の精神的充足量の総和の最大化」
が可能になるのです。
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己の存在価値が確認できるからです。



人間は、社会の中で育たないと人間になれません。
他人との関係を持って育たないと、二足歩行すら
ままならない動物です。
人間と社会は、切り離せない関係にあるのです。

この社会にあって、初めて人間の存在価値も
あるのです。
人の役に立つことは、己の存在価値を確認できる
のです。
だから嬉しい気持ちになれるのです。

この、存在価値の確認というのは本能的なもので
負の行動で、己の存在価値を確認しようとする
場合もあります。
暴走族が意味も無く騒ぐのは、この本能に基づきます。
俺はここに存在するんだぞ!
認めろよ!
て具合です。
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ドーパミンの分泌が増えるからでないのかな?

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私も回答を書こうと思ったのですが、回答1の方の説明を読みましたら付け加えることはありませんでした。



私もその通りだと思います。
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こんにちは。


人の役に立つことですが
ほとんどは自己満足です
しかし 自分を必要とする人がいるということは
この上ない心の支えになります 自分は認められている
自分はここにいていいんだ という安心感
人に感謝されると また誰かに親切をしたくなります
誰かのために 役に立ちたい という気持ちは
とても大切ですね。

他人のためは自分のためでもあります
しかし 私たちは独りきりでは生きることができない生き物で
人の繋がりを大切にすること そして感じることで 自分もその中の一人だという気持ちが芽生え
自然と前向きになり 幸せになれるのではないでしょうか


  
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